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桜海冬月短編集

人はそれを愛と呼ぶ

作者: 桜海冬月

老人は夢の中にいた。夢だと理解できるのは老人の身体が少年の時のそれであったからだ。

老人は既に自由に歩ける体ではなかったため、例え夢であっても歩けることが嬉しく、子供の頃に過ごしていた郷里の景色を懐かしみながら走り回る。


「あれ?」


老人はふと人影を見つけて立ち止まった。

人影は誰よりも愛おしく誰よりも絆の深かった人。


「清登か?」

「喜代次お兄ちゃん!」


老人の弟だった。清登は老人の声に反応するとすぐに老人の元へと駆け寄ってきて、久々の邂逅を噛み締めるように抱き着いてきた。


「久しぶりだな。元気にしてたか?」


幼いままの弟の頭を撫でながら問う。


「うん。癌とか、病気にも何回かなったけど元気だったよ。······少し前まではね。お兄ちゃんはどうだった?」


老人は弟の小さな間に浮かんだ暗い表情に気づくことなく、再会を喜びながら、神に感謝しながら答えた。


「兄ちゃんはなぁ、散々だったぞ。認知症になっちゃってな。忘れたくないことも少しずつ記憶から失くなっていくのが辛かった。初めに近所の友人のことを忘れていき、次には古くからの友達を、孫を、息子を、娘を、母を、父を、妻を、そして清登、お前のことを。最初は障子の和紙を剥がしていくようにゆっくりと、気付いたときには思い出せない彼方に記憶が飛んでいく。掘り返しても掘り返しても井戸水が枯れたように何も戻ってなどきやしない」


しかし、自分の身の上話をするうちに目頭が熱くなってくる。それは不器用な老人の苦しくても妻が先立って以降は誰にも心のうちを明かすことができなかった孤独感を、やっと話すことができた解放感を示しているようだった。


「大丈夫だよ。()()()()()()()()()()()()


まるで弟と兄の立場が逆転したかのように、今度は弟が慰める番になった。老人を慰めながら、夕焼けが始まるまでの長くも短い時間を二人は昔話に興じる。

忘れていた昔の楽しい話をするうちに、老人は立ち直って笑い声を上げるようになった。


「そろそろ夕焼けだな」

「うん。そうだね。じゃあ、僕の話をするね」


清登は老人の呟きに言葉を返すと、物憂げで寂しそうな表情で自分の身の上話を始める。


「僕はね、もう死んじゃったんだよ。肺の癌を拗らせてね。でも、お兄ちゃんは会いに来てくれなかったでしょ?だから、それが心残りで、最期に会いたいと思ったんだ。お兄ちゃんの記憶が戻っているのも、多分僕が強く望んだからだと思う」

「え?」


清登の宣告は老人には青天の霹靂だった。自分よりも長く生きると信じて疑わなかった弟が死んだと言ったのだから当然だ。


呆気にとられて何も返せない老人に清登は不本意ながらも無情に言い放った。頬に涙をこぼしながら


「お兄ちゃん、もう時間が来たみたい。最期に会えて幸せだったよ。僕は先にいくね」


明瞭だった弟の姿が秒針も進まないほどの刹那の時間にどんどんと薄らいでゆく。


「待ってくれ!兄ちゃんも、兄ちゃんも連れていってくれ!お前と一緒に······」


消えてゆく弟を留めて、老人は自分も付いていきたいと言った。いや、懇願していたのかもしれない。この夢が終わってしまえば大切な記憶を忘れ去ってしまった、抜け殻のような自分が残っているだけだと理解したのだ。

老人は泣き崩れた。


「もうこりごりだ。もう誰にも置いていかれたくないんだよ!」


「じゃあ、僕がお兄ちゃんに呪いを掛けてあげるよ。この世界にいる理由になるとびっきりの呪いを」


弟もまた涙しながら言った。既に下半身は透けて見えなくなっていることさえも気にすることなく、老人を優しく抱き締め続けている。


「お兄ちゃんが生きている限り僕はお兄ちゃんの心の中にずっと一緒にいるよ。例え火の中水の中、どこにいたって一緒だよ」

「あぁぁぁぁ!」


去りゆく者が残す、身勝手に相手を縛り付ける最後の言葉。身勝手ではあれども相手のことを想った言葉。人はそれを呪い()と言う。運命を手放そうとする者への最後の願いであり、餞だ。


生きていてほしい


老人には隠された言葉が痛いほどに理解できた。


苦しさと幸せの狭間


老人は悶え苦しむ。時間にして二秒にも満たないわずかな時間だったが老人にとっては刹那千秋、これまで生きてきた時間よりも遥かに長く感じられた。

しかし、老人と清登の間に残された時間はあと僅か。

決断を決めるしかなかった。

老人は無言のまま真っ直ぐと弟を見据える。清登はそれを答えとして受け取って笑った。


「お兄ちゃん、ずっとずっと呪ってるよ(愛してるよ)。これからはまた一緒に」


そこで清登の体は真透明となり、二度と帰ってはこなかった。老人も全てを忘れたように深い深い眠りの水底に沈んだ。







冷房が効いていて、朝日が差し込んでいる部屋の中、老人は目を開けた。夢の記憶は既に思い出せない。


誰と話していたのか。何を話したのか。忘れていて一度夢の中で思い起こした記憶も


だが、老人の心には暖かく自分を包み込んでくれる自分ではない何かが感じられた。


老人は無意識に手を伸ばした。この世を去ったその体に触れることは当然出来ない。夢よりも向こうに行ってしまった。


「清登······」


老人は伸ばした手を引っ込めながら呟いた。

忘れていた大切な人の名前を思い出したのだ。


そして、不器用に笑った。病魔に蝕まれてからは一度も見せることのできなかった心からの笑顔。


最愛の弟からの(呪い)は確かに老人の心に刻み込まれ、共に生きていくのだ。身体が朽ち果てるその日まで、いやその身が朽ち果てようとも永遠に。


ずっと

私の父方の大叔父さんが亡くなりました。値を分けた兄弟として、祖父には最期に言葉は交わせずとも一目でも会って欲しかったのですが、コロナや祖父の認知症等様々な要因が重なってしまいそれが叶いませんでした。

なのでせめて小説の中でも一緒に、と思って書いた次第です。


暁に 最期に一目と 願えども

 叶はぬならば せめて夢世で

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― 新着の感想 ―
[一言] 言葉と想いは時に思いがけない力になることがありますから 私も、その願いが叶うことを祈ります
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