9話:謝罪⑵
ガチャりと扉を開け、奏音が足を踏み入れたここは放送室。彼女は放送委員を務めており、週に一度昼の校内放送を担当しているが故に、今日はその準備に訪れたのだ。
木曜日。今日は奏音が担当の日。けれど、昼休みまではまだ時間があるというのに、余程真面目なのだろう。彼女は何やら中で作業を始めた。
次に姿を見せたのは、5分後。
再び扉が開き、奏音は放送室を立ち去る。向かう先はおそらく教室。用件を終えた奏音は、自身のクラスに戻ろうとしていた、その時。
「……おい」
人に話しかける態度にしては不適切。だけれどその言葉はどこか控えめで、奏音の聞き覚えのある声だった。
「秀……次?」
姿を認知する前から奏音の顔は驚きに染まり、振り返った後もその表情は崩れなかった。おそらく声を聞くだけで分かる相手。聞き慣れた知り合いの声。奏音に話しかけたのは、何を隠そう秋月秀次だったのだ。
秋月といえば、千冬と浮気をした最低人間であり、奏音と付き合っていた彼氏でもある。そして今現在、奏音にとって一番会いたくない相手でもあった。
そんな秋月が奏音に話しかけるこの状況は極めて異質で、奏音は意味がわからないと暫く立ち尽くしていた。
「何かしら?」
あまりにも沈黙が続いたので、奏音の方から切り出す。普通は話しかけた側から話し出すべき。けれど、ただでさえ状況が普通じゃなかった故に、奏音はあまり気にしていない様子だ。
彼女に尋ねられたことで話しやすくなった秋月は、不満そうに言い放った。
「悪かったよ」
屈辱、憎悪、醜態、全てを耐え抜いて放った彼の一言も、奏音にとっては疑問でしかない。
何を言っているのか。その問いがひたすらに奏音の頭を反響し、理解しては混乱、理解しては混乱、を永久に繰り返していた。
「何よ……急に…」
奏音が理解できていないのは、言葉の意味ではない。むしろ意味が明白だからこそ、なぜそれが彼の口から飛び出すのか、皆目見当もつかなかった。
「悪かったって言ってんだよ」
「だから……なんでよ…」
態度は悪いものの、秋月の口から述べられたのは間違いなく謝罪の言葉。自らの行いに対する反省の表れであると同時に、彼には似合わない、今までの彼からは想像のつかない現象だった。
「反省したんだよ。お前をクラスの敵にしたことも、浮気をしたことも。だから……悪かったよ」
「は?今さら何言ってんの?」
浮気をした挙句、散々惨めを晒されて、終いには謝罪で締めくくろうとする。そんな単純な流れで済まされてしまっては、奏音の味わった苦しみに釣り合わない。
「最初から悪いとは思ってたよ。でもつい自分の立場を優先しちまって。だから……謝るよ」
「冗談じゃないわよ。謝れば平気だとでも思ってるの……?もしそうならあんた……頭イカれてるわね」
「何だよ急に。謝ってる人に対してその言葉はないだろ。いいから許せよ」
「ふざけんじゃないわよ。大体、あんたこそそれが謝る人間の態度だと思ってるの?偉そうに上から言葉を並べて、そんなんで許そうと思う訳ないでしょ」
「は?お前こそ……って悪ぃ。やっぱりお前と話してるとつい言い過ぎちまいそうだから、ほら……早く許せよ」
「だから……冗談じゃないわよ…。私はあんたを許すつもりなんかない。言ったでしょ?全て昼休みに終わらせるって」
「はぁ。だからそれをやめてくれって言ってんだよ。もうこの際、お前に嫌われてもなんでもいい。とにかくその"昼休みの何か"を無くしてくれ。そうすれば俺もクラスメイトから蔑まれず、平和に過ごせんだよ」
「……あんた。本格的に頭……大丈夫なの…?そんな頼み方して、頷く人間がいる訳ないでしょ」
大方……いや、確実に奏音が正しい。
許してほしい。そう願う割には、秋月の態度は最悪で、反省の色が全く感じ取れなかった。それ故、彼女は怒りを通り越して呆れすら芽生え始め、コイツはもう根本的に駄目なのかもしれない……と、諦めの感情に襲われていた。
「だからしつけぇぞ。たかが浮気、いつまで引きずってんだ。俺が謝ってるんだからお前は大人しく許せ。それで全てが終わるって言ってるんだよ」
「……」
「それともあれか?お前は人を貶めるのが好きなのか?だから浮気の証拠を突きつけて、俺をクラスの晒し者にしたい。なぁ、そうだろ?」
「……」
「なんか言えよ。もしかして図星?やっぱりそうだったのか。前から思ってたけど、やっぱお前キモイな。お前みたいなやつ、浮気されて当然だろ」
「……」
次々と放たれる罵倒の言葉。秋月は本格的に頭がおかしい。奏音のその考察は明確で、彼の態度はとても謝る人間のそれではなかった。
こんなにも相手の怒りを買うような発言を並べ、挙句の果てには許してほしい。どんなにネジの外れた人間でも、首を横に振るに決まっている。
無論、奏音の頭には初めから"許す"という選択肢はなく。彼の挑発的な言葉も相俟って、顔に怒りという怒りを貼り付けていた。
「ふざけるな…」
「は?」
「ふざけんじゃないわよ!」
辺りに響き渡る怒鳴り声。
辛うじて付近に生徒がいなかったことが救いとなったものの、奏音の怒りは頂点に達していた。
「キモイ、しつこい、浮気されて当然?誰が、私が?冗談じゃないわよ……!」
「なんだよ。いきなり怒鳴るなよ」
さすがの秋月も響き渡る程の声量に不安になったのか、チラチラと周りの目を気にしていた。が、怒りゲージの振り切れた奏音にその言葉は届かず、勢い衰えぬまま秋月に言い放った。
「人のことを散々傷つけておいて、自分が傷つくのは嫌?冗談じゃないわよ!私はあんたにされたことをそっくりそのまま……いや、倍にしてやり返してやるわよ!」
憎悪を瞳に巡らせ、奏音は秋月を睨みつける。そして、顔に怒りを貼り付けたままその場を立ち去った。
許してもらう。
そう望んで声をかけたはずの秋月は、つい感情を抑えきれなくなり、許してもらうどころか、むしろ奏音の怒りを増幅させてしまった。
彼は本来の目的を見失い、感情に流されていたと気づいた時にはもう遅く。いくら呼び止めても奏音が振り返ることはなかった。
そしてそのまま、時間は経ち。
ついに昼休みが訪れる。




