ヒロインと悪役令嬢
「ソフィア様は殿下と仲がいいんですかぁ?」
甘ったるい声にソフィアは体を震わせた。
ソフィアが振り返るとそこには予想通り愛らしい笑顔を浮かべるジェシカがいた。
厄介ごとは回避しようと意図的にジェシカから離れていたソフィアだが、カフェテリアの真ん中ではそれは難しかった。
「そこまででは、ありませんよ」
他所行きの笑顔を浮かべて答えるソフィアに、ジェシカは頬を膨らました。
「でも、でも! 殿下はよく生徒会室へ行かれるんです。そこで一緒にいるのでしょう!?」
「殿下は会長、私は副会長、それだけですわ」
その場を立ち去ろうとしたソフィアは今最も会いたくない人物の声に心臓が止まった。
「本当にそれだけなのよね? ソフィア様……?」
恐る恐るソフィアが振り返った先にはとても美しい令嬢、カサブランカがいた。
「それだけです、カサブランカ様」
ソフィアは引き攣りそうになりながらも必死に微笑みを浮かべる。
どうしてここに来てしまったのだろうと今更ながら後悔が募っていた。
「ですが進級してから殿下はよく生徒会室へ行かれますわ! それはあなたが仕事が出来ずに、殿下の足を引っ張っているのではなくて!?」
「決して、そんなことは……」
ないと否定したいけれど、それだけの自信がソフィアにはなかった。
自分も要領の良い方ではあるけれど、それもあのディランと比べれば劣る。
足は引っ張るほどのミスは犯していないし、犯さないようにいつも注意している。
それでも何かあった時に頼るのはディランであり、そのときは優しげな笑みで対応してくれたディランだけれど、もしかしたら迷惑だったかもしれないとソフィアは急に不安になった。
「私と殿下の時間を奪うなんて大した度胸じゃない!!」
「ソフィア様のせいだったんですね、殿下がお忙しいのは……。殿下が可哀想……」
そんな二人の言葉にソフィアは返すことができなかった。
一生懸命やっているつもりだったけれど、本当に成果を出せているのか。
仕事量が多いと感じていたけれど、単に自分の速さが遅いだけだったのかもしれない。
そんな嫌な思考にソフィアは陥ってしまっていた。
「あら……殿下だわ! 殿下!!」
「私に会いに来てくださったのね!!」
その場に現れたのはいつもと同じ穏やかな笑みを浮かべるディラン。
しかし、カサブランカとジェシカと共にいるソフィアの顔を見た途端、その端正な顔には僅かに焦燥が浮かんだ。
「何か起きたのか?」
走り寄ってきたディランに二人は口々に言った。
「ソフィア様にきちんと生徒会の仕事をするように言いましたの。殿下、とてもお忙しそうでしたから」
憂いを帯びたような色気のある微笑みでカサブランカが言う。
ディランはその言葉に僅かに眉を顰めた。
「カサブランカ様が、ソフィア様に厳しい言葉を言っていたので、私、助けなきゃと思ったんですけど……、そしたらカサブランカ様に注意されてしまって……」
ジェシカの涙に、近くに来ていたジェシカ親衛隊はすぐさまジェシカに近寄った。
「大丈夫だ、ジェシカ」
「もう俺がいるから」
「……みんな…………ありがとう」
(……なんだ、この茶番は)
感極まるジェシカとその親衛隊に冷めた視線を送っていたディランは立ちすくむソフィアに目を向けた。
先程から一度も目を合わせてくれないソフィアがディランは心配だった。
この二人が絡むと碌なことにはならない。
何かされたり言われたりしたのではないかと不安になっていた。
生徒会の外では最低限の接触しかしてこなかったために大丈夫だとたかを括っていたが、カサブランカやジェシカはソフィアに絡んだ。
ディランは自分の影響力を理解していたつもりだったがまだまだ甘かった、と反省する。
「ソフィア嬢、学園理事長から呼び出しが来ている。来てくれるか?」
「……はい」
出来るだけ事務的に、いつもより硬い口調でディランは話した。
そこに何の情もないのだと二人に身をもって理解させる。
案の定、他人行儀なディランにカサブランカとジェシカの表情は緩んだ。
「それでは失礼するよ」
ディランは振り返ることなくカフェテリアを出る。
後ろにソフィアがいるのを確かに気配で感じながら、廊下を進む。
その間、二人に会話はなかった。
ディランが向かったのは理事長室ではなく通い慣れた生徒会室。
「……理事長様からの呼び出しは……?」
「あれはその場を離れる口実だから、嘘」
「そうでしたか……。連れ出してくださり、ありがとうございました」
律儀にも頭を下げるソフィアにディランは微妙な顔をした。
「何かカサブランカ嬢やジェシカ嬢に言われた?」
「いえ……特には……」
それにしてはいつもと様子が違う。
ディランは早くも仕事を始めようとするソフィアを座らせ、お茶を用意した。
ディランが話さなければソフィアは何も言わなかった。
ずっと何かを考え込んでいるようで、聞いて良いのか、邪魔をしない方が良いのか、ディランには分からなかった。
淹れた紅茶が温くなり始めた頃、ソフィアは口を開いた。
「……一つだけ、お聞きしても良いですか……?」
「勿論」
ソフィアは顔を上げ、ディランの瞳を見つめる。
美しい水色の瞳は、今は少し哀しんでいるようだった。
「私は……殿下のお役に立てていますか?」
何を聞かれるのだろうかと身構えていたディランは予想外の質問に一瞬息が詰まった。
「私は殿下の足手纏いになってはいませんか? 殿下に迷惑ばかりかけていないでしょうか?」
これまでの頑張りと確かな功績を鑑みればそんな疑問など生まれないはずだった。
一体何を言ったのだとディランの中で無神経な令嬢に対して怒りを感じた。
「ソフィア」
ディランが名前を呼ぶとソフィアはその不安そうな瞳をディランに向けた。
「ソフィアは十分生徒会の役に立ってくれてる。迷惑なんてかけられたことはない。いつも君の存在に僕は救われてるんだ。だから……自信を持って良い。君は素晴らしい副会長だよ、ソフィア。君が一緒に仕事をしてくれて僕はとても幸せなんだ」
ディランが一つ一つ丁寧に選んだ言葉にソフィアは涙腺が緩くなっていくのを感じていた。
「ほんとう、ですか?」
「本当だ」
ディランが頷くとソフィアは顔を覆って泣き始めた。
そのようなソフィアの姿を見たことがなかったディランはどう声をかければよいのか分からなかった。
「……すみません、少し自信を無くしてしまって」
ソフィアはハンカチで涙を拭うと、笑顔を浮かべた。
「殿下のおかげでまた頑張れそうです」
その泣いた直後の笑顔にディランはつい見惚れてしまった。
「今日も頑張りますか!」と立ち上がるソフィアはどこか清々しそうだった。
「今日は学園演奏会の来賓リストチェックからでしたか……?」
「そうだね」
ディランが立ち上がる前に来賓リストを持ってくるソフィア。
「早く終わらせて帰りましょう!」というソフィアはすっかり残業を回避しようと奮闘する仕事人にそっくりだった。
2部あるリストを一部ずつそれぞれ見ていると、思い立ったようにソフィアが顔を上げた。
それに釣られてディランも顔を上げる。
「どうかした?」
「あの、殿下、お節介かもしれないのですが……、あまり婚約者の方に嘘は良くないかと思います。……今日は助けて頂いたのであまり言えませんが……」
来賓リストにカサブランカの両親の名前が出てきて思い出したのだろう。
将来夫婦となるのだから、嘘はどんなに小さなものでもつかない方が良い、と話すソフィアにディランは困っていた。
それも……。
「ごめん、ソフィア。カサブランカ嬢と僕は婚約してない」
「……はい?」
突然のディランの暴露にソフィアは手にしていたリストを取り落とした。
それを拾うこともせず、ソフィアはディランを凝視する。
「え、で、ですが、カサブランカ様は殿下の婚約者だと……」
「カサブランカ嬢がそう言っているだけだね」
まさか、とソフィアは一種の冗談か何かかと思ったがディランにそのような様子はなかった。
「そ、それでよろしいのですか!? もうすっかりカサブランカ様は殿下の婚約者だと皆に認識されていますが」
「そうなんだよね……」
カサブランカはディランの再従兄弟にあたり、幼い頃から会うことも多かった。
まだ10にも満たない頃からカサブランカは一方的にディランに想いを寄せていた。
そしてディランやカサブランカが13の頃、カサブランカの生家であるクラーマー公爵家は王家に婚約を打診したのだ。
しかし、ディランはすぐに婚約者を決めるつもりはなく、王家も考えてはいるもののすぐに決めるつもりはなかった。
それでも、薄くはあるも王家の血を引き、国内でも力のある公爵家を無下に出来るわけもなく、王家は『婚約者候補の一人として考えさせてもらう』と返事をしたのだ。
王家としては『将来婚約を結ぶかもしれないが今は断らせていただく』というつもりだったのだが、カサブランカはどういうわけかその回答を『婚約内定者として発表は後にする』と解釈した。
その直後にディランが隣国に留学に行ってしまったのも災難の一端だった。
1年間の留学を終えて帰ってくるとカサブランカはディランの婚約者として振る舞っていた。
その態度はディランがもしかしたら婚約を結んでいたのかもしれない、と不安になり直々に国王である父親に聞いたくらいだ。
自称婚約者だという事実にディランは少し安堵した。
幼い頃からよく会っていたカサブランカの性格は昔から苛烈で自分勝手でディランはあまり好きではなかった。
国王、王妃である両親も友人に婚約しているのか、と聞かれた時には否定していたようだがそれで収まりきらないほど定着していた。
「……それは、何と言いますか……」
ディランの話にソフィアは言葉が詰まった。
「本当は帰ってきたときに否定しないといけなかったんだけど、そのときは帰国後の公務で忙しくて……。その後に否定したけど冗談としか捉えられなかった。……まあ結局最有力候補っていうのには変わりないから放置してたんだ」
もしもディランが他の令嬢と婚約した場合、傷つくのはカサブランカだとディランは心配したこともあったが、元はと言えば自分勝手に解釈したカサブランカが原因だ。
ある意味自業自得か、と思ったディランはもう何も言わないことにした。
後でどうなっても知らないと。
いつもは温厚なディランだが、時と場合によってすぐに人を切り捨てられるところは大変国王向きであった。
「カサブランカ様……」
一方で、ソフィアは少しだけカサブランカに肩入れしていた。
あれだけディランに執着して近づいているのは、候補という不確かな立場にいることを薄々感じ取っているからではないか、と。
「ソフィアは何も気にしなくていいよ」
そんなソフィアの様子に気がついたディランはそう微笑んだ。