第九十四話 物の怪の引っ越し
輝夜は久しぶりに、丘の上の樹をみにきていた。
あの日、市松が昔慟哭した日。
ジェイデンが降ってきて、市松の同胞を脅した日も遠く感じる。
あのときの樹を、見に来ていた。
最近は市松も吉野も、事務所には寄ってくれない。
ジェイデンは大忙しで海外を飛び回っている。
桃はそろそろ成仏する時間が近づいてきている。
「どうしてだろうね、寂しさを感じるよ」
輝夜がそっと木に触れて背中を預ければ、そこががたんと揺れた気がした。
木の幹から扉のような物が出来、輝夜が離れれば扉は開き、そこから猿田彦が現れた。
猿田彦は輝夜に気づくと、ああ、と少しだけ猿面越しに警戒を解いた。
「お前か、いつかは勘付くと思っていたよ」
「勘付く……?」
「お前は悪運が豪運だからな。こっちの世界に気づいたんじゃないのか」
猿田彦は扉をまた開けば、覗く行為を許される。
人間相手では絶対しないだろうに、畏れる輝夜を人間扱いしないからこそ猿田彦は見せた。
輝夜はそれも存ぜぬで、扉から木の幹を覗き込めば遙か下方のほうで江戸時代のような花街が目に見える。
くっきりと明るすぎないほどの明かりで、賑やかな花街。まるでお祭り騒ぎ。
建物も江戸時代を思わせる建物ばかりで、遠くに江戸城がある。
「あれが俺の住処。否、妖怪の王の住処だね」
「君が王なのか」
「そうだな、短い間だろうけど。そのうちぬらりひょんの一族が代替わりするだろうな」
「どうやって決めるんだ?」
「そこはまだ分からない。分かるのは、負けたら俺は消えるだけだ」
「猿田彦……」
「市松にも言っておいてくれよ。短い間だけなんだから、こっちに来いって」
「こっちって?」
「あの世界は、引っ越し先なのさ。もう現世に妖怪の居場所はないからな、引っ越し先を作ったんだ」
「……みんな、いなくなるのか」
「おかしな顔をするね輝夜。悲しそうだ。お前にとっては悪さをするやつもいただろ」
「そうだね、でも。嫌いじゃなかった」
「命の危険まであってもか。だからお前は恐ろしい。皆お前のようであればいいような、違って安心したような」
猿田彦は輝夜の肩を抱き寄せ、一緒に木の幹から飛び降りれば、虚空に漂い。花街の賑やかさが目につく。空はあるのか、月が大きく真っ赤で。
雲はちぎれたように時々流れている。
妖怪たちは非常に楽しそうに、皆が幸せそうであった。
どんな異形も愛くるしく見える。それを見れば胸が温かくなる。
なのにこの切なさはなんだろう。輝夜は鼻が詰まる。
「前から、聞いてはいたんだ。いつか皆いなくなるって」
「異形がいなくなるのは、お前たちにとっては幸福ではないのか」
「薄暗いものが全員嫌いなわけじゃないとおもうよ、夜が好きな奴だっている。夜の怖さが」
「……そうだな、だがもう、明るすぎるこの世界は。夜のない世界だ」
「猿田彦、市松も引っ越すのか」
「あいつはまだ返事を保留にしてる」
「……私のせいか」
「そうだお前のせいだ。お前が異様に艶やかな女だからだ。たった数十年のために、居場所をなくすのは可哀想だ。
……お前からも手放してやれないか」
「そうだな、考えておくよ。異形がいなくなるなら、私も安全だろう」
「ううん、それはどうだろう」
猿田彦はひょうたん酒を煽って、輝夜に笑いかけ、胸元からキセルを取り出し。
草を詰め、紫煙を点した。一服すれば、火の特有である臭さが輝夜にまで漂い、輝夜はむせる。
輝夜がむせれば猿田彦はげたげた笑った。
「人間にとって怖い物は、神様、幽霊、妖怪だったのだろう。だから神様と幽霊が残っている」
「神様は人間を守ってくれるのだろう?」
「お前は呪われている。どうやらそれは、人間由来……分かりやすく言えば幽霊から神になった存在からだ。
そいつらは、消えない」
「……誰か様のことか。市松があんなになってまで、頑張ったのに?」
「それこそ、それはお前の神様に祈ってどうかしてもらえ。吉野様に。……お前は、吉野様に祈らないよな、どうしてだ?」
「友達だもん」
輝夜のむっとした響きに、猿田彦はますます大笑いし、輝夜がむくれれば背中をばしばしと叩いて詫びた。
咳き込んだ輝夜は猿田彦に睨み付け、猿田彦は猿面からずれて見える口元を袖で隠す。
「お前の友達は最強なのに。力を借りれば一発なのに不思議な女だ」
「それをやってはいけない。私は、神様の吉野じゃなく。鬼の吉野の友達だ」
「……友達ね。輝夜、これは妻を二人持ってる俺からの助言だが、夫二人も良いとは思わないかね」
「おっとふたり?」
「吉野と市松を娶ればいいのに」
「馬鹿を言うんじゃないよ」
輝夜が軽蔑した眼差しを向ければ、猿田彦はぶるっと震え、おお怖いと呟きながら木の幹の扉へ目指し浮遊していき、地上へ戻っていく。
地上へ戻れば、猿田彦は扉から手をひらひらと降り、輝夜を木の幹の内部から追い出し、扉を閉めた。
「神と妖怪の夫二人は、手綱が握るには難しすぎるだろ。大暴れされて犬二匹連れ回る散歩みたいになるよ」
輝夜は遠くを見つめ、木の幹に触れる。
木の幹の扉は、人間には開かない。




