第九十三話 囁く黒姫
乙姫は卒業生を見送って、その日の卒業式を終えた。
自分の番はあと今年だ。
今年受験生となり、高校進学を控えている。
成績優秀、素行も問題ない乙姫にとっては行き先は引く手あまた。
保護者である翁は、あまりの美しさに女子校をお勧めしていた。
変な男につきまとわれてほしくないらしい。
帰り道に、桃がふわんと寄ってくる。
中華ロリの衣服をふわんと摘まんで、日傘をくるくるまわしていた。
幽霊なのに日傘が何に役立つのかは分からないが、桃の見目は昔と変わらず美しく。
どんどんと自分と桃に、年齢の差がついていくことが少し寂しい乙姫。
向日葵畑で出会った桃はあんなにもかっこよかったのに、あの頃より背丈が変わった。
自分の方が大きくなってしまった。
「卒業式か、来年はお前もだな」
「そうね、はー、やだなあ受験」
「どうしてだ。花の高校生と聞くぞ、先は楽しみだろう。お前なら勉強しなくてもいけるだろう」
「そういうわけにはいかないの」
「よくわからないな、僕は体験したいけどな。男子高生のほうならば」
「……桃はわんちゃんだもんね。あのぽめちゃんの命も、そのうち終わっちゃうのかしら」
「そうだな、いつか寿命は来る。二度目の死だ。さすがに三度目はない、僕はそのときはおとなしく転生しようとおもうよ」
「えっ、それって……」
「僕とはさよならということだ」
「……嫌。嫌よ、そんなの。桃はずっと私のそばにいてくれないといや!!」
「乙姫、僕とお前は死人と生者だ。本来なら出会いもなかったんだよ」
「なんでそんな意地悪言うの、桃の馬鹿ッ!!」
乙姫はかっとなり、思わず桃を置いて駆け出して、小さな丘に大きな樹がある公園に向かっていった。
いつだったか市松が慟哭を輝夜に投げた丘の樹だったが、乙姫の知らぬこと。
その樹も来年には切りきられると噂になっている。
変化し続けるのが当たり前の世界で、自分と桃だけは変わらないと思い込んでいた。
桃はずっとずっと自分の王子様でいてくれると。
いつか桃が体を得て、自分を迎えに来てくれないかと夢見る日もあった。
でも現実ではポメラニアンの体だ。
何より幽霊の桃が、もう未練がほぼなくなっている現在。
どうやってつなぎ止めようもない。
乙姫は大きな樹まで駆け寄れば、呼気を落ち着かせ、そっと木に触れる。
木に触れれば、黒い赤子がふんわりと見える。
あの頃はとてもこの赤子が憎かった。
黒い子供は群れとなり、乙姫を囲う。
乙姫は気づいた。
「……そっか、貴方たちがいれば、私はずっと桃といられるのね……」
誰か様が居続けることで、桃はその未練を燃やし、父への思いで現世に居続けてくれる。
桃は自分と輝夜が心配で、成仏していないのだ。
なら危険な目に逢い続ければ、桃はずっとそばにいてくれるし、見てくれる。
乙姫は黒い子供に手を伸ばす。
黒い子供は乙姫の体に吸い込まれる。
黒い液体のように、乙姫の中にとろりと入り込めば、乙姫の髪色は真っ黒くなる。
「うん、大丈夫よ。あのときと違って私は貴方の敵じゃない。
私の言うことを聞いてくれれば、ずっとずっと私たち仲良くいられるわ。
だから、私と桃を応援して……」
乙姫は黒く嗤う。冷ややかな笑みは妖しく、危うげだった。
遠くから眺めていたのは、市松。
市松は遠く、二キロ離れた電線からオペラグラスを手にして、嘆息をついた。
「さて。闇落ちした姫様の正気を取り戻すには、あの人が必要ですね」
市松はオペラグラスを胸ポケットにしまいながら、柔く笑った。
輝夜によく似た顔が、哀れみを浮かべていた。
「そうよね、大好きな人と離れたくないですよね。とても、とても痛みが分かる。
今の僕が一番乙姫さんの気持ち分かるし、世界を壊したくなるのもわかるよ。
僕だってどうして物の怪が引っ越ししなきゃいけないんだって、悲しかった」
市松は悲痛さをこめて、口元に手を置くと、咳払いし狐面を付け直す。
「お気持ちは、お察ししますよ。本当は分かるから貴方を止めたくもない。
だけどね、それだと先生が泣いちゃうの。だから止めますね、ごめんなさい」
市松はまずは情報集めと、救援を求めるために、すっと姿を飛んで消した。