第八十二話 改めての不思議な関係
「ムラサキカガミって知ってる?」
蒼から聞いた話に乙姫はきょとんとして、食べかけのお弁当を片手に持ち直す。
今は昼休み、もうすぐ期末も近い十二月の直前だ。
寒気に身を震わせ、廊下から入ってきた冷気に気づくと乙姫は一度立ち上がり、扉を閉めてから席に戻る。
扉近くの生徒は乙姫と体感温度が違うのか、のんきに「寒かったー? ごめんねえ」などと詫びている。
乙姫は気を悪くした様子もなく愛想笑いをすると、席に戻り。
蒼の話を改めて聞く。
「二十歳までに覚えていたらいけないやつだよね?」
「そう、覚えていたら死んじゃうやつだ」
「なんで今言っちゃうかなあ、後の数年で忘れられるかな……」
「知らないならいいんだ」
「知っちゃったからまずいんでしょう?」
乙姫は唸ると翁の作ってくれたお弁当を咀嚼し、おいしそうに平らげた。
ランチョンマットでお弁当箱を包み込み、箸を水道に洗いに行けば、たまたま保険医が廊下にいた。
保険医は薄暗い瞳で乙姫に笑いかけると、乙姫は身動きできなくなる。
ただ、何か覚えのある香りがした。
保険医は通りすがりに乙姫の頭をなでるとそのまま去っていく。
蒼は乙姫と一緒に箸を洗おうと思ったのか追いかけてくれば、乙姫のやり取りを見ていたのか心配する。
「大丈夫か」
ただ頭を撫でただけなのに、なんだか異常さを感じた蒼は二人を交互に見やり。
保険医はのらりくらりとさっさか階段を下りて行った。
「なんだか。あの人苦手よ、呼吸が止まる」
神仏に好かれやすい佐幸の末姫がいうのなら、どこか意味深だなとも感じた蒼だった。
*
「へえそれで。お前はそれで逃げて帰ってきたのか」
「だってあんな先生見るの初めてで、魂消ちゃうもの」
――市松は己の里にて、猿田彦に愚痴っていた。
猿田彦は妖怪の会合まえに時間をわざわざとり、市松の近況をわくわくとして聞いていた。
あの化け物女が真っ赤になるなど愉快すぎて笑えて来る。
昨今聞いた話の中では一番興味をそそられる話だ。そばでブドウあめを食べている林檎もきつい眼差しを緩めて大笑いしている。
ぶどうを水あめで固めたものをかりかりと頬張りながら、苺と林檎、二人の嫁は猿田彦に集い大笑いした。
「旦那様、まだあの女の子怖いの?」
「そうだね、とても怖いよ。あの女には何かがある。ただの人間だ、どう見ても。それなのに気が狂っている。誰もそれに気づかないあたりが怖いよ」
「旦那様を怖がらせるなんてすごいことだわ」
「両手に花でいちゃつくのやめてもらえません? ひとり身にはつらい光景ですよ」
「お前も娶ればいい、顔を真っ赤に染めた女がいるんだろう?」
「そう簡単にいかないの! やっと、やっとスタートラインなんだから! 他人事だとおもって!」
「恋愛リアリティショーよりスリルがある、だがそう長く楽しみも続かないものだ」
猿田彦は小さく嗤い、市松に手紙を差し出した。
市松は手紙を受け取るとその場で開き、読み上げれば唸り、ポケットへくしゃりとしまいこんだ。
「引っ越しのお誘いですか」
「そうだ、あの世界はもう。俺達には狭いだろう。行き場がなくなっている」
「そうね、デジタルが進んで誰も信じない。信仰心がなければ、神様でさえ力を失う」
「お前もそろそろ腹をくくるときだ、自分が消える可能性のある世界で惚れた女のそばか。それとも消えない世界の仲間のそばか」
「……そうねえ。とっても。繊細な話ね」
市松は囲炉裏にある凍った魚を手に取れば、魚の氷を溶かしてそのまま噛り付いた。
凍っていたのに魚は焼けているから、不思議な歯ごたえだ。
「どうしていつまでもこのまま、ってできないのかしら。僕、いつまでもこのままがいい」
「子供みたいな話をするんだな、お前は。恥じらいもなく言えるから、羨ましい」
「あら、猿田彦は言えないの」
「俺はもう、総大将の名を引き継いだからな」
「引き継いだじゃなくて、奪ったの間違いでしょう。まだ許してないですからね、銀次さんのこと」
「いつか復讐される日まで。首を洗って待ってるさ。どうせぬらりひょんが総大将にまたおさまるんだ、それまでの花道だ」
「――そうまでして、どうして僕にこだわるの」
「一番の友達だって、認めてくれなかったのが悔しかったんだ。お前は俺のあこがれだから」
猿田彦は笑って、嫁二人を両手に抱きかかえれば立ち上がり、家屋から出ていく。
家屋に残った市松は、一向に暖かくならない囲炉裏で膝を抱えて、狐面をつけなおし唸る。
「それはちょびっとだけ、わかるかもしれないですね」
市松は升酒を煽り、魚を流し込むように食べた。
*
里で飲み食いした後すっかり酔いどれ気分で佐幸探偵事務所に訪れる。
一階のカフェは引き払っていて、今はピザ屋のチェーン店が入っている。
バイクが陳列していて、きちっとした並び方だとぎょっとした。
市松は二階にあがって、扉を覗くように開ければ、輝夜は机で転寝をしていた。
金糸雀がいなくなってから、若返った輝夜では引き受けづらくなってしまい、大変だという話はこっそり耳に入ってくる。
そっと扉を後ろ手で閉めると、市松は顔を浮かばせて、狐面を外してソファーに置く。
市松が来ても起きない輝夜に、市松はあの日の赤さは夢じゃないかと疑いたくなる。
「先生、ほんとに。ほんとのほんとに、僕に戻ってきてほしい?」
市松は輝夜に問いかけながら、客間のゲームソフトを確認すれば愛用のレースゲーム以外にもいっぱいゲームが増えている。
輝夜がゲームをしたがる性質ではあまりないのはわかる。
これらは、すべて、彼女の愛した怪異のためなのだろうと思うと泣けてくる。
(みんな、引っ越したら。この人はどうなるのだろう。平凡になるのかしら)
そのとき自分はそれでも輝夜に飽きないのか自信はない。
異常さの最中で輝くからこそ好ましいのかもしれないし。
市松はもだもだ考えながらレースゲームをし始める。
(起きるまでならいいでしょ?)
それくらいは許されるはずだと、市松は言い切り、レースゲームの記録を見れば更新されていることに気づく。
名前はKNR。金糸雀のことだ。一気に腹が立った。あれもこれも確認すれば、金糸雀がすべてゲームデータの一位を更新している。
「あのくそがき……殺してやる」
市松はぶつぶつとレースゲームの一位のタイムを更新し始めるために、カスタム画面を開きぶつぶつと夢中になっている。
ぶつぶつつぶやいてる最中に輝夜のそばに黒い煤のような影の塊が近寄る。市松はそちらの方角を見ずに、日本刀を表し、影を刺し殺した。
とすっと、影が刺されて消えた頃に輝夜の瞳が胡乱げに瞬く。
「んあ? いちまつ?」
「わっ!! 先生びっくりさせないで!」
「そうはいっても……不法侵入者はお前のほうだろう」
輝夜は寝ぼけた眼で伸びをすれば市松に声をかけ、寝起きに市松を見れば安心して笑った。
市松はレースゲームのカスタムを終えると、セーブし慌てて輝夜に近づく。
「鍵もかけず不用心ですね」
「いいんだ、誰か来る気がした」
「……そう。ねえ先生。ちょっとだけ。ちょっとの間だけ、僕を雇いません?」
「お前を?」
「そう、僕が所長代理になればあなたも仕事しやすくなるでしょう? 今のあなたの見目だとお仕事できない」
「……それもそうだが。今の私は危険らしいぞ。香りがあぶないんだと」
「それ僕からの受け売りなんだから僕が一番知ってるに決まってるでしょ。それも含めて、これから探っていきましょう」
「……ならよろしく頼むよ。そこの客間で寝泊まりしていいよ」
「お住まいはあるので気兼ねなく。それとも僕がいないと寂しい?」
「……ナルシストのような絡み方を覚えてきたな」
「まあひどい言われよう! 先生のいけず」
市松は輝夜にミネラルウォーターを注いでグラスを机に置いてから、自分もミネラルウォーター片手に客間に戻り、レースゲームをし始める。
これからスタートするぞというところだ、合図が響いている。
「市松、私は。恋だ愛だのの恋愛はわからないけど、君が好ましいよ」
スタートで事故った市松は悪くない。
市松は振り返って、真っ赤な顔で輝夜を見やれば、輝夜は真面目な顔をしていたかとおもえばまたうとうとしている。
市松は寝言かと悟れば、盛大な溜息をつき、輝夜を隣の寝室にまで運び、寝かせてやる。
「先生、やっと。ほんとにやっと、スタートラインなのね、僕ら。時間もないというのに、タイミングの悪い人だ」
市松は、ベッドで眠る輝夜のおでこを指ではじいた。




