第七十七話 空に焦がれた朱雀
空が大好きだった。
高い空には果てがなく。果てにまで到達すれば、そこは空気のない宇宙で。
宇宙と空の境目がよくわからないのも、好ましかった。
青い日は空を飛べる。雨の日や雪の日は、空を眺めるのが好きだった。
それも今は遠い世界。
額縁のような窓を見上げて過ごす己には、もう叶わない世界。
「美しいですね、貴方様は。とても清らかな瞳をしている」
座敷牢の、格子の先でしゃべる男はうっとりとした目つきで自分を見つめる。
逃げたかったら逃げたし、叫びたかったら叫びたかった。
しかし喉をつぶされ、足の腱を切られている自分には、どうあってもすべてを受け入れるしか生き延びる手がなかった。
神をここまで追い詰めることのできる時代になったかと、嘆息をつけば男は指先にたっぷりと蜂蜜を掬い、それではちみつれもんをつくる。
手作りにこだわっているが、そこはスプーンでもいいのではとも感じる。
しかし男の並みならぬ執着の果てが、体を無理やり犯すものでないだけかわいらしいのかもしれない。
最初は乱暴をするのかと感じた。性的な。
しかして男は自由を奪いはするものの、変態的ではあるものの、礼儀はわきまえ、しっかりとした人間と神の線引きだけはする。
「ほら、喉がつぶれても一言だけいえるようにはしたでしょう。今日もお聞かせください」
男の願いにこたえなければ、唯一の水分であるはちみつれもんも取り上げられる。
つぶれたのどで、声にならない形でつぶやく。
『愛してる』
男から唯一仕込まれた芸だった。
愛してると囁いて、男のほほを撫でる。
格子越しに撫でれば男は満足してはちみつれもんを手渡す。
『愛してる、愛してる、愛してる』
言葉通りの意味でなくても、いえるようには躾けられた。
ごくごくとはちみつれもんを飲んでいれば、男がにやりといやな笑みをした。
「ここにもうすぐ一人、貴方様の仲間が増えますよ」
『愛してる?』
「そう、貴方様のように躾けるつもりです。とても、かわいい人です。人間ですけれどね」
『愛してる……』
マヒした心はその人への心配よりも、男がいない間でも一人ではなくなる喜びに震えた。
*
牢屋に入れられた女性は黒髪こげ茶目の美少女だった。
神である自分にさえ見劣りしないという、人間離れした見た目に、男が気に入るのも納得した。
「よし、と。時間があまりないな。じっとしていると、すぐに足の腱を切られそうだ」
『愛してる?』
「おお、可哀そうに。オウムのまねごとをさせられたんだな。大丈夫だよ、朱雀。君を助けよう」
『愛してる……』
逃げるという発想になるにはあまりにも心が潰されすぎて、もう希望も何もわかなかったのに。
目の前の女性が手を差し出せば、まるで少女小説のような話だとときめいていく。
『愛してる』
「大丈夫だよ、大勢味方がいる私には」
『愛してる』
「神様でさえ味方なのだ。多分今頃乗り込んでるし、殺人鬼も暴れてるだろう」
『愛してる……』
「そうだな、利用してるのかもしれない。彼らを利用してでも叶えたい思いがあるんだ」
『愛してる?』
「なんで言葉がわかるかって? なんだろう、顔を見ていて言いたいことを予測してるんだ」
『愛してる……』
「名前か、私は輝夜、佐幸輝夜という。探偵だよ」
輝夜は格子を抱きしめるような形で錠前に仕掛けを施す。
鍵をぱきんっと開けた輝夜は自分を連れて行こうとするが、動けない自分を見て背負ってくれた。
一生懸命輝夜にすがってしがみついていれば、蔵から外に出る頃には山林の中。大勢の男の番犬たちが輝夜を見つけて騒ぐ。
自分が逃げようとしなかった原因の、怪物たちまで男に操られているのに、輝夜はものともせず、逃げなれていた。
今までよほど危ない目にあってきたのだろうと予感すらたやすい動き方だった。
「輝夜、てめえ手作りクッキーは三倍はよこせよ!」
「いいとも、それが謝礼の約束だ。しかし君の謝礼は安いな、お金とかじゃないのか、ふつうは。ジェイデン」
「金ならもうあるからなあ。それよか推しの公式グッズのが大事だろ。オタクをわかってねえなあおめえは」
遠くで金髪の男がチェーンソーを振り回し、化け物たちを退治しながら逃げる輝夜に声をかけた。
その場を離れる頃合いに金髪の男に顔を向ければ、金髪の男は化け物を全部一掃したうえで手をひらひらとふっていた。
輝夜と一緒に逃げていれば徐々にここが山の中だとわかってくる。
山を数分で降りられるわけがない。遠くまできてもまだまだ下山に時間がかかる。
輝夜と二人で休憩していれば、輝夜はぜえはあと呼気を整えている。
こんなとき水でもあれば、と思案していれば虚空から可愛らしい女の子が現れる。
「輝夜! 飲み物だ、サービスしてやる、とっておけ」
「ありがとう、桃。君の顔を見ていたら落ち着いてくるよ」
「乙女げーみたいな言葉を僕にまでなげかけるな!」
ぷりぷりと怒る桃と呼ばれた女の子は、男の子だった。
声で分かった、少年だ。
可憐な少年はペットボトルのミネラルウォーターが二本入った一つの登山用ナップザックを手渡すと消えていった。
ナップザックを漁りながら、輝夜はありがたいありがたいとつぶやいた。
「あの、子」
「おお、しゃべられるのか、無理してしゃべらなくていいぞ」
「あの子も。さっきのひとも。怪異……なんでしょう? どうして、みんな。あなたのみかたに」
あの男の敷地を離れれば少しだけ洗脳が薄れていく気がして、やっとの思いで日本語を、思いを形にした。
人間の味方を好んでするなんて、信じられない。
あの男からずっとオウムのように飼われていた自分にとっては信じられなかった。
それと同時に、この瞳に吸い込まれそうな自分も存在していてわからなくなる。
この人間のとりこになるのが怖かった。
下山すれば惚れこむ気がして、最後の抵抗だった。
どうか幻滅させてくれという願いでもあったのに、輝夜はほほをかいて微苦笑した。
「気が合う友達に、もしくは。気が合わないけど腐れ縁になった奴らなんだ。味方か敵かじゃないよ。私のすることに賛同してくれたから、力を貸してくれた」
「……信じあっている、とか、いわないのね」
「みんなエゴを通したい奴らだ、エゴが一致しただけを信じるなんて言うなら、とんでもない。信じるというきれいな言葉がもったいないとおもわないかね」
輝夜の言葉に少しだけおかしくなって、数年ぶりに大笑いした。
のどが痛くなっても、ひび割れそうでも、大笑いした。
輝夜を見つめ、そうっと抱きしめる。
「そうね、エゴが強い人は個性的で好きね」
*
あとはこの危うい川をつなぐ橋を渡り切れば帰路の道すら柔らかくなるというところまできた。
ここさえ乗り越えれば緩やかになるはずだ。
ただ前日が嵐だったからか、川の勢いは激しい。
輝夜が自分を背負ってわたっているところに、怪物たちがおいついてきた。
橋の真ん中にいる自分たちをみて、怪物は短絡的にも橋を壊し、輝夜と自分は宙を泳いだ。
(おねがい、おねがいおねがい、どうにかなって!)
(どうにかして!)
(このひとを、助けたいの! 気の合う友達を!)
まずいと感じた自分は、輝夜を抱え、背中に燃える翼を表し一生懸命飛んだ。
翼は数年ぶりに出したからか、脆弱なもので五分で消えたが、なんとかその間輝夜を落とすこともなく、対岸にあがれた。
自分はぜいぜいと呼気を荒げて、橋の向こうでぽかんとしている怪物に中指を立てた。
「人間を嫌いになることもあれば、好きになることもあるんだな、って思いだしたの」
「そうかい。ありがとう……とてもきれいな翼だった」
「お世辞はやめて。羽も少なくて、大きさもない、ぼろぼろの羽だった」
「……命の羽ってかんじがしたよ。ほんとに、きれいだった」
微笑むこの人をみて、ああこの人はたらしなのね、と理解した。
下山するころには、シルクハットの男が駆け寄ってきて、輝夜を先生!!と抱きしめた。
わんわんと泣きながら、自分と目が合うと薄ら暗い金色のまなざしを見つめた気がして。
男の正体に気づくなり、はっとした。
なるほど、この男がいたから輝夜は助けてくれたのだろう。
この男は、自分たちの龍脈だから。
「もう大丈夫だよ朱雀。オウムみたいな暮らしをしなくていいんだ。インコみたいに飼われなくていいんだ。好きな場所にいって、好きなことをしな」
「……でも、足が……」
「知り合いに神の妙薬を、君にあげるならという条件でもらったんだ。蛇の油薬だ、君ならきくだろう」
油薬というものですら詐欺になりやすいものなのに、それを平気で信じて手渡す輝夜を見て、この人は詰めが甘いゆえにみんな手を貸すのだろうとどこかで納得した。
たしかに薬は本物で、どこかの蛇神が自らの油を使い、薬にしたのだろう。だとすれば塗るだけでどうにでもできる、万能薬となるだろう。
実際塗ってみれば、あっというまに足は回復し、ぴょんぴょんと飛んでも体が軽く自由だ。
「ありがとう、愛してる」
「ん? もうあの男のしつけを実行しなくていいんだぞ」
「違うわ、貴方という人間に親しみを。慈愛を込めたの。お礼の代わりよ。輝夜、貴方のいうことならなんでも聞いてあげる。だから、その龍脈には気を付けてね」
自分は炎を身にまとうと、真っ赤な鳥の形を得て、空へと飛び立った。
シルクハットの男がそれを言われてどんな顔をしているかなんてもうどうでもいい。
それより空。
焦がれていた空を自由に飛びたいの。
ああ、なんてこの青は美しいのだろう!
この青を再び身近にくれた人間を、愛している。
友達として――。
だからいつか、さっき自分を助けてくれた人たちのように、自分は輝夜の力になりたいからというエゴでエゴを一致させ。
助けに向かうのでしょうね。
献身的な愛を、エゴと称する姿は少しだけ面白く感じて、久しぶりに歌いたくなった。




