第四十一話 歪(いびつ・ひずみ)
年末年始は過ぎ去り、ようやく日常だ。
悪夢のような不倫天国クリスマスも、めまぐるしいカメラの大活躍も終わった。
大活躍した戦勝のカメラを丁寧に手入れしながら、輝夜は苛立ちや疲労感に眉をひそめる。
誰か様からの監視は月に一回感じられる。
あれから警戒心を高めて様々な手は尽くすも、完全に払えるわけでもなく。
やはり他の神である吉野がいないのは痛手であった。
それでも泣き言を言うわけにもいかず、というより泣き言ですら輝夜は実感せず。
監視されても輝夜は怯えもしない、泣きもしない。
ただひたすら目障りだと、瞳が物を言っていた。
じわじわと精神が追い詰められていた、きゃらきゃらと子供の声は非常に五月蠅く。
自分だけが聞こえるので、さらに輝夜への最大の嫌がらせともなっていて、輝夜はついに参りその日は休むこととした。
市松はここ最近何か用事ができたのか、事務所に顔を出してはくれなかった。
銀次だけが輝夜のそばにいて、輝夜の事務所でゲームするのは銀次であった。
普段はやけに騒がしいゲームの操作音も、音楽も今は心地良い。
兎に角、子供の声がすれば脊髄反射で圧倒的に具合が悪くなっていた。
「どうやってあの子供らに、人間を追い詰めることが出来るのかと思っていた」
「私もタフである自覚はあったんだけどな、声がとても嫌なんだあの声は……」
「わしを恐れぬとはまさに幼子だな、敵の大きさを知らぬと見える」
「……知ってるから来てるのかもね」
今、華石は偽物しか手元にない。それを銀次は多分知らない、はずだ。
偽物であるからこそ、それを見透かして誰か様は来ているのかも知れない、何かあっても強制できぬ力だ。
此方からルールを破っている以上は銀次の良心に従うしかない、華石あっての銀次の護衛なのだから。
誰か様はおそらく、銀次を自分たちから剥がしたくてこういう手段をとっているのだろう。
銀次が一番厄介だと子供ながら感じ取っている様子だ。
誰か様は銀次がいない隙を見計らってくるうえに、銀次は市松たちほど熱心に守ってくれるわけではない。
輝夜はとうとうお祓いを考えていた時期だった。
電話が鳴ると、輝夜は大嫌いな存在だというのに顔を明るくさせた。
声を弾ませ、名を叫ぶ。
「ジェイデン!?」
『なんだその黄色い声。病んでるのか』
「ああいや……最近大変でな、あの呪いが」
『なんだよそりゃ。狐はいないのか』
「ああ、ここ一ヶ月顔を見せてくれない。その間銀次が守ってくれていたんだよ」
『そうか……余計なこと言ったかもしれねえな。まあいい! あと少しで帰国できる、目処がたったんだ。しっかりその不幸面で出迎えの準備しとけよ、鈍感女』
「ははは、何でだろうね。君の嫌いな声がちょっぴり励みになるなんて」
電話を切り終われば、銀次に声をかけようと輝夜は銀次を見やる。
だがしかし、銀次は遠い物を見つめている。
銀次は刹那に虚空を恐ろしい形相で睨み付けとんでもない勢いで駆けだし、一気に表に出た。
輝夜は驚きのあまり、咄嗟に追いかけたが、銀次に「戸締まりを!」と声を張られ咄嗟に扉まで追いかけていたので扉を一気に引き寄せて戸締まりをして鍵をかけた。
なんだかよくない。
ああいつものやつだ。
輝夜は不安に思うより先に、ブレスレットに手を伸ばし日本刀を具現化した。
その瞬間、輝夜は異空間に飲み込まれ、銀次の「輝夜!」と悔しげに名を呼ぶ声が聞こえた。
輝夜は意識をなくし、眠ったあとのような感覚で瞳を開けば、目の前には白い子供の形をした光の群れ。
光の群れたちは大騒ぎし、輝夜を取り囲みきゃらきゃらと笑う。
日本刀を振り回しても効果は無くて、余計に集ってくる。
気が狂いそうな笑い声だ、輝夜は頭を抱え、なんと涙を零した。
心がくじけそうだ、よくない、これはまずいと輝夜でさえ感じた。
遠くから犬の声がする。ポケットに入れていたスマホから、ポメラニアンの鳴き声が響き渡る。
誰か様は大慌てし輝夜から離れていく、光の群れが離れていけば、スマホの中からポメラニアンが現れた。
「輝夜、大丈夫か!」
「その声、桃か!? なんて可愛らしい姿に!? いや、元から愛らしいのは君の特徴だったけれどね」
「そんなことどうでもいい! 輝夜、すまない。やっとお前の両親の故郷まできたが、少々へまをしてな。よくない札に触れてしまい、お前に呪いがいってしまったようだ」
「ああ……それでいきなり」
「犬の声は破邪の気質があるらしい。お前のこの電話の電力が持つ限り、通話はしたままにしていてくれ。僕が叫んで追い払う」
「……ああ、わかった……。君が、言いたいことが判った」
輝夜は聡い女性ゆえに言葉なくても通じるはずだという桃の思案が成功したようだ。
「まず僕の言うとおりに進め、この方角はきっと子供の好きな方角だ。僕は詳しい」
誰か様が遠のきながら様子を窺う。
子供の好きな方角とはと小首傾げながら、誰か様から零れている光の粒を追いかけるように歩いて行く。桃はその間犬の鳴き声を飛ばし、誰か様を近づけない。
異空間はやがて大きな家に辿り着けば、その家に誰か様はたむろしていた。
大きな家からは沢山甘い香りが香ってきていた、なるほど子供の好む方角だ。
桃はそこに大漁にある光の粒を盗むように言いつけると、そこから電池がなくなっていき、一気に途絶えかけていく。
「輝夜、いいか! 心に楽しい思い出を描け! 楽しい思い出を描いて、その粒を振りまいて歩け。それが帰りたい方角だ!」
桃の訴えと同時に電話はついに電池がなくなる。
一気に静かになるとまた笑い声が復活し、輝夜は泣きそうになるも、桃を信じて心に問いかける。
楽しい思い出。
楽しい思い出だ。
市松と笑った、吉野と怒られた、ジェイデンと喧嘩した、桃とわかり合えた。
銀次と老婆のダンスを見た……。
これだけでは光の粒は輝きが薄い、きっともっと強い思いを過らせろとのことなんだろう。
もっと楽しいこと、楽しいことだ。
日常を思い出すこと……日常にはいつも、あの人がいた、と輝夜は項垂れた。
(帰りたい場所、帰りたい人のいるところ……)
そういえば子供が詳しいなんてこの光の粒は何でできているんだろう。
輝夜は光の粒を恐る恐る舐めると、それは何故かいなり寿司の味がした。
懐かしい味に、一気に輝夜は市松に会いたくなり――光の粒も強烈に光ると、輝夜を取り巻き現実に戻した。
*
輝夜は頭が何故かぽやぽやと熱に浮かれていた。頭の芯がぼうっとしたままふわふわとした心地だった。
感じたこと思ったことそのまま全て隠さず吐露したくなっている。
「まあ先生?」
「市松……市松、やっと会えた……市松だ」
「あらええと……どう言おうかしら、再会できたのそんなに嬉しい?」
辺りは暗く、どうやら森の奥にいるらしく。
市松は困った様子ながら何処か嬉しそうに微笑み、抱きついてきた輝夜を撫でた。
「先生。ひとまずここは妖怪の里なの。僕の一族の里ではないけども、お帰りになってよ。危ないとても」
「ああ……お前も帰ってくるんだよな?」
「そうね…………ねえ先生。もしも、僕が人間だったら先生どうする?」
「よく分からないが……お前はお前だ変わらないだろう? 相変わらず湯河原屋とレースゲームのファンだ」
「……そうねえ……でも、先生は僕の恐ろしさを知らない。具体的には知っていても、見ない振りしたの。それなら質問を変える」
「市松……?」
「先生を妖怪にする方法を、僕が探しているとしたらどうします?」
市松は穏やかに微笑みかけると狐面をそっと外し。
狐面越しには美しい顔もなく。誰かの顔でもなく。顔のない本来の市松だ。
市松は答えられない輝夜にほほほと哄笑してから、頷き、肩を叩いた。
「そう、そういう反応。こんなときでも否定しない先生、それに僕がどれだけ嬉しかったか貴方は知らない。だからこそ、貴方はきっと世界で一番不幸ね」
市松はそっと帰り道を示し、一緒に帰り道まで送りながら輝夜を送り出した。
輝夜は今にも泣き出しそうな気配がした市松に、そっと両手を握った。
「なあに……」
「一緒に帰ろう」
「駄目よ、僕妖怪だもの。今ならきっと貴方にも危険」
「どうして」
「貴方の足下見てご覧なさい、正確にはいたところ。今なら見えるでしょう? 後始末していたの、見られたくなかったですね」
輝夜に背中をあけて歩いてきた道を見せれば、市松と出会った場所には人間の死体。
顔がない人間の死体だ。
輝夜は青ざめながら、市松の手をぎゅっと握りしめた。
「いやだ、帰ろう」
「……怖いのに無理するなよ」
「怖いよ君は。でも、君は怖くみせようとしてる、たまたま君の都合が悪いときに出くわしたから。帰ろう、いいよ見ない振りしてやる」
「……お友達ですものね、帰りましょう」
「……うん、へへ友達だ」
輝夜の幼くはにかんだ笑み。
この状況では間違いなく狂気的だった。時季外れの曼珠沙華が狂い咲いてるような、艶やかさも持っていた。
(偽善だ……偽善で生きてる、それは良心の動きじゃない)
同族を殺されたのを見ても尚、友達の帰還を望む。それだけならまだしも、この状況で安堵して笑った。間違いなく、普通の人間じゃない。
否定をしない、否定をし続けない良心の化け物の正体が判明し、浮世の美しさや秋波を放ったように市松は感じた。
(そこで本来は悲しみ叱咤すべきだと、良心であるならば妖怪の僕でも知ってますよ。人間の情に関しては……貴方は知らないのですね、教えてくれる人がいなかったものね)
だとしたらこれは市松の罪だ。
正常を教えるべきうちの一つの存在を奪った市松の罪。
(そう、それなら貴方は今まで気狂いな偽善を貫いてきたのね)
(偽善で救われてきたショックより、人間の本性がビスクドールみたいな貴方にあることが遙かに嬉しい自分がいる……それも桁外れの狂った感覚だ。普通なら、そんな美学簡単に棄てるのですよ)
輝夜の身体は震えている。それでも手は離してくれない。
目を見張る光景だ、滅多に現れぬ本質。
(そうですよね、本当は逃げ出したいはずだ。それでも美学の偽善で僕を優先してくれている、友達だからとこの僕をだ。僕を、お友達とお認めに?)
ぞくぞくと一気に背筋や頭の芯に甘い痺れを感じ見惚れると、市松は自分があやかしだと改めて感じ取る。人の狂気に触れて、こんなにも身体が震え悦んでいる。
市松は一気に夜に花咲く椿ほどの色香で、華やいで目鼻を映すことなく嬉笑した。
輝夜は正義の味方でも裁く者でもなんでもない。
ただ、自分さえよければいいの信念の究極だと、ようやく市松は気付いた。
市松の存在は輝夜の中で間違いなく大きくなっている、輝夜は自覚していない。
市松は一気に泣き出しそうな感覚に陥るし、この世全ての至福を詰め込んだ恍惚にも感じた。
(――ああ、そんな貴方だからこそ、壊れた貴方だからこそ。魅力的なのね。……ジェイデン、僕が間違ってた。僕は人間から外れたこの人を、愛してるんだろう。それでもね……恋を望んではいけない、僕はこの人をこんな不安定にした最大の元凶だ)
友達ではなく、友情ではなく。
市松は愛情を抱き、輝夜に笑いかけ人間界に戻った。
(この人にはお友達を望むよ――それがどういう形をしているのか、判らないけれど。愛しているから、もし変化しても受け止めるよカグヤ)
いつか貴方に恨まれようとも、奇異の眼差しをうけようとも。
価値観が他者に染まっても。
きっとこの壊れた人間を矯正してから、もとの平凡な世界へ戻した方がいい。
壊れているのは輝夜のためにならない。このままだと、輝夜はまずいことを引き起こす。
自分さえ良ければと、何者か殺すかもしれない危うさもあるし。
下手をすればサイコロで選んだ標的を指さし、吉野に「あの人が憎いの」と強請る危うさもある。
輝夜自身が狂気を放ち人の道を外れる前に、人の道へきちんと戻してやるべきだ。
市松は、自分の気持ちより。自分の懸想より、輝夜自身を案じる。
人を襲う妖怪であり輝夜の母でさえ襲った妖怪が、輝夜を熱心に加護しようというのだ。
それは世にも滑稽で、美徳で希有な「恋心」と呼ばれる信仰心。
(貴方はもっと楽に平穏にお生きなさい……貴方を化け物じゃなく、人間に戻します。一般的な価値観を、お持ちなさい。僕を嫌うようになっても危険から離してあげるから)
(その偽善はとても美しくて僕は憎らしいけど、すごく好きよ。だけど、貴方はそのせいでとても危険なの。偽善を命がけで貫くのが、化け物たる所以だ。それが良心に見えていた……なら、その良心を暴かせたりしない)
(価値観が一般的になるまでは「良心」の化け物でいなさい)
市松は無償の愛を、自覚して静かに微笑んだ。
皮肉なことに妖怪の市松が本当の優しさを手にし、人間の輝夜は自分本位の感情を持っている。
――それでも救われてきたのは事実だ、己も、吉野も。他の者も。
熱狂的ファンがどんどん出来上がっていく仕組みを理解出来た、他の者はそれだから危ういと輝夜を見ていたくなるのだ。まるで補助無し命綱無しの綱渡りショーを客席で見ている感覚だ。
微笑む気配がすれば、先ほど死体をみたというのに輝夜は華やぎ微笑み返した。
誰か様からの恐怖や追い詰め方から、ここまで壊れた姿を表に現したのだろうけれど、きっとこれが輝夜の本性で本質なのだろうと市松はコートを翻して探偵事務所へ案内した。
「市松、変な顔してるぞ」
「顔がないのに判るんですか」
「露出狂と同じ種類のだんまりだった」
「まあ貴方にとても興奮して脳が焼けたのは間違いない……ちょっと冗談ですよ! 逃げないでください、春先に出るあれと一緒にしないで!」