第三十九話 総大将の喪失感
真夏を越え、秋の初旬。
銀次は手紙の老婆と頻繁に遣り取りをしては、夜中に昔のように遊びに来ていた。
家の者にばれないように二人の秘密をたくさんつくっては、青春の再来を謳歌していた。
とてもその日々は銀次にとっては愛しくて、この時期だけは輝夜に対してでさえ優しさを振りまいていた。
その月日にも永遠はなく――共に歩む日々はもう少ないのだと、老婆は実感していた。
「今日でさよならね」
老婆は突然銀次に別れを告げた、やってくるなり夏の名残の麦茶を出し。
少し疲れた様子で笑った。銀次は頭が追いつかなくて、未だに笑みを浮かべている。
「何を申すのだ。まだやっていないこと沢山あるだろう?」
「私はね、此処へ療養でいるの。残り少ないと、医者にも言われて始めたわ」
「何が少ないんだ……いや、言うな。言わないでくれ、確定したくない」
銀次は一気に青ざめて絶望した顔つきで、目元に涙を滲ませる。
心の中で巣くう気持ちが、ざわつき、ただ一つ歪んだ気持ちを生み出す。
(そうだ、彼女に人魚の肉を食べて貰おう。取り寄せて、そうだ――それならまだ彼女といられる)
妖怪とはあまりに太古の存在でいるままからか、歪んだ想いを抱けばまっしぐらに純粋に受け止めてしまう。
銀次はにっこりと微笑み、老女は見つめて首を緩く振った。
「駄目よ、私の好きだった貴方のままでいて。妖怪の本性を見せないで」
「……わしに任せろ、お前が生き抜く手など数多ほどある」
「だからよ、ねえ、駄目よ。その数多は誰にも使っては駄目。かっこいい貴方のままでいて」
「何を言うんだ、わしはだって……まだ……お前と……」
接吻をしていない、と顔を俯け銀次はぽろぽろと泣き出した。
泣き出した顔を見られるわけにもいかず、銀次はそのまま自分の塒に戻る。
自分の元に集まった妖怪達へ一言放った。
「人魚の肉をとってこい」
見たこともない威圧感で、物の怪たちは震えた。拒絶も許されなかった。
*
人魚の肉というのは適性が揃って食せば、不老不死になれるという幻の珍味だ。
ただ、人間にとっては拒絶反応が高いため、大きな博打となる。
今の銀次の頭にはただ老婆に食べさせれば不老不死が「必ず」叶うとしか頭になく。
激痛を齎すなど頭になかった。
妖怪たちはこぞって皆で人魚の肉を我先にと敬愛な頭目へ、惜しまず献上した。
人魚の肉を紙袋に包み込んで人間界に戻り、これで彼女は生き延びると銀次は一人微笑んで夜中、老女の家に戻る。
老女の薫りを辿って侵入しようとした刹那、誰かにくんと袖を掴まれた。
輝夜だ、輝夜がとても強い意志で此方を睨んでいた。
「やめたまえ、それからとてもよくない匂いがする。君からも……普段の君と違って、とても妖しくさい匂いだ」
「何故此処へ? お前のお役目はわしとあの子を引き合わせるだけだろう」
「あの人から話を聞いてまずいと思ったんだ、そのままじゃお前嫌われるぞ。もう仲違いしたくないんだろ」
「……永遠に別れるよりかはいいとは思わんかね? それともお前も愚鈍な人間と、同じ価値観だというのか」
銀次の言葉は平凡さをついた、特別感を煽るものである。
平凡さを厭う普通の人間であればそんなことない、と袖を放すか。
しかし相手は非凡なる輝夜、愚鈍と呼ばれるものたちと一緒にされても何も変わらない。
自分自身が変わらなければ、周りの評価さえどうでもいいのだろう。
銀次は代わり映えない反応を見れば、確かに輝夜は非凡だと認めた。
「君にとってきっとよくない、それは。とても嫌なにおいがする」
輝夜は再び異を唱えた、自分の危険センサーがびんと立っている。
銀次は後ろ手に紙袋を隠し、人魚の肉を隠した。
「わしはただあの子と遊びたいんじゃ、どうして止める」
「君が望むのは本当に在り方も変わるあの人なのか。あの人は今の種族で今の在り方だからあの人のままでいられたんじゃないか、君が惹かれたあの人で。望まないことをしたら、変化するぞ。優しい眼差しも、暖かい声も」
紙袋の中身は知らないといえど、確かにそれは当たっている話だ。
銀次はぎりぎりのところで理性を取り戻し、紙袋を異空間に吸収させた。
「何もしないから、あの子のところへ案内してくれ」
銀次はうっすら悔しさや涙の見えた眼差しで、輝夜に願った。
輝夜の案内で老女の寝室に行けば、老女は酸素マスクや様々な装置を使って横たわっていた。
銀次は輝夜へ目をやり、あの日からいつの間にか沢山月日を使っていたことを思い知る。
老女は銀次に気付くと酸素マスクを取り、手招こうとした。
銀次が遠慮がちに躊躇いながら顔を寄せれば、老女と銀次はキスをする。
銀次が驚いて涙した瞬間老女は銀次を手放し、頬笑んだ。
「やっと私の貴方に戻ってくれた、ありがとう、好きよ」
「待て……」
「さようなら、寂しがらないでね……そばにいるわ」
「待てと言ってるだろう、人の話を聞け。おい、おい!」
老女は事切れ、その場に電子音がぴーーーーと鳴り響いた。
輝夜は慌てて銀次の肩を叩き、老女の家族を呼んでくると、銀次は誰にも気付かれないまま老女に泣き縋る家族達を見つめていた。
ぬらりひょん故に、輝夜以外は銀次の存在を視覚から認知することもできず。
ただただ放置される。
あのキスは。
確かに人魚の肉を与えていたら、得られない物だった。
まっすぐと老女を見つめることは、できなかったかもしれない。
銀次は月へ仰ぎ、ぼろぼろと大泣きをした。
*
老女の葬式を終えると、真珠を耳に付けて輝夜がやってきた。
自分の隣へくるなり、酒瓶を輝夜は銀次に手渡したので、気遣いまで剛毅な女だと銀次は笑った。
「あれは、人魚の肉だったんだ」
「不老不死になるものか、止めてよかったよ。あの人は自然のままでありたいっていっていた。花のように生きるのが憧れだと」
「……お前は正義感から止めたのか?」
「そんなもの振りかざして何になるんだ、人間として嫌だったからだよ、君の持っていたものが。私だって市松が持ってきたら、ぶん殴る」
話していて実感する、輝夜には正義感も押しつけもなく。価値観の拒否をしたかったわけでもなく。拒絶でもない。
ただただ、自分の根底にある美学でしか生きていない。
――この歪な美学への拘りに気付いてる者はどれだけいるのか。
この人間が人間同士でくっつくのはより不自然な気もしたし、そのあっさりさも人間だとも過った銀次は苦笑し酒瓶を煽った。
市松がもしこの人間を手にしたいというのであれば、もし自分がこの人間を気に入る日がくるのであれば。
そのときは人魚の肉を貸してやろうとも、銀次は懲りずに思った。
自分より優しい市松がそんなことを望むわけがない。
だからこそ、敵として存在し食わせてやれば、輝夜と市松は一生自分を恨みながら人間になれないまま暮らすだろう。
猿田彦も完全に人間ではなく、本物の化け物となった輝夜ならば歓迎してくれるのでは?
ただそれは気に入ったときの話、まだ今はほんの少し気にかけてもよいと思っただけ。
人間からの逸脱もまた一つの解決か、とぼんやり銀次は思案していれば、月は雲に陰った。
もう秋も終わりそうな程、時は進んでいた。




