第三十六話 猿の妻の上機嫌
梅雨がやってきた、鬱々とした季節にじっとりした湿気。
気持ちが暗くなるのが大抵だ。
梅雨から始まるのが、輝夜の命のチキンレース。
この季節から毎年夏が終わるまでが、一番危うかった。
街に出れば浮遊霊を引き寄せ、帰り道に怪奇現象に出会い、事務所で市松と銀次が全てを存在だけで追っ払うというのを繰り返していた。
この日は特に、じめっとした熱さが強く。
輝夜も項垂れながら依頼人に報告を届けに行ってから帰る道だった。
帰路の途中、不思議な和服美女と遭遇する。
和服美女の周りだけは、雨ではなく雪になっていたのだ。
梅雨の雪とは随分物珍しいものをみた。
和服美女は輝夜と目が合うなり、困っていた面持ちをぱあっと明るくさせ、近寄り声をかけてきた。
「良かった、貴方旦那様の知り合いね? 旦那様の匂いがします」
「知り合いに既婚男性はいないんですがね」
「ならきっと、本当にただの知人なのかもしれない、貴方はどなたですか」
「佐幸輝夜、探偵ですよ」
「あら、ではきっと貴方が……よかった、困っていたの」
着物の美女は嬉しげに顔を綻ばせて、道に迷っていた旨を伝えると、輝夜の事務所の近くまで用があるのだと伝えた。
「旦那様に渡したいものがありまして」
「そうか、なら案内しようか」
「いいえ、貴方がその事務所という場所にまでたどり着ければあとは判りますわ」
ふふ、と少女めいた仕草で微笑む美女に、冷気を感じた。
怒っているわけでもなく、美女が仕草を何かしらするたびに、寒さを覚える。
輝夜は気のせいだと思い込むと、美女と道程話し込んだ。
「奥様がこれだけ美人だと旦那さんは苦労しそうだね」
「お上手ね。でもどうかしら、あの人は私達に思い入れはないから」
「私達?」
「私は第二夫人で、妹が本妻なの」
おしとやかな見目にあわず、大変な事情を持つご家庭だと輝夜は瞬く。
瞬くも否定する気はないので、さらりと流して、そのまま会話を楽しみながら事務所へと辿り着く。
事務所にまで来れば、ぴたりと着物美女は立ち止まり、輝夜を見送った。
「あとは大丈夫よ、有難うね」
「いいえ、役に立てたならよかった」
「貴方とは多分またいつか会うわね、それまでお元気でね」
美女の言葉に輝夜は頷き会釈をしてから階段を上がり、事務所の中に入る。
着物美女はそのまま見送ればカフェに入る、カフェに入るなり猿田彦は瞠目する。
「珍しいなお前がくるなんて、守備は順調か? 他の奴らはなんて?」
「届け物があってね。ええとても計画は良好、みんな貴方についていきますって。貴方の獲物を見てきたわ、どんな子か気になって」
「妬いたのか」
「少し。でも必要なかった、貴方の嫌いなタイプだったもの」
「どうしてそう思った?」
猿田彦の言葉に、着物美女は困ったように笑った。
「親切で見るからに育ちの良さそうな女の子、嫌いでしょう? 性格悪いのが貴方の好みだもの」