2話 赤子
目が覚める。目をゆっくりと開くと、眩しいまでの白色が一面に広がった。サナトリウムでの出来事も、現世の出来事も鮮明に憶えている。きっと、転生に成功したのだ。
周囲を見回すために頭を持ち上げようとしたその時、ある事に気づいた。
――首がすわっていない。
生後2週間を甘く見ていた。サナトリウムで羊ナースと練ったプランが瓦解していく。
肉体は赤ちゃんのそれでも魔力や生命力は『不老不死』により最高レベルらしく、発動方法さえ分かれば恐らくどんな魔法も発動できるというのが羊ナースの触れ込みだった。言語に関する知識も転生と同時に与えられるため、家族が寝静まったらハイハイで魔法の書やら何やらを読み漁って魔法を習得するというのが当初の予定だったのだ。
生後2週間の筋力でも、手足の動かし方さえわかればハイハイくらいはできるだろうと高を括っていた。
だが現実はそうはいかない。
生後2週間の僕にとって頭は重すぎる。ハイハイどころか、首を動かすこともできない。
こんな時に赤ちゃんにできることはあるのか。捻れない頭をフル回転させる。
……あった。
「おぎゃあ! おぎゃあ!」
……そう。全力で泣くことだ。
僕の全力の祈りは届いたらしく、どこからか足音が聞こえてくる。聴力が機能することにも少しホッとした。
「ノア! 大丈夫!?」
焦りに焦った声が耳に入る。足音が僕のすぐ近くで止むと、大きな影が視界に入った。
きっと、母親だ。夢にまで見た親の顔をついに見ることができる。ただでさえ早い鼓動がさらに早くなる。影はどんどん近づいてくる。
「良かった……起きただけね」
視界いっぱいに広がる大きな影から優しそうな声が聞こえてくる。……あれ?
待ってくれ。赤ちゃん、視力悪すぎだろ。
転生前の僕の無知を恨む。これじゃあ魔術の書も読めるか怪しい。動き回るための筋力も、知識を得るための視力もない。この体では自力で経験値を得ることはほぼ不可能だということを身を以て感じる。
「ママ、どうしたの?」
最初の声よりかなり幼い、女の子の声が聞こえる。どうやら僕には姉がいるらしい。さっきよりは少し落ち着き、言語が日本語と同じ感覚で理解できることに気づいた。単語の意味などを把握するのに時間がかからないのは僥倖だ。恐らく、書物も見えさえすれば読めるだろう。
「あらセリス、ノアがちょうど起きたところよ」
ノアというのは僕の名前らしい。良い名前だ。発音できるのがいつになるかはわからないけれど。
「ねえ、ノア触ってもいい?」
セリスと呼ばれた、姉であろう少女は遠慮がちな声を発した。
「ええ、頭以外なら」
うん、首すわってないしね。さすがお母さん、よく分かってる。
右手に柔らかいものが当たった。初めての感触に思わず手を握る。
「見て、ノアが私の指握ってる!」
無邪気な姉の姿は見えなくとも微笑ましくなる。ひとまず今は先の不安を考えず、姉の指を握る。手と手が触れ合っている、たったそれだけなのに僕は幸せだった。
「ノアもお姉ちゃんの指握れて嬉しいって顔してるね」
お母さんって、すごい。
「ノアはお利口さんね、もうママのことが分かるのかしら」
部屋に入ったらすぐ泣き止んだの、とお母さんが言う。
「お利口さんだったらいなくならないかな……」
突然セリスの声が暗くなる。
「セリス、きっとノアはいなくならないわ」
「でも……カイムもエリザもすぐにいなくなっちゃったよ……」
「セリス……」
……僕は絶対にいなくなりはしない。なんてったって『不老不死』だから。
「セリスがそんなに想ってくれるんだもの、ノアは絶対にセリスと一緒に大きくなるわ」
あ、それはちょっと考えさせてください。