そして運命の歯車は回り始めた
目の前を埋め尽くす数多の炎、あの楽しい日々はもう戻らない。あぁ、平和なんてものはこの世界にも存在しないのか。彼らが何をやったのだろうか、誰かに迷惑をかけたのであろうか。鉄のような錆臭い匂い、何かが焦げる様な生臭い匂い。赤、赤、赤。マリはしばらくこの光景をただ茫然と眺めることしかできなかった。
季節が移り涼しい風が肌を撫でる、マリが村に滞在してひと月が経った。彼女は村の食糧調達担当として皆に重宝されていた。相変わらずタークの敬語は治らず、ミイハルの心配性も健在だ。ゴリラ呼ばわりしてはマリに絞められているトーマは一人前の男を目指して日々木剣を振るっていた。
「ミハルさん、今日も大物期待しておいてください」
「あぁ、何時もありがとうね。でも、怪我には気を付けるんだよ!」
本日もマリは一人で狩りへと出掛けることにした。ただ、いつもとは違い森の奥深くまで探索することにしている。彼女はひと月お世話になりました記念として大物を狙おうと画策していたのだ。
「それにしても、魔法ってこの世界にはありふれたものだったなんてね」
このひと月の間にマリはこの世界の常識もこっそりとではあるが入手することが出来た。
地球ではファンタジーであった魔法というものがこの世界にもごく普通に存在しており、都会では魔法を使えるものが沢山いるということ。魔道具と呼ばれる科学とは異なる法則で動く道具や魔法が閉じ込められた武器が存在しているということ、獣の中にも魔獣といわれる存在があり、その名の通り魔法を使える獣が存在しているということ。そして、収納魔法というものが存在すること。但し、収納魔法は優れた魔法使いでも3m×3m×3m程度が精々であり、マリの持つ大容量の保管庫はあり得ないこと。
「私でも魔法が使えるようになるのかしら?魔法が使えたら色々便利になりそうだし、この村でももっと役にたてそうなんだけどな」
残念なことにこの村には魔法を使える者はおらず、マリが教えを乞うことは叶わなかった。魔法関連の本もなければ魔道具もない。手が届きそうなのに届かないことに、少しばかりマリは落ち込んだ。
「はぁ、無い物ねだりしたところでどうしようもないわね。さて、今日も頑張って狩りますか!」
両手で頬をたたき頭を切り替える。大物を狙ってマリは森深くへと足を踏み出した。
「思ったより遅くなっちゃったわね、ミハルさん心配しているだろうな……」
狩りに夢中になっている間に、マリの周囲は暗闇に包まれていた。何時もよりもかなり遅い時間であるため、マリはミハルの御小言を覚悟した。このひと月でミハルの心配性を嫌というほど思い知ったためだ。
「仕方ないわね。甘んじてミハルさんの御小言を受け入れますか」
正直のところ、マリはミハルの御小言を聞くことは嫌ではなかった。それは、もう会うことが叶わない母親の姿を重ねていたためかもしれない。
「トーマったらきっと喜ぶわね、本当にお肉が好きなんだから。でも、次またゴリラとか言ったら意地悪してお預けしちゃおうかしら」
弟がいればこんな感じだったのかと、普段のトーマとのやり取りを思い返しマリは思わず笑みを浮かべた。トーマだけではない、タークは置いておいて他の村の人々の笑顔も直ぐに思い浮かべることが出来た。
「今日くらいは久々にパジャマを着てあげようかしら」
マリは子供たちからはまたあのパジャマ姿を見たいと懇願されていた。前回の失敗があるため人前でパジャマを着ることは避けていたが、折角の記念日だからと、部屋に招く形でならもう一度あの姿を見せてあげても良いかなと思う位浮かれていた。
「あれ?なんか村の方が明るい?」
足取り軽く歩を進めていたが、村へもう少しで着くという所でマリは違和感に気が付いた。村には魔法もなければ科学の光も存在していない。夜の光といえば精々焚き火位しかない。それなのに、10メートルは超える木々の上からでも見える赤い光は一体どういうことか。
マリの鼓動が早まり、冷たい嫌な汗が全身の毛穴から噴き出る。そんなはずはない、そんなことはあり得ないと否定しようとするが、どうしても否定しきれない。嫌な予感に従いマリは全力で足を動かした。
村まであともう少しというところで、木に背を預けている人影に気が付いた。
「トーマ!」
マリは駆け寄り、そっとトーマの肩に手を置いた。
「トーマ!トーマ‼」
何回声を掛けても返事が無い。触れる肌からは氷のような冷たさしかなく、命の温もりを感じることが出来ない。右手が消失し、背中には大きな穴が開いている。それにも拘わらず、その断面からは既に赤い液体が出ることも無かった。ここにたどり着いてからどれだけの時間がたっていたのであろうか。そんな状態であればどういうことを意味するのか本当は気が付いていた。しかし、本能がそれを理解することを拒んだ。
ふと視線を下げるとトーマの手に何かが握られていることにマリは気が付いた。それはマリとトーマが出会った日に偽装の為に用意した鞄。何故このかばんを持ってトーマがここにいたのか。判断力を失ったマリには正解を導くことが出来なかった。
「もう、トーマったら寝るならちゃんと布団で寝ないとダメじゃない」
トーマを抱きかかえて再度村を目指す。数分もしないうちに森が開け、村の門がマリの視線の先に現れた。
赤、赤、赤、見渡す限り赤一色だ。
これは現実なのか、もしかしたらまだ自分は布団の中に入っていて夢でも見ているのではないだろうか。マリは目の前の状況を受け入れることが出来ずに思考が停止したままよろよろと足を進める。
「タークさん?」
門の前には一人の男性が赤い液体の中で倒れ伏していた。顔を見なくてもその姿からいつものように笑顔で送り出してくれた村長に他ならなかった。
「…………」
そのまま覚束ない歩行状態でマリは村の中へと足へ進める。朝は肌寒いと感じていたのに、今では周囲の熱により肌が焼かれるように感じた。
とある場所より人の話し声が聞こえる。しかし、それは全てマリの記憶にない声だ。
「なんで……」
その場所へ足を進めるたびに倒れている人の数が増えていく。それらは男女関係なく鍬や包丁を手にしていた。
「なんでなのよ……」
目の前の光景にマリは遂に座り込んだ。
目的の場所に到達すると、そこには大勢の人々が積み重なっていた。その前には赤く染まった武器を手にした鎧を着こんだ男たちが佇んでいた。
「まったく手間を掛けさせやがって」
「こいつら只の農民のくせして異様に強かったよな。全員が全員逃げ惑わずに最後まで立ち向かってきた農民なんて初めてだぞ」
「子供まで不意を突いて攻撃してきたからな、手加減なんてする余裕が無かったぜ」
「蹂躙するのが醍醐味なのにこれじゃぁ全然楽しくねーわ」
「というか、自分たちで家を燃やすなんて正気の沙汰とは思えねーよ」
「守るとかなんとか奴らが言ってたけど、ここには結局なんにもなかったよな?」
「そういえば、取り逃がしたガキがなんか鞄を持っていたぜ?あれに何かあったんじゃねーの?」
そんなやり取りをしていた男たちは、視線を感じようやくマリの方へ眼を向けた。
小さな男の子を抱え、それ以外には武器も何にも持っていない純白のドレスを着た絶世の美女。彼らの目には絶好の獲物に見えたに違いない。
「おいおい、こんな所に生き残りがいるじゃん。しかもえらく上玉だな」
「お、あの取り逃がしたガキじゃねーか。あいつ生意気にも俺に蹴りくらわしやがったんだぜ?どうやら死んでいるようだが切り刻んでやらないと気が済まねーな」
「やっと楽しめそうな獲物じゃないか、これは滾るな」
「おいおい、楽しむのは隊長の俺からだぞ。ちゃんと回してやるから大人しく待ってろ」
「えー、体長ばっかりずるいっすよー」
体調と呼ばれた大柄の男がゆっくりとマリに近づいていく。その目はギラギラと濁った輝きを放っており、欲望しか頭にない。
(こいつらが皆を……、悪人、捕まえる、法で裁く、償いを……)
マリが微動だにしないことで男はこれから起こる自分にとって楽しいことを思い浮かべながらその手を肩に置いた。
(償い?法?なにそれ?法なんて意味あるの?こいつらを生かしておく意味は?関係ない、法なんてここにはない、皆を奪った、許せない、許さない、ユルサナイ‼)
「ハハ…ハハハハハ」
「おいおい、どうした?もう気が狂っちまったのか?お楽しみはこれからだっていうのに」
突然笑い出したマリに対して男は肩をすくめつつ、まずは邪魔なガキをどかそうと手を伸ばした――――正確には手を伸ばそうとした。
「ほえ?」
掴もうとするが何もつかめない。男は思わず伸ばそうとした手を見る。
無い……無い無いないナイ‼
「俺の手がっ――」
そこで男意識は閉ざされた。
トーマをそっと地面に下ろし、ゆっくりと立ち上がる。
その目は既に焦点が定まっておらず、黒く濁りきっていた。純白のドレスはいつの間にか赤で染まり、その右手には深紅の刀が握られていた。
2日続けての投稿です。
マリの物語は本当の意味でここから始まります。
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