17才の夏、夢を語る声
「百五十円……やっす」
「でしょー。ユニバ一回分で百回は来れちゃうよー」
「ユニバそこまで高くねえ! 絶対計算ミスっただろ」
しかし百回は無理でも、五十回は来られるだろう。
プラネタリウムは金のない高校生にはうってつけの場所だった。しかし訪れているのは子連れか年配ばかり。若年層は少ない。
もとよりこの施設は、子供向けらしい。
高校生カップルの多くは、もっと街中にあるゲーセンやカラオケ、外れにあるイオンのフードコートでくっちゃべっているのだろう。けれどたったのジュース一本分程度で入れるこの場所が、咲幸には一番ウケがいいのだ。
「年パスはなんとお値段千五百円!」
しかも咲幸は年パスを所持していて、実質本日のデートが飯代以外タダになってしまう。
安い女、と漏らすと「馬鹿にしてるでしょー」と唇を尖らせた。
「ここはねー、季節ごとにプログラム変えてくれててね。あとオリジナル番組もよくできてて楽しいんだあ」
「へー、そうなのか。なんか子供向けみたいだけど、子供わかるのか?」
もうすぐ始まる投映スケジュールには、アニメのキャラクターが載っている。
「萩乃くんはプラネタリウムって来たことある?」
「あー、うん。小三の時に一度」
「そっかあ、じゃあ知らないかなあ。最近のプラネタリウムってね、星空だけじゃなくて映像も投映できるの」
「映像?」
「そう。なんていうんだろ……天井が全部スクリーンの映画館みたいな?」
咲幸がドーム内をぐるりと見渡す。大きな筒で空を覗いた時のようなスクリーン。
「あたしたちが小学生のころは、県内のプラネタリウムってみんな光学式のところだったんだよねえ。あ、光学式ってのはあたしたちが学祭で作ったピンボール式とかの、電球で星を映すやり方のやつね? けど今はデジタルを導入してるところが増えてきて、ここも最近そうなったの。本当に映画館みたいな感じかあ。あたしは光学式の方が瞬きが綺麗だなって思うんだけど、でも」
咲幸は星を語るとき、早口になる癖にトーンだけは落ち着いて少し低くなる。
耳がこそばゆくなる響きも好きだが、涼風のような声もずっと触れていたかった。
俺にはなじみのない話を教えてくれる。身振り手振り、一生懸命。
「だでね、高画質のアニメ映像みたいのも映せて、ちっちゃな子供も楽しめるってことだよ」
「……その情熱を少しでも学業方面に注げたらな」
「もー、母さんみたいなこと言わないでよう」
咲幸の少しいじけた顔を最後に、投映が始まった。
投映中、ドーム内は真っ暗。咲幸がいう『映像番組』が流れている時だけは、映画館のように薄明るい。
オリジナル番組『町の自然』はひたすら草花を紹介しているだけだったので、実は寝ていた。これは咲幸には内緒だ。
次の子供向けの番組は、どうやら本当にアニメ映像を流すものだったらしい。子供たちが無邪気に笑っているのかと思えば横の咲幸で、俺は映像より彼女の顔を眺め続けた。
結局俺がまともに天を仰いでいたのは、星空紹介の三十分だけ。
咲幸が文化祭で行ったものと同じように、今夜輝く星々を解説してくれるものだった。
「長い時間姿を見せていた太陽もようやく沈むと、空には大きな金色の輝きが見えてきました。この星は一番星、宵の明星でしょうか。……実は今の時期、宵の明星と呼ばれる金星は太陽の光に隠されてしまい」
先ほどの映像とは異なり、星空解説は専門スタッフが生で行う。ドーム内にはスピーカーを伝い、穏やかで温度のある声が流れ出す。
天気や気候の様子を交えながら、時にくすりとしてしまう雑談を交えながら。独特の語り調で、今日の夜に広がる星空が紹介されていく。
隣の咲幸を覗くと、その双眸は瞬きを忘れ天に釘付けになっていた。きっと宇宙が映されているのだろう。
気が付けば天には、文化祭のあの日に咲幸が歩いた星空が広がる。
「さて、天の川の両岸に位置する織姫星と牽牛星。牛郎織女……七夕伝説で有名な星です」
解説員が、二人の物語を要約してくれた。結婚生活が楽しいあまり、旗を織らなくなってしまった織姫と牛を追うことをやめた彦星。見かねた神様に、遠く距離を隔てた場所へと離されてしまった二人は、年に一度だけ会うことを許される。
わかるぞ、彦星。
織姫と遊んでるのが幸せだったんだよなあ。牛なんて追ってる場合じゃねえよ。俺だって咲幸と同棲したら絶対仕事行きたくねえってなるもん。……行くだろうけど。
年に一度はつらいよなあ、せめて月一だよなあ。
この館内で彦星に同情しているアホは、きっと一人きりだ。
「年に一度の逢瀬を許された二人ですが、その距離はどれくらい離れていると思いますか? なんと二人の距離は十五光年。十五光年というのは、普段使うキロメートルに直してみますと約一四一兆キロメートルで、まるで想像がつきませんね」
車だと高速をぶっとばす勢いで走り続けても、一億年はかかる距離。そのトリビアは会場をわずかに沸かせた。
咲幸は、微動だにしない視線をまだ宇宙に向けて旅をしている。星空散歩を中断したアホの存在に気が付いたのか、そっと顔を寄せてきた。暗闇の中で、表情に不安が浮かぶ。
「つまんない?」
ひそめた声に慌てて首を振る。
寝てたけど。咲幸の顔ばかり見てたけど。けれど今の星空解説は、そこそこ楽しい。
よかった、と頬を緩める咲幸は、ありえるわけがないのに闇の中で輝いていた。
「綺麗だね」
続けて呟いた声は、煌めく星々のことだったのだろうか。それとも、光ですらたどり着くのに十五年もかかる距離に離れてもなお、愛を貫く二人のことだったのだろうか。
どちらでもよかった。そのどちらとも比べ物にならないほど、咲幸の微笑みが綺麗だったから。
肘置きに置かれた咲幸の手を、自分の右手に収める。小さくて少しだけしっとりと温かい、子供のような手。
もう天へと意識を戻していた咲幸は、肩を跳ねさせて再び俺へと向き直る。
女子の手に触るの、中一のフォークダンス以来かも。妹はもはや女じゃねえし。そんな思考が巡る。
周りに気付かれやしないだろうかと、天使な俺が怯えた。大丈夫だろ、暗いし。アホの強大なパワーにより、天使は一瞬で死んだ。
俺は馬鹿だ。
確かに勉強はあの学校で一番できるのかもしれない。けれど節操という偏差値が存在するのなら、俺の数値は目も当てられない状態になっているだろう。
右手に力を入れて、身を乗り出す。俺の体温に驚いているままの瞳を一瞥し、目を閉じそして、咲幸と唇を重ねた。
公共の場でいちゃつくカップルはクソだ。頭が悪くモラルも低く、ああいうのが勢いでヤってデキちまうに違いない。他人を蔑む自分が、遠い過去になっていく。
咲幸の厚ぼったい唇は柔らかくて温かく、手のひらと同じですこし潤いがあった。初めての緊張で味はわからない。
ただ、顔を近づけた咲幸の首筋からは甘い果実の香りが漂い、恐ろしく興奮したことを憶えている。
慣れないうえに視界も悪いところで働くことではないだろう。俺の愚行は、咲幸の歯に自分の歯をぶつけてしまう失敗で終わった。お約束過ぎる。おまけに頭突きまで食らわせ、暗闇には小さな悲鳴が漏れた。
もうただの暴行じゃねえか。
慌てて謝ろうとしたけれど、咲幸は完全にそっぽを向いてしまう。思い出したかのように俺の手のひらからも逃げ出し、その左手で口元を隠していた。
……死のう。俺は馬鹿だ。
「はくちょうたちが西へ隠れるころ、東の空には太陽が顔を出し始めます」
闇夜に消えてしまいたい俺の心はくみ取られず、ドーム内には朝が訪れる。
「今日は夜の始まりとともに月も隠れ、よい天体観測日和となるでしょう。本物の空を見上げれば、今日ご紹介した星たちの光を見つけることができると思います」
最後のアナウンスが響くころ、俺は冷静さを取り戻していた。夜に酔わされていた。
顔を背けたまま、白に戻ってしまった天を仰ぐ咲幸。やらかしてしまった。湧き出る後悔の念に溺れる俺。
「あの千國。ご、ごめんな。急に」
野暮ったい前髪をさらに伸ばすようにひっぱり、うろたえる顔を隠してしまいたかった。自分の声は、こんなにもやせ細ったものだっただろうか。
普段は隠れている咲幸のうなじ。その少し上には、腫れあがったように赤く染まる耳。すごい福耳だ。きっとふにふにしていて気持ちよいのだろう。……触りたい。
逸れた思考を戻し、俺は謝罪を繰り返す。
許してください、どうか嫌わないでください。男子高生の心の内は、こんなにも情けない。
俺の声を遮るように、咲幸は唐突に振り向いた。顔を隠していた手も外す。
露わになった口元は半月になり、そこにはいつもの八重歯がちらりと覗いていた。
「いーよ」
俺へと届く声と笑顔は、咲幸がいつも振りまく純粋で子供っぽいものとは異なる。弟のいたずらを許すような、柔らかい和風を思わせる、お姉ちゃんの顔だ。
許された、と心ではしゃぐ俺は、すぐに自分のガキっぽさに嫌気がさして俯く。
純粋にあの星空を望んでいた咲幸の隣で、俺はなんて不埒なことをしていたのだろう。星を追う咲幸の横顔は、あんなにも尊かったというのに。俺はそれを汚してしまった。
立ち上がる人たちを横目に、咲幸はまだ座席に体を預け動かずにいる。
「萩乃くん、どうだった?」
大きなドームの中心に据えられた投影機。広がる星空。
どこか穏やかな笑みを浮かべて帰っていく観客たち。彼らに出口で頭を下げているのは、先ほど解説をしていた職員だろうか。
美しい天だった。そしてこの場所には、どこか優しく温かな空気が詰まっている。俺はこの場所が好きになった。
素直な感想を口にすると、咲幸は幸せそうに微笑む。
「萩乃くんがそう言ってくれる人でよかったあ」
俺がしたようにドーム内を見渡した咲幸は、もう一度星のない天に目を細めた。そして後ろを振り返る。視線の先にあるのは、無数の星を映し出す場所。この天に命を吹き込む、コンソール。
「あたしね、プラネタリウムの解説員になりたいんだ」
子供のころからの夢なの。
どこまでも透き通る、涼しげな声。星が好きだと、教えてくれたあの日と同じ咲幸の声。
17才は、高校二年生という時間は特別だった。大人にはなりきれず、けれどもう小さな子供とは別の生き物で。リアルとは違う空間で夢を語れる、不思議な年齢だった。
咲幸との時間は、すべて憶えていようとした。
それなのにどうしてか俺は、あの日の咲幸に返した言葉を、思い出せない。




