Epilogue
あたしは最近夢を見る。
十九歳を迎える夏、初めて健一くんと夜を明かした日の夢。
あたしを幸せにするために、一生懸命働く。そう意気込んだ彼の目は、始まりの夕暮れと同様に、分厚い前髪の奥で潤んでいた。あたしだけが知っていると信じていた瞳だ。
引き締めた口元に、ぽつぽつと散らばる赤く痛々しい腫物。薄っすらと髭の痕が残る。
大学生になってからは毎日剃っているのだと、翌朝大袈裟な振動音の中で教えてくれた。男の子から男の人になった健一くんの変化を、なぜかその日のあたしは妙に意識したことを憶えている。
大人へと近づく健一くんが涼しげな双眸に映す未来は、まだどこか子供らしく微笑ましい。
結婚後の日々は決して特別ではなく、宝石を眺める煌めきが溢れているわけでもないと、十八歳のあたしは知っていた。両親を見ていればわかる。
きっと芝刈り機のような音が響いているこの朝が、日常になることだ。
あの夏の朝、あたしはオムレツかスクランブルエッグか卵焼きか、自分でもわからない形の料理を作りながら(味は出し巻卵だった)、健一くんに堪らない愛しさを覚えた。とても唐突だった。いつものぼんやりとした曖昧なものとは違う。涙が出てしまいそうなくらい切実な、想い。
「ねえ、健一くん」
「ん? どうしたんだよ?」
衝動のままに、あたしは菜箸を手にして洗面所を覗く。手を止めて振り返った健一くんの口元には、やっぱり半端な髭の痕。
「ずっと、一緒にいようね」
口走ってから、その日は途端照れくささがこみ上げた。
お皿に乗せた卵料理みたいにふわりとした言葉は、健一くんに正しく伝わっていたのか自信がない。あたしの想いはいつも綿帽子のように軽く浮いていて、どこかへ飛び去ってしまう。
「おう。……当たり前だろ」
でもあたしの心を細い目で探し当てた彼は、見失わずに捕まえて、あたしの寝癖を大きな手のひらで悪化させた。
長細い指が髪の毛に絡む。お腹の真ん中に生まれたのは、温かく優しい気持ちだ。
あの夏からもうすぐ、十年が経つ。
あたしを幸せにしてくれなくても大丈夫だから、あたしと一緒に幸せになって欲しかった。
***
新しい年を迎えると、健一くんのSNSの投稿は消えていた。
家族と紅白を見て、ゆく年くる年に変わるテレビを横目に、年越しそばを茹でる。固すぎるだの柔らかすぎるだの注文が多い家族を無視して、蕎麦を啜った。
ちーちゃんに至っては毎年、「うどんがいい」とぼやいている。うどん県に行きなよー、とだけ言っておく。
零細ながらウチは蕎麦農家でもあるというのに。
蕎麦は年を越す前に、食べ終えた。
年をまたぐと途端に熱が冷めたように、家族は各々の部屋へ戻って行く。
間延びた鐘の響きに感傷的な気持ちが蘇るせいか、あたしは大晦日の夜が好きではない。変に目が冴え寝れなくなってしまう。
だから新年早々なんの気なしに元恋人のSNSなんかを覗いてしまって、幸せを凝縮させた書き込みの消失に、驚いている。
一体いつの間に消してしまったのだろう。
代わりの更新はもうされないのだろうと、あたしは不思議と直感した。
最初から一年だけ載せておくための書き込みだったのか。調子に乗って結婚式の写真を上げたものの、その後更新するネタがなくて、恥ずかしいから消してしまったのか。理由はわからない。
どちらにせよ、あたしはもう健一くんの顔を見られない。それだけの話だ。
手元に残った数少ない思い出の品はそのままに、少しずつ記憶は薄れていく。目に見えない速度でゆっくりと、けれど年月を重ねるごと確実に、心の中の健一くんは離れて行くのだろう。
気付けばずっと距離を隔てた場所に遠のいていて、諦めるとはどこか違う感覚で、あたしはその事実を受け入れる時が来る。それがいつになるかは、まだわからない。
まっさらな画面は、あたしの中で静かに生き続けていた感情を、ふつふつと再熱させた。
健一くんへ
元気ですか。あたしは元気です。
実家の夕食を食べ過ぎてしまうせいか、太ってしまったことが最近の悩みです。
年越し蕎麦を食べたり、除夜の鐘を聞いたり。浮ついた大晦日の夜には、健一くんを思い出します。それももう九年も前だということが、信じられません。
健一くんは今、どこで何をしていますか。
あたしは地元の博物館で働いています。プラネタリウムの解説を任されるようになりました。(知っているとは思うけれど)
あたしにとってこの博物館は、今でも特別です。健一くんと過ごした思い出がたくさん詰まった町も、特別です。健一くんのことも、特別です。
あたしはずっと、健一くんが好きでした。
初めて授業中に答えを教えてくれた日、あたしの名前を優しい声で呼んでくれた健一くんと、仲良くなりたいと思いました。変な質問ばかりをしてしまったのは、頭が賢い人がどんな話題を好むのか、よくわからなかったからです。
道端のごみを見るような視線をあたしに向けていた目が、少しずつ柔らかくなっていく毎日が、楽しみでした。
だから健一くんに告白された日、あたしは健一くんが大好きになり、嬉しさのあまり妹に抱き着いて喜んだりして、少し鬱陶しがられました。
ずっと年を重ねた未来、あたしはお腹にお肉が付いたデブになってしまい、健一くんも厚かった髪が段々と薄くなりハゲてしまう日が、来るのかもしれません。
それでも隣で茶化し合いながら生きていきたいと、そう考えられるくらい、あたしは健一くんが好きでした。
本当は今でも、萩乃咲幸になりたいです。
でもあたしにとっての健一くんは多分、太陽から見た彗星みたいな人なのだと思います。
世界史の授業をきっかけにぐっと近づいたあたしたちの距離は、どんどんと縮まって、重なり合いそうになった大晦日の夜に大接近し、それを最後に、やっぱりどんどんと離れてしまっているのです。きっと放物線軌道を描き続け、もう二度と、近づくことはありません。
一生に一度だけの特別な光は明るく、眩しく、美しい思い出を残してくれました。心の奥底でも構わないので、健一くんにもあのころの思い出を忘れずにいて欲しいです。
遠いどこかで頑張る健一くんを、ずっと応援しています。
どうか幸せになって下さい。
追伸。
健一くんは、今でもエビフライが好きですか? そうだとしたら、うれしいな。
膝を抱えながら一時間かけて打った拙い想いを、存在しないメールアドレスに送った。メーラーだえもんさんは、新年早々仕事が早い。英文は、やっぱり読めないままだ。
「……なにこれ。やば」
冷静に読み返し自分の文章に引いたので、あたしは送受信履歴を一掃した。最近使用していないメールの受信ボックスには、悪戯メールしか入っていない。
ついでに二年分のSNS投稿も、一つ残らず消していく。長い時間をかけ作り上げたページは、その数百分の一にも満たないわずかな間に、まっさらな状態になった。
想いの行先などまだどこにも見つけられていないけれど、あたしももうここに更新はしないのだろう。新しい年のあたしは、あのころみたいに健一くんに語り掛けたりはしない。
唐突な決意をより強固にしようと、部屋の窓を全開にした。
招かれた北風は、氷付く冷たさでベッドに移るあたしの熱をさらっていく。
くすぶり続けた想いもどこかへ飛ばしてくれないかと祈ったけれど、風は荷が重いとばかりに残して行ってしまう。
あたしの部屋は少し暗い。唯一の窓が、北側についているせいだ。
元々は南向きの窓がある部屋に居たけれど、ちーちゃんが一人部屋を持つタイミングで譲った。ちょっと惜しい気もしたけれど、あたしはお姉ちゃんだから。
今ではそれで良かったかな、と思う。
顔を上げ、三十五度。あの星が輝く。北斗七星やカシオペア座から辿らなくても、あたしにはわかる一つ星。
あの光を目にするたび、心には健一くんの言葉が過る。ずっと星を追っていて欲しいと、変わらないでいて欲しいと、高校三年生の冬にかけてくれた、熱い気持ち。幼い日の夢に辿りつけたのは、あの日の彼の言葉があったからだ。
星の輝かない空の下、行くべき方向を示してくれたことを、あたしは一生忘れない。健一くんに背中を押してもらったからだけではないけれど、あたしは今でも星を追っている。星のお姉さんをしている。……なにも、変わってはいないよ。
この先どんな道を歩むとしても、あたしは前を向き、そして夜には上を向いて生きていけるだろう。
今となっては星彩を追う日々だけに、あたし達の繋がりが生きている。
彼が示してくれた生き方を、これからもあたしは多分変えないのだと思う。しばらくは。それがいつまで続くのかはわからないけれど、でもとりあえず、あたしの目には明日も星が映るだろう。
そしてきっと、明日もあたしは健一くんが好きなままだ。
視界の隅に映る星に頬を緩め、あたしはそっと窓を閉じた。
おやすみ、メアテボシのあなた。
<了>
本作は、某新人賞用に書いた作品のサイドストーリーとして生まれました。そのため、少しもやっとしてしまうかもしれないラストになっています。
最後まで読んで下さった方がいましたら嬉しいです。
ありがとうございました。




