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メアテボシのあなた  作者: つめ
第一章 高校生篇
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青春の瞬間

 文化祭のクラス出展は、帰宅部と一部の運動部が主幹となっている。


 当日も同様に、暇な生徒で受付と整列、投影と解説をローテンションした。

 プラネタリウムの投影は十分間。五分の休憩を挟み、一時間に四回ずつ、計二十四回投影された。


 俺が初日に整列係、二日目に投影係を行う間、咲幸は両日ともに花形である解説係を務めた。


 星空の解説文も、咲幸がクラスの女子たちと作りあげたものだ。

 とはいえ周りの女子たちが「咲幸、語彙力爆アゲじゃーん!」とゲラゲラ茶化している横で、咲幸だけが国語辞典をめくっていたので、実質ほとんど彼女が考えたのだろう。


 完成原稿には目を見張った。繊細な言葉たちが、星空の案内役を務める。これが書けて、なぜ現国のテストで赤点をマークするのかわからない。


 一方の投影係はいたってシンプルで、電源を入れて電球を灯したら、機械の挙動とドーム内を見守るだけの役割。

 観客のような存在だった。この係、いるのか? とすら疑問を抱く。

 どうやら暗いドーム内で、咲幸の横に居座りたい男子が考案した係らしい。そのせいか彼女以外の人間が解説係を務める際には、投影係がいなかった。現金過ぎてさすがに笑える。


 かくいう俺も、係決めの際にはちゃっかりとじゃんけんに参加した馬鹿の一味ではあるが。


 最終日の午後。

 配置についた俺の肩をその手は軽く叩いた。振り向くと、解説原稿とレーザーポインターを片手に微笑む咲幸がいる。

 目いっぱいの背伸び。口元に手を当てて、俺の耳元へと寄せる顔。内緒話をするようなこそばゆい囁き。


「萩乃くん、一緒に頑張ろーね」


 甘い吐息は俺の脳髄を打ち抜き、全身を痺れさせる。

 暗いドーム内は視界が悪く、距離感を掴み損ねたのだろう。背伸びをした勢いで、咲幸の体がぶつかった。

 半袖から出た俺の腕が、温かく柔らかなものに包まれる。なんだろうこれ、気持ちがいい。うっとりしたのは一瞬で、現状を把握して奇声を上げかけた。思いっきり入ってるじゃねえか。胸の谷間に、俺の腕が!

 さすがにこれは事故だったようで、咲幸も声を上ずらせながら後退った。


「ご、ごめんね。背伸びしすぎてふらついちゃった」

「いや……いい、けど」


 いいけど。むしろご褒美ですけど。薄手の文化祭Tシャツ一枚だけを隔てた接触はあまりに生々しく、まだ温もりが残っている錯覚に陥った。暑いせいだろう、ひどく汗ばんでいた。


 俺はポケットに入れた手で股間を抑え、屈みこむ。中学生かよと内心呆れつつも、俺は悪くないと主張したい。

 暗闇に安堵した情けないため息は、隣の彼女の鼻歌にかき消された。


 そして俺はこのアホみたいな係を決めた誰かに、ひっそりと感謝するのだった。



 序盤の挨拶が終わるタイミングで、投影機のスイッチを入れてBGMを流す。

 黒く塗りつぶされた段ボールのドームに、まき散らされた千に近い灯り。本物の星空と違わぬ煌めき。想像以上に美しい光だったのか、観客たちが沸いた。


「それではまず、今の時期に見える星空の紹介をしていきたいと思います。今日は七月二日、もうすぐ七夕の日がやってきますね。不思議とこの日は天候に恵まれることが少なく、星空を見ることができません。しかし雲の上の宇宙(そら)には、いつでも織姫星と彦星、そして二人を隔てている天の川が眩しく輝いているのです。織姫星の『ベガ』は星空でいうと、こと座の星で――」


 ああ、こいつはこんな声も出せるのか。


 ふわふわとした砂糖菓子を連想する声色はなりをひそめ、例えるならば夜風を思わせる澄んだアルト。

 それは俺たちの作ったかりそめの星空に馴染み、観客たちを魅了した。


 隠された特技だ。

 きっと今日が終われば、咲幸は綿帽子みたいなゆるい雰囲気を纏う『学年一の馬鹿』に戻っている。もうすぐやってくる期末テストでも赤点を並べ、教師に呼び出しをくらうのだ。


 それでも今日だけは、この瞬間だけは咲幸はなによりも誰よりも尊く、あのベガだかアルタイルだかにも負けない輝きを放っている。


 すごい奴だ。ありふれた、月並みの感想。それでも心から思った。


 咲幸がクラス中から馬鹿だと笑われても、ものともせずにいるのは、まあ本当に馬鹿だからなにも感じていないというのもあるのだろう。しかしきっと彼女の中にはあるのだ。本当に大切な、ぶれないなにかが。


 だから咲幸はいつも穏やかな笑みで、前を向いて生きていられるのだ。


 近づきたい、触れてみたい。彼女のことをもっと知りたい。

 けれど咲幸にとっての俺は、たまに授業で回答を教えてくれる隣の席の男子にすぎない。その場所すらも、あと一ヶ月で失ってしまう。


 朝のおはようも夕方のばいばいもなくなり、「萩乃くん」と呼ぶ声は消えてしまう。小さな菓子を乗せた手のひらは、もう差し出されない。


 それは嫌だと、心が叫ぶ。


 彼女を繋ぎとめておく言葉が欲しい。二学期が来ても三年に進級しても、ずっとずっと俺の隣に彼女を留めておくためのものを手にしたい。


 焦った俺はその日の夕方、後夜祭に参加せず帰る咲幸の背に、すがるような声を放った。


「帰んの?」

「……萩乃くん?」

「後夜祭、出ないのか?」


 校庭では水風船投げと称した泥投げが行われ、地獄絵図が広がっていた。とてもじゃないが参加する気になれない。暗くなったらキャンプファイヤーが灯されるらしい。


「うん。後夜祭は部活ごとって感じじゃん? なんか出づらいんだよねえ。それに参加してるとあたし、バスなくなっちゃうし」

「そうか。汚れるの嫌だから俺も帰るわ」

「じゃあ、駅まで一緒に行こう?」


 おう、と頷き咲幸の隣に並ぶ。改めて横を歩くと、椅子に座りながら見るよりも咲幸はずっと小さく感じた。汗ばんだ首筋に貼りつく栗色の髪の毛を夕風にさらし、暑いねと呟く。


「あ、ああ。だな」


 暑い。熱すぎる。


「萩乃くんも電車なんだね。どこまで?」

かなえ。千國は?」

「うっそ、近いね。あたしはね」


 俺が降りる隣の駅で、咲幸は降りるらしい。俺は通学に電車で一時間近くかけていた。咲幸はそこからさらにバスで三十分。そのバスも途中で引き返してしまうので、残りの十数キロは親に迎えに来てもらうしか他ないらしい。


 合計通学時間は片道約二時間。単純距離は大してないが、交通の便が悪いため毎日が小旅行のようになっている。


「めっちゃ田舎なの、ウチ」

「それにしてももう少し近い所あっただろ」

「受かりそうなとこ、ここしかなかったもんでねえ」

「あー、そう」


 馬鹿は切ないなあ。選択肢を大幅に狭められて。


「萩乃くんこそ賢いのに、なんで遠くから来てるの?」

「俺は第一志望に落ちて、二次募集。ここしかなくて」


 どんなに選択肢が溢れていようと、掴み損ねたら意味がないのだけれど。


「そっかあ。じゃあ同じだね」

「……いや、全然違くね?」


 同じだよーとガキっぽく笑い、俺の数歩前をリズムよく跳ねる。そのたびに肩の上で踊るわたがしみたいな癖毛に、俺は触れてみたい。


 駅へと続く、なにもない通学路。

 ゲーセンもカラオケもマックもなければ、スーパーやコンビニすらない。娯楽をなにも与えられない、悲しき田舎の高校生たち。それが俺たちだ。

 やがて海へと辿り着く大きな河川と、そよぐ風だけがある線路沿いを歩く。

 

 少し小高いこの県道に沿って流れる、エメラルドグリーンの川。停滞しているようにゆったりと、いつか俺たちの知らない町へと流れつくのだろう。

 見渡す限り茂る緑は、隙間なく俺たちを囲う。

 車すらロクに走らない。カエルと蝉と虫の鳴き声だけが、世界のすべて。

 呆れかえるほどのど田舎に、嘆息が漏れた。


 けれど今日はなぜか、沈みかけた夕陽を受ける緑が煌めいている。

 サビだらけのガードレールも、そこに絡む蔦も、いつもとは違う。緑の全てが夕焼けの中で赤みを帯びた黄金になり、絵画のような瞬間が訪れる。


 今しかないと、俺は踏み出した。きっとこの幻想的な風景は、俺を後押ししてくれているに違いない。


 調子っぱずれの鼻歌を奏でながら揺らす手に、自分の右手を近づける。文化祭の片づけで汚れてしまったきたねえ手だ。何度ズボンにこすりつけても落ちないから、諦めた。


「千國!」

「ええ? なになに、車?」

「俺と、つ」


 俺に掴まれ振り返った咲幸を前にすると、声が裏返った。喉に貼り付くやばい奴は、飲み込んでも飲み込んでも復活を遂げて俺を邪魔しようとする。

 握りしめたのは、小さなもみじみたいな手のひら。想像通り、陽だまりを宿していた。


「つ?」

「つ……付き合わねえ? 俺と」


 なんだそれ、と呆れかえる。

 もしもタイムリープが可能ならば、情けない告白をした高二の俺に回し蹴りでもくらわせてやりたい。


 アホみたいに半開きにした咲幸の口元から、八重歯が覗く。はひぇ? 無理やり文字に起こすのならば、こんな具合の声も漏れた。

 うっかりこぼれ落ちそうになる大きな瞳には、俺が映っているのだろう。真っ赤な顔に汗をにじませて、鼻息を荒くする野性味あふれた男子高生が。

 肩から通学カバンがずり落ち、なにを入れているのかやたらと重い音を響かせた。


 固まり立ち尽くし、俺とともに沈黙を作る。カエルと蝉と虫の混声三部合唱が、俺たちの沈黙を食い破り攻めてきた。

 うるせえよ、咲幸の声が聴こえなかったらどうするんだ。焦る俺は自分の手のひらが汗ばんでいることに気が付き、慌てて引っ込める。


 その挙動で咲幸も我に返ったらしい。やがて開いた口元を閉じて口角を上げた。いつもより赤みを増した頬に、ぷっくりと作られたなだらかな丘。

 丸い鼻を人差し指でこすりながら、一度俯く。彼女の一挙一動に、俺の心臓はうるさく騒いだ。


「いーよ」


 再びあげられた顔には、二つの三日月。咲幸が笑うと、二重に縁取られた大きな瞳は一本の線になる。丁寧な弧を描く線に。

 固まる俺に、咲幸はもう一度ゆっくり繰り返す。いいよ、と。

 世界は一度止まり、俺たちを中心に動きだした。


「あたしも萩乃くん、好きだから」

「お、おう。……え? マジで? ありがとう」


 え? マジで? ありがとう、じゃないだろう馬鹿野郎。もっと言うことがあるだろうが。

 それでも俺は、青春のど真ん中にいた。


 もしも死ぬ直前に人生の走馬燈が結婚式のオープニングムービーのように流れるとしたら、最高の青春はこの瞬間を選ぶ。咲幸が俺のことを好きだと言ってはにかんでくれた、この一瞬を。


 馬鹿ぞろいの高校は、気にくわなかった。けれど段々と楽しい場所だとわかり、それなりに好きになり始めていた。そして、学年一の馬鹿女が俺の彼女になった。


 なあ、咲幸。おまえは知らないだろうけれど。


 俺はあの日、嬉しさのあまり自室でなぜかシャドーボクシングをやって、見られた妹にラリアットを食らわせて泣かし、その七千倍くらいの勢いで父親と母親に殴られ、それでもヘラヘラと笑っていたんだ。それくらい、幸せに溢れていたんだよ。


 咲幸はどうだったのか、一度くらいは訊いておくべきだったのかもしれない。



***



「さん。萩乃さん!」

「……あ?」

「飯食いながらネットして居眠りとか勘弁してくださいよ。完全に給料泥棒じゃないっすか」

「いいんじゃねえの。どうせ今の残業代なんか出ねえだろ」


 いつの間に眠っていたのか。首を回したついでに見る時計の針は、三と十二を指している。さすがに三時ではないだろう。

 デスクに転がったバラバラのカツサンドを腹に納め、油をふき取りブラウザを閉じた。


「帰るわ。もう無理だるい」

「僕も無理っすよ。あー、本当辞めたいなあ。就活からやり直したい」


 今年三年目になる戸田は、薄っすらと隈のできた目をこすりぼやいた。ここの社員の大半が、一日一度は言う口癖みたいなものだ。


「そうだな、やり直したい」

「やっぱ萩乃さんもそう思います?」

「……ああ」


 俺もやり直したい。

 できることならあの、青春の瞬間からすべてを。

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