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メアテボシのあなた  作者: つめ
第三章 社会人篇
59/60

たとえば自転車を漕ぎだすように

「おはよう、お姉ちゃん」

「んー。おはよ」


 二日に一度は、歯磨きをしている最中に欠伸がしたくなる。なぜだろう。

 夜更かしのせいで鈍い頭を回して、洗面所に入って来たちーちゃんに答えた。


「あ、今日天気良いから洗濯して行ってって、お母さんが」

「うえー、こんなギリギリに言わんでえ」

「私、東京戻るの午後だから代わりにやろうか?」

「んーん、大丈夫」


 歯ブラシを咥えたまま、籠の洗濯物を放り込んでいく。

 散々揉めて高校卒業と同時に実家を出たあたしが、再び親元で暮らしていくためには三つの条件があった。

 ひとつは生活費の納入。そして家事の担当。渋る話ではないので、従っている。


 料理だけはあたしの作る食事が不評なため、母さんが担当していた。言い訳がましい弁明をすると、あたしを含め、家族の舌が肥えているだけなはずだ。


 そんなわけで家事を妹に押し付けたと知れた日には、いつもの「馬鹿!」では済まされないだろう。

 因みに最後の一つは……。


「ねえお姉ちゃん、訊きたいんだけどさ」


 ちーちゃんの声で思考が遮られる。なあに? と返してあげたいけれど、口を開くと涎が垂れそうで言葉にならない声で返した。

 ぽいぽいぽぽーい。脳内で歌いながら小物をネットに納める。


「健一くんって、どんな人だった?」

「んぶ……あ」

「え、ちょっと。お姉ちゃん汚いから」


 噴き出した勢いで、うっかり洗濯機の中に歯ブラシも落としてしまった。さすがに汚いので、被害者のTシャツを摘まんで洗面台に持っていく。

 なにしてんの、と呆れる洗顔中のちーちゃんを無言で押しのけ、軽く水洗いを済ませた服を洗濯機へ放った。

 近距離で外す。床で響いた鈍い水音に、ちーちゃんが泡だらけの口元を歪ませた。


「ヘタクソ」

「しょうがないじゃん。苦手なの」


 歯磨き粉も少し鼻に回ってしまうし、朝からついていない。


「急になによー」

「いや、だって考えてみたら、お姉ちゃんの恋愛話とかかなり貴重だし。普段、星とか食べ物の話しかしないから」

「そう? 他にも話しとるよお。世界じょーせーとか」

「世界情勢語ってるとこ、見たことないんだけど」


 ねえ、と催促してくる背中合わせのちーちゃんに、洗濯機の操作パネルをいじりながら曖昧な返事をした。


「……健一くんはねえ、裏っかえしで脱いだ靴下をそこらにほかっとく人だったよ」

「なにそのピンポイントなの」


 なんなら服もズボンも脱ぎ散らかして、自分は全裸。


「多分、ポケットのゴミとかも気にせんで、洗濯機に入れてまうタイプ」


 きっと注意しても、「へーい」と気のない返事をして絶対に直さない。

 器用な人なら確認を怠らないのだろう。でもあたしが一緒に暮らしていたら、時々ティッシュにまみれた洗濯物を、せっせと庭先で振り回すはめになっていたはずだ。たとえそうだとしても……。


「だらしない人だったの?」

「そういうわけじゃないけどさあ」

「というか靴下って、裏返しのまま洗う方が長持ちするんだって」

「へえ、豆だね」


 今でもふと、健一くんと暮らしている自分を脳内に描く。それは近所のショッピングモールを歩いている途中に、他愛ない家族連れとすれ違う時だったり、気まぐれにエビフライを作っている時だったりと、まちまちだ。


 青春を過ごした町で、また一緒に日々を積み重ねて行けたら。夢見がちになる少女みたいな、思考。

 大人になったあたしたちは、昔のように日がな隣同士で過ごすわけではない。でも夜になったら顔を合わせて、互いに一日を語る。代わり映えのない毎日に、話題すら絞り出せない日もあるのだろう。

 そんな日はたった数分でいい、一緒に星を眺めたい。


 長い時間を共有する分喧嘩もして、こんな人だと思わなかったと、がっかりする時が来るのかもしれない。それでもいい。不満や苛立ちも含めて、あたしは健一くんと生きていきたかったのだから。……もう、決して叶わない夢だ。


「写真ないの?」

「ないよ」


 卒業アルバムは、部屋のどこにしまったのかも忘れてしまった。しかもあれはクラスメイトの計らいか、あたしと健一くんが隣合う写真がやたらと採用されていて、家族に見られるのは恥ずかしい。


「消しちゃった?」

「んーん、消えたの。ほら、結構前だけどあたし携帯洗濯してまったじゃん?」

「乾燥機まで入れてお母さんにめっちゃ怒られたやつ?」

「そうそう。あん時にデータも飛んでねえ」

「ふーん。なんか未練薄めだね。七年も経つとそんなもんか。っていうか、あまり覚えてないでしょ? お姉ちゃん記憶力悪いし」

「ひどー」


 ちーちゃんのお望みの話はできなかったらしく、彼女はつまらなそうに口を尖らせる。


「お姉ちゃん、男の人嫌い?」

「えー、好きだよお。……待って、今なんかあかんこと言った気いする。違う違う、普通」

「ちゃんと脳使って喋ってよ」

「ちーちゃんが変なこと訊くからあ」

「いや、だってお姉ちゃん絶対モテそうなのにさ」

「っていうかいつまで顔洗っとるの、肌痛むよ」


 メレンゲのような泡を乗せたままのちーちゃんに、後ろから体重をかける。数センチ身長が低いだけの彼女は、悲しいかなあたしよりずっと軽いから、よろめいて洗面台にお腹を貼り付けていた。


「んー、でもデコにニキビがね」

「二十歳すぎだら吹き出物。ほらほら早く濯いで」

「待って待ってうつかるのナシ。重いしおっぱいやばいし」


 お姉ちゃん太ったでしょ。失礼な発言を漏らすちーちゃんにさらなる圧をかけていると、ふと洗濯機のスイッチを入れ忘れたことに気付く。

 スタートと同時にモーツァルトを奏でる我が家の洗濯機は、今日も朝から動作音が騒々しい。きっと寿命だ。


 この年になると、恋人がいないことにもなにかしらの理由が必要らしい。

 職場でも親戚の集まりでも、どうして、と尋ねられる。どうしてもこうしてもないよ。正当な言い訳を用意できなければ、年を経るごとに変人扱いされてしまう。あたしは別に、どうだっていい。


 やっと空いた洗面台に立ち蛇口を捻ると、冬場の水は生まれたてみたいに冷えている。麺類じゃないのだから、最後に冷水をパシャパシャと顔に当てる意味もメリットも、本当はないみたいだ。


 それでもあたしは、冷水に顔をつけた瞬間のきんと張りつめる感じが好きで、目が覚めて、一日のはじまりを感じた。きっと明日も明後日も、「やーもう、つめたーい」と小さな悲鳴を上げながら、冷えた世界に顔をつける。


 世間の正しさと自分の心が一致しなくてもいいじゃん。水の中で笑った。


「あ、そうだ。私ね、自転車に乗れるようになったんだよ。……別に、報告するような話じゃないけど」

「え? そうなん?」


 さっきの仕返しのつもりか、あたしの背中に張り付くちーちゃんの声が、近距離から響く。背中に肘がめり込み、地味に痛い。


 乗れない自転車が父さんのレジアスに積み込まれて行ったのは、もう半年以上前。東京こそ自転車いらんよ、というあたしの言葉は、やっぱり無視された。


「うん。結構前ね、夏ごろ。持ってったけどやっぱ全然必要なくてさ、でも先輩と自転車で出かけることになって、乗れなきゃ困るなあと思って乗ってみたら、乗れた」


 乗れちゃった。顔の見えないちーちゃんが微笑んだのが、声でわかる。

 ああ、何かを手にするのも手放すのも、振り返れば一瞬の出来事だ。

 

「そっかあ、よかったね。でも気を付けなね。向こうの方が道、危ないでねえ」

「うん。だからお姉ちゃんも、案外簡単に彼氏できると思うって話」

「……なまいき」


 それは関係ないじゃん。というか、難易度が違うから。

 水滴が滴るままの顔を上げ、振り返り、丸出しにされた額にデコピンを放つ。ニキビは避けたけれど、気持ち強めだ。爪先にも痺れるような痛みが残った。


 突然の攻撃にちーちゃんは面食らったのか、開いた瞳はいつも以上に三辺の白が広くなる。機嫌を窺うような上目遣いは、家族でなければ凄まれているのかと勘違いしてしまう。


「お姉ちゃん、怒った?」

「怒ってないよ」


 怒ってない。


「ねえ、お姉ちゃん今日の解説いつ? 東京帰る前に、寄って行こうかと思って」

「本当? 午前一と午後一。午後の方がいいかなあ」

「うん。じゃあ、そうする」


 妹は以前より、表情が豊かになった。氷の冬が溶け始めた、小さな温かさを宿す早春みたい。雪解け水の音に、心が和む季節を思い出す。

 彼女は不器用に、ゆっくりと、大人になっている。……あたしは、どうだろう。

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