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メアテボシのあなた  作者: つめ
第三章 社会人篇
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メーラーだえもんさん

 健一くんと話したい。

 ある時ふと、脳内を占めている思考に気付いた。やっとこ追い出したはずの健一くんが、いつの間にか復活を遂げている!

 自分でも無意識だった事実にぎょっとしたのは、妹が入院して、三カ月が過ぎたころだ。


 当時のあたしは毎週月曜日、地元への帰省が習慣化されていた。往復時間は、優に十数時間。

 あたしが居てもなにができるわけでもなく、妹の症状は『今日も変化なし』。


 それでも始発と終電を一遍に利用する生活を止めなかったのは、もちろん妹の顔を見たい気持ちも強かったけれど、ただ待つだけでは失ってしまうような気がしたからだ。

 気付けば手の中から零れ落ち、会わずにいた日々を後悔したくない。……もう、二度と。


 眠っているのと大差ない姿の妹は、穏やかに生きていた。


 今夜見える星空を描き、一週間の仕事を報告して、最近読んだ本やたまに見るテレビの話をすると、話題が尽きる。


 病室で思い出すのは、まだ彼女が赤ちゃんだったころの日々。か弱い力であたしの指を握る妹は、何時間眺めていても飽きなかった。ちーちゃん、と呼ぶと、ほにゃりと微笑む。もう自分の名前がわかるのかと感心した。


 なにせあたしなんかは物心ついたころから馬鹿馬鹿言われていたせいか、自分が咲幸なのか馬鹿なのか混乱してしまった時期があるくらいだ。きっとこの子は、賢い子に育つ。


 高校生になった妹の寝顔は、どうしてか黙ったまま五分と見つめていられずに、あたしは話題がなくなるとすぐに病室を後にした。

 つんと鼻につく病院の濃すぎる人の臭いが、苦手だ。


 実家に帰ると、今までの二十二年間で一番というくらい、父さんと母さんが優しかった。怒られないし、馬鹿とも言われない。夕食にはいつも、あたしの好物が並んだ。


 メガホン越しのような大声を止めてしまった母さんは無口になり、たまに出す小声を、あたしは顔を近づけ必死に拾う。

 一回り小さくなってしまった母さんと比例して、食卓もさっぱりと静かな空気が流れる。萎んだ風船みたいな時間に空気を入れようと、あたしは一層お喋りになった。でも風船は膨らまない。

 空いた穴をふさぐことは、あたしにはできないからだ。


 帰りがけに駅まで送ってくれる父さんはいつも、「ありがとな」と力ない笑みを見せた。弱まってしまった厳つさに、寂しさを抱く。父さんは、塗り壁みたいにどっしりと構えていてくれる方がいい。



 月に稼いだ給料の半分近くを交通費に費やす生活は、言うまでもなく数ヶ月で破たんした。算数の苦手なあたしでも、予想できたことだ。

 それでも仕事終わりの数時間と休日をバイトに当てると、交通費は十分賄えた。余剰すら出たので、妹の入院費として両親に渡す。


 とても無口な妹と優し過ぎる両親と接した後、あたしは無性に誰かと話をしたくなる。それは今日の昼ごはんとか、空に浮かぶ不思議な形の雲のこととか、育てていた植物をうっかり枯らしてしまった話とか、他愛ないものでいい。

 見上げた夜空の星彩を、一緒に追いかけたい。


 当たり前に思い浮かべた顔は、何歳も年下になってしまった、記憶の中だけにある顔。


 健一くんの声が聴きたい。

 十九歳のあのころ、彼の声に耳を傾けていた夜の数時間を、あたしはもう一度欲した。


 日常が欲しかったのかもしれない。ありふれた日々に身を置いている証明が、必要だったのかもしれない。あのころのあたしは、なぜか体がふわふわと浮いている感覚の中で生きていた。


 実家の机にしまい込んだメモ書きを、久しぶりに開く。携帯のデータはすべて消えてしまったけれど、健一くんの連絡先だけは控えていた。


「ねえ萩乃くん。連絡先、交換しよう? 携帯忘れてきちゃったから、ここに書いて」


 付き合い始めた日。駅の待合室もノートに向かう健一くんも、西日の欠片に照らされて輝いていたのを憶えている。連絡先を携帯に登録したあたしは、もう必要のないノートの切れ端を四つに折り、引き出しの奥にしまい込んだ。


 繊細な文字で書かれたアドレスを間違えないように入力し、苦手な文章を一文字ずつ絞り出していく。躊躇いがちに入力した言葉を何度も消し、手を止めて唸り、一時間かけて考えたのは数行のメッセージ。

 挨拶と近況を問う軽い言葉、四年前の謝罪。最後には時間が掛かってしまった原因でもある、あたしの素直な気持ちを添えた。


 健一くんと、もう一度お話しがしたいです。

 慣れない丁寧語は、むずがゆい。


 社会人になった健一くんは、どこでどんな風に生きているのだろう。どんな会社で働いているのだろう。教えてくれる健一くんの声を耳に、夜風にあたる想像をした。


 けれどたった一瞬で、妄想は終わる。

 想いも願いもどこにも届きはしないと、メーラーだえもんさんが、難しい英文で教えてくれただけだ。英語は勉強をしなかったせいで、なにを言っているのかさっぱり理解できない。


 震える手で掛けた電話に出たのは知らないおじさんで、あたしはこの世にある取り戻せないものの存在を知った。

 あの時、同級生に縋ってでも彼の連絡先に辿りついていれば、別の未来があったのかもしれない。高校時代のあたしなら、しただろう。


 しかし遠くへ去ってしまいそうな妹や、無口になった母さんと厚みの消えた父さん、届かなかった健一くんへの想い。色々なものを頭で混ぜてしまったあたしは多分、自分でも気づかないうちに疲れ果てていた。

 脱力して、ただ日々に流された。それも、かなり狂った方向にだ。


 居酒屋バイトをしていた当時、やたらと男の人に声を掛けられたあたしは、鈍った判断力で毎回誘いに乗った。

 思い返せばモテた、というのとは明らかに色が違う。本気であたしと仲良くなりたい人など恐らくいなくて、あたしもまた、心から親しくなる人を求めたわけでもなかった。


 それでも会話を交わす時間だけは、楽しい。隙間なく脳内に色々詰め込んでいた数年間の反動で、完全に頭が空っぽになった。


 いーよ、いーよと二つ返事で了承し、仕事帰りに飲む。今考えるとめちゃくちゃな話だけれど、さりげなく身体に触れてくる人の手も拒まずにいた。

 呆れるほど軽率な日々は、数ヶ月ほど繰り返しただろうか。勢い余った同僚に家へ連れ込まれそうになった時、さすがに自分の馬鹿さ加減に気付いて、止めた。


 あの期間はもう、黒歴史というやつだ。

 あたしの頭からは完全に消している出来事。


 妹が奇跡的に意識を取り戻したのはそれから二カ月後で、あたしはあっさりと日常に戻った。仕事と勉強と星のことをしっかりと敷き詰めていた日々に。


 そうして気が付くと、淡々とした毎日はさらに二年分重なる。学芸員補として三重から愛知と静岡、そしてまた岐阜を転々する風太郎生活を続けたあたしは、実家を出て六年目に認定試験に受かり、八年目となる春に再び地元へ戻った。


 戻って来る希望があったわけではなく、たまたま求人があったから応募しただけ。変わらない館長さんは、面接であたしの顔を見るなり、「頑張ったんだね」と静かに頬を緩めてくれた。


 再び博物館に訪れたあたしを迎えてくれたのは、一足先に春を告げようとする一本桜。花冷えに負けることなく、閉ざされた蕾は少しずつ膨らんでいく。満開になるころには、職員として働いているのだろうと、春の盛りを待ちわびた。


 空を埋め尽くす薄紅色の想像で、どうしてか瞼の裏には最後に見た満開の桜が広がる。高校三年生の四月。隣にはまだ、彼がいた。


 健一くん。今でもあたしにとって、やっぱりこの場所は特別だよ。


 二十五歳の春に抱いた迷いは行動に移せず、数ヶ月後に諦めへと変わった。

 ちょっとばかりの知識と引き換えに、年を重ねたあたしは無鉄砲さを神様に引き渡してしまったのかもしれない。


 のんびりと走り過ぎたマラソン大会で、時間制限によりあたしは毎年強制落伍にされていた。もう少し早く走ればよかったと後悔しても、結局同じ間違いを次の年もあたしは繰り返す。

 何も変わっていない。大人になっても馬鹿は治らなかった。


 毎日悲しみにくれているわけではなくとも、穏やかな充実した日々の中、未消化のものが心には居座り続けている。

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