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メアテボシのあなた  作者: つめ
第三章 社会人篇
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もうひとつの空白

 健一くんなんて嫌いだ。


 三重で暮らし始めてから、口癖になった。

 朝起きて、朝食を食べながら、仕事に行く途中、さすがに就業中は余裕がなかったので帰り道、夕ご飯の支度最中、お風呂、寝しなに。暇さえあれば、脳内で健一くんを罵る。

 その道が一番楽ではないかと、気が付いてしまったから。


 記憶の引き出しをすべてひっくり返し、些細な出来事も漏らすまいと思い出す。小さなあらを探しては、健一くんを嫌いになろうと努めた。


 振り返れば健一くんは子供っぽく強引なところばかりで、急に不機嫌になる時もあった。人前だと澄ましている反面すけべで、二人きりになると隙あらば体に触れて胸に手を伸ばす。あれはセクハラだ。

 あたしが男子と話していれば割って入る独占欲を見せたくせに、自分は平気で浮気をして、隠す気もなければ謝りもしない。都合が悪くなると黙り込む。


 ついでに外見の欠点も探ろうと、二人で撮った写真に目を凝らした。

 公園のベンチ、博物館前の坂道、無人駅の待合室。こんな場所で撮る必要が、本当にあったのか。


 周りから不愛想だと非難されていた人とは思えない口元を晒し、思い出の彼は切れ長の瞳で流星の尾っぽを描いていた。


 他の人が知らないであろう姿を目にするたび、あたしは無性に自慢をしてしまいたくなった。いいだろいいだろと、心の中で誰かにひけらかす。

 健一くんはアイドルでもクラスの人気者でもないのだから、誰が羨ましがるわけでもないのに、あたしはとても価値のあるものを手にしている気でいた。


 デートでいつも前のめりの健一くんは、エスコートというよりはリードを引っ張る犬だ。散歩気分を味わいながら、一緒に戯れ付く。

 良し悪しはさておき、あたしは勢いのまま健一くんに流されてしまう瞬間が心地よかった。

 あたしの身体に触れる細い指先や、見た目より逞しい手のひらが好きだった。


 何回も何十回も、記憶を辿る。

 並べても並べても、彼の欠点は甘い思い出に上塗りされていく。幾度繰り返しても、行きつく終着点は変わらない。

 楽だと信じた道は満たされない現状だけを浮き彫りにし、疲れて止めた。



 三重での契約が切れる直前、携帯を壊しデータを消してまったあたしは、その機会に今度は彼を忘れようと試みた。小さな脳から健一くんという存在を追い出し、二度と入って来られないように締め出す。


 悲しみは目聡くて、隙あらば心に潜ろうとした。だからあたしは一ミリの隙間も作らずに、仕事と勉強とそして星のことを、日々にしっかりと敷き詰めた。頭にも心にも空白を作らないよう、余計なものが入らないように必死だった。


 お風呂に入る時は歌を歌いごまかして、しかし寝る時だけは失敗する。

 全身が空っぽで無防備になるから、押し寄せる感情が暴れてままならない。


 いつしかあたしは自然に頭が落ちる瞬間まで、いつも勉強をするようになった。気が付けば床で寝る日が増え、身体を痛めたのでベッドにテーブルを置く。夜中に蹴り飛ばすらしく、朝起きるとテーブルは床に転がっていた。


 一年も経つころには、仕事以外すべての時間を勉強に費やす生活に慣れた。

 大半の人は大人になると勉強の機会がなくなると言うが、あたしは逆だ。今までのサボり借金を返すように、ひたすら勉強に励んだ。


 学生時代の学習とは少し違う。読書をし、内容を理解していくシンプルなもの。読解力と語彙力不足により、試験問題すら解読できずにいたあたしには効果があった。


 心と体を一つにし、知識を詰め込んでいく。習慣になると苦痛も消えた。

 無理矢理作り上げた日々は、ついに健一くんを完全に遮断することに成功した。よしよし、とあたしは喜ぶ。


 張りつめた生活の歪さに、本当は気が付いていたのかもしれない。けれど顔を背け続けた。向き合ってしまえば、再び彼の存在に悩まされるのだから。


 薄い空気の中で生きるような毎日には、相応の酸素が必要だ。あたしにとってそれは頻繁に交わす妹とのメッセージで、だから高校生になった妹の入院は、順調だと安堵していた暮らしを静かに崩壊させた。


 亀裂が入り、あたしの中は隙だらけになっていく。そしてしぶとく外で壁を叩いていた『健一くん』は、あっさりと隙間に入りこんだ。


 妹の事故は、ありふれた交通事故だった。

 信号無視に近い見切り発進をした車も悪ければ、ほぼ赤信号の交差点に突っ込んだ妹にも、非がある。そんなやるせない出来事。


 目立つ外傷はないのに目覚めない妹は、元々感情表現の乏しかった顔から表情が消え、微かな呼吸だけを繰り返す。触れられる距離に居ながら、側にいない。


 高校の制服姿を見せてくれたのは、たった数カ月前だ。あたしよりずっと賢い高校に受かり、中学から引き続き陸上部に入った妹。事故の日も夏休み中の部活に向かう最中で、一ヶ月後には新人戦を控えていた。


 八百メートルなんて距離は、あたしなら途中で歩かないと完走できない。

 淡々と風を切る彼女は、ラストの直線で全力をさらに上回る疾走で駆け抜けていく。「別に速くないよ」という言葉は謙遜ではなく、特段優秀な成績を収めているわけではないらしい。

 それでも、流星のような一瞬の輝きを見せる妹の走りが、好きだった。

 応援のために取っていた有給は、病院で過ごした。


 妹がウチにやってきたのは、あたしが小学一年生の時だ。胸に抱えられる身体をもっと小さくして、ポケットに入れて学校へ連れて行きたい。ベッド柵から覗き込み、いつもそんなことを考えていた。愛らしさは、人をおかしくさせる。


 ようやく生まれた二人目の子供に母さんはべったりで、父さんも自分そっくりの妹をきっとあたし以上に溺愛した。もうあたしなど育児放棄を疑うレベルで放置されるのだけど、あたしも妹に夢中で気にも留めない。


 学校が終わると、一目散に家へ走る。このころのあたしは少しだけ足が速くなり、週のうちに四日はランドセルを学校に忘れたせいか、馬鹿は進行した。

 一緒に寝ようとして止められ、給食のデザートを妹にあげるため持ち帰っては、「食べれるわけないでしょ!」と怒られる。

 デザートは時々、引き出しの中で忘れ去られてカビた。


 こっそりベビーカーに乗せた妹と、村中を散歩した。友達に会えばもちろん見せびらかし、家に帰って来て叱られる。やがて小鴨のごとく付いてくるようになった彼女を、あたしはそこら中に連れまわした。危険な遊びで怪我をさせると、やっぱり飛ぶのは母さんのビンタ。


 一番無口で静かな輝きを放つ彼女こそが、我が家の太陽だった。それは十五年前に決定づけられた変わらない事実で、家族全員が狂おしいを越えて狂気じみた愛情を注いだ末子の欠損は、文字通りウチを狂わせた。


 いつ目を覚ますのか、そもそも意識が戻る可能性があるのか。回復の見込みは低い。希望の薄い現実に、電気のスイッチを切るよりも容易く、平凡だったウチの明かりは消滅した。

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