Side.S 飴玉の日々
――お姉ちゃん、彼氏いるの?
「へ?」
妹とする人生初の恋バナは、新鮮でどこかこそばゆい。
あたし達の間にある七歳という年齢差は、自然とその手の話題から距離を置かせた。あたしが学生時分ちーちゃんはまだ小学生で、思春期を迎えるころあたしは実家を出てしまったため、そもそも機会がなかったとも言える。おまけに妹は恋愛と無縁な生活を送っていたから、余計に。
そんな彼女も春から大学生となり上京をし、……唐突に帰省をして数週間が経つ。大学はサボっているのだろう。
けれど両親もあたしも、かける言葉を探せずにいた。
きっとこれがあたしだったら、三日で家から放り出されていたはずだ。昔から両親は、妹には甘い。
母さんにせっつかれ妹の人生相談に踏み切ったところ、話は脇道に逸れていた。
姉妹の恋愛話というとまるで修学旅行の夜みたいだけど、最近はバツが悪い話題の筆頭。
「や、いないけど。い、今は!」
せめてもの虚勢でつけた今は、が逆に情けない。
いっそ生まれてから恋人なんてできたことありませんよ、と言った方が幾分マシだったかもしれないが、なかったことにするのは気が引けた。
「出た。今は! いたことないけど、昔はいたっぽく聞こえる裏技でしょ」
「本当にいたから! ……昔は」
当然嘘ではない証明もしないといけないので、あたしは渋々、一人の男の人の名前を口にした。
「同級生の健一くんって子。二年くらい付き合ってたかな」
平静を貫き淡々と紡ぐ、彼との終わり。昔なら絶対に動揺を隠せなかった話ができるのは、年を重ねたせいなのか。
ちーちゃんも驚きはしたものの大した勘ぐりもせず、あたしをからかう方向に話をシフトし始める。この村出会いないだろうから、マッチングアプリやった方がいいよ、とか。嫌だよ、そういう怪しいのは。
初冬のそぞろ風が途端身に染みたから、すぐさま話題を逸らした。
高校時代の回想には、萩乃健一くんという男の子が付き纏う。胸に蘇るのは、舌先で転がした飴玉の甘酸っぱさ。
初めて会話をした日、彼に渡した飴玉の味だ。どうしてか今でも憶えていた。あたしの青春をぎゅっと凝縮すれば、きっと始まりの味になる。
お得パックのスモモ飴は、甘さと酸味が譲らない主張の果てに酸っぱさが勝利した味で、唾液がいっぱい出た。好みではなく、早く消費させようという魂胆もあった。
いつか健一くんに打ち明けるはずだったのに、その機会はもう訪れない。
***
「あー、終わった終わった」
持ち帰ってしまった仕事を片付け、大きく伸びをする。ノートパソコンから外したUSBメモリを、定位置で口を広げ待っている鞄に気持ちよくシュート、……の予定が軌道は大きく逸れ床を滑っていく。いくつになっても、子供じみた行動が抜けない。
苦手だったパソコンや携帯も、今ではもう人並みに使えるようになった。ガラケーではなくスマートフォンだ。プラネタリウムの投影機はコンピュータ管理で、仕事でも機械類をいじる。趣味のカメラも同様、機械オンチが過ぎると現代社会は生き抜けないらしい。
ブラウザを立ち上げ、興味が沸く記事を飛ばしていく。
いつも最初にチェックするのは、天文雑誌も手掛ける企業が運営している天文情報サイト。来月極大を迎えるふたご座流星群の特集が組まれ、延期されながらも年末に迫っているはやぶさ2の帰還が、界隈を沸かせていた。
一通り確認したあとは、大手のニュースサイトを開く。
「げー、なんでえ?」
読む記事読む記事、なぜか広告欄に結婚相談所か出会い系アプリのバナーが、いやらしいほどでかでかと貼られていた。
いつからグーグル先生は、親戚のお節介おばさんになってしまったのか。
エスパーだ……。慄いたところで、思い出す。
先日ちーちゃんにからかわれて、ついつい検索してしまったのだった。え? もしかして二十八歳彼氏なしって珍しいの? あかんの? と興味本位で。『アラサー 彼氏なし』みたいなキーワードで。
1ページから『やばい』のバーゲンセールが開催中で、そっと閉じた。
「ロボットは目敏いなあ」
独りごちた感嘆は、六畳一間にやたらと長く留まる。
ちーちゃんに茶化される以前より、誕生日のころから母さんにもどやされ続けていた。「あんたねえ。いい年して家で玉ねぎこさえてる暇があるなら、彼氏のひとりや二人作って来なさいよ!」、と。
彼氏はホームセンターに売っとらんし。そんなぼやきは母の耳に入ったらしく、お尻を蹴られた。まさかの蹴り。
本当に二人の彼氏を紹介した日には、火のごとく怒ってあたしを張り倒すくせに、ひどい話だ。
元同級生たちの結婚報告を、二年ほど前から耳にするようになった。式にも呼ばれた。
けれどあたしは形なき波のような流れに、乗ることはできないのだろう。予定もなければ、その気もないのだから。
本音を打ち明けてしまうと、あたしは現状を気に掛けても焦ってもいない。
百パーセントと訊かれると大きくは頷けないけれど、一生独身でも正直構わない。「あー、どんまい! 来世に期待」程度の、気の持ちよう。
果てなき宇宙に心を馳せるわりに、あたしは昔から『将来』という遠い場所を見通すことが苦手だ。
その手の話題で、あかん、やばいーと笑っているあたしは、大体頭が空っぽ。
彼氏欲しい、はふざけて口にしたら本当に男の人を紹介されてしまった経験があるので、不用意に発言しないと決めている。
煌びやかに主張する広告を無視して、あたしは自分のSNSページを開いた。
SNSは恐らく、あまり向いてはいないのだろう。昔からメールも苦手で、そもそも文章を書くこと自体が得意ではない。仕事も事務作業の時間が一番気を重くさせた。
それでも二、三日に一度の頻度で更新を続けているのは、想いの行き先をあたし自身がまだ見つけられていないからなのだと思う。
あたしの投稿は星空の写真が大半を占める。残りは、意味のわからない独り言みたいな呟き。だから誰からの反応もなければ、あたしもそれを期待してはいない。
あたしが綴る数行の言葉は、もしも側に彼が……健一くんがいたのなら、伝えていたのかもしれない宛先のない話だ。
「えー、咲幸フェイスブックとかやってないの? 中高の同級生とかやってる人多いから久々に会うきっかけになるよー」
二年前、そう中学の友達に勧められて始めたSNSで、最初に調べてしまった名前に自分でも呆れた。おまけに内心微かな期待もあったけれど、彼の名前は出てこなかった。
あたし、やっと夢の一歩を踏み出せたんだよ。届きもしない喜びを数行の文章に隠してしまった日から、あたしは代償行為のようにSNSで彼に話しかけている。
拙い文章を考える時、向こう側には健一くんがいた。眠たげな彼は、とりとめもない話に軽い相槌を打つ。時より「咲幸はマジで馬鹿だな」と呆れたように笑うのだ。
下らない妄想は、心を浮き立たせた。
「ねえ、健一くん。今日の藤岡先生の頭さあ」
無駄話ばかりを重ねた、高校生の毎日が蘇る。
ささやかな、あたしの幸せな時間。
この幸せは本当に触れられるものではなく、普通でもない『おかしなこと』だと、あたしは知っている。
更新が終わると、あたしは気まぐれに検索バーへ入れる名前がある。昔みたいに人指し指だけでキーボードを沈める時、どうしてか一文字ごとに心をつつく、やましさ。
萩乃健一。
学生時代はよく、萩乃咲幸と勝手に口にしては心臓に甘い痛みを走らせベッドを転がりまわっていた。馬鹿だった、本当に。今もだけど、多分七百倍くらい。
二年前はやっていなかった健一くんのSNSを発見したのは、半年以上前だ。大好きな春の空を投稿したあと、体温を奪うような淋しさを紛らわそうと、彼の名前を再び調べてみた。
そしてたどり着いたのが、ありふれたSNS。
初めて見た書き込みが、最初で最後の健一くんの投稿で、どうやら基本は放置をしているらしい。
『結婚しました。式来てくれた人、ありがとうございました』
簡素な一文だった。よくある結婚報告の更新日は、一月の末。
一月の結婚式は珍しいなあ、と的外れな感想を抱きながら五分ほど眺め、自分でも笑えてしまう変な呻き声が出た。
うぇぁあーとか、ぐぅえあーとか、文字にも起こせなければ、再現もできない。
健一くんが結婚した事実など二年前から知っていたはずなのに、確たる証拠を突きつけられた衝撃は噂の比ではない。
毒物を目にするのと口にするのくらいの差がある。
そんなわけでパソコンを前に断末魔よろしくの奇声をあげていたあたしは、やがて部屋に入って来た母さんにいつも以上に怒られた。車に鳥のフンを落とされたとかで、虫の居所が悪かったらしい。
過剰な母さんにあたしの脳内は余計散らかされ、あたしもまた人生初の反抗を試みた。
「うっさいなあ! ほかっといてよ!」
自分の中で精いっぱいの声量は、津波のごとく押し寄せた力強い母さんの怒声に、一瞬で飲み込まれた。あたしの遅れて来た反抗期、三秒で終了。
去った波のあとには虚しさだけが残り、結局あたしが謝る。なぜ二十七歳にもなり、部屋で騒いで親に注意を受けなければいけないのだろう。世間の同い年には、自分の子供を叱っている人もいるのに、だ。
ぴかぴかと眩しい白い服は陰影すら生まないのに、包まれる健一くんには昔と変化ない影がある。しかし髪型はオールバックにセットされ、涼やかな瞳を晒す姿に、もう大人になってしまったのだとしみじみとした。
社会人になった健一くんは、きっともう無造作な前髪をいじってはいない。
世間の評価は悪くとも、あたしは野暮ったい髪型をした男の人を見かけるたびに、今でもドキリと心が揺れる。目で追ってしまう。元々タイプなのか、記憶にある彼の髪型だからなのか、今となってはどちらでもよい。
幸福な瞬間に閉じ込められた彼は、昔よりもさらに痩せている。おまけに少し疲れた目をしていた。式のごたごたで、参ってしまったのかもしれない。
若干やつれながらも男前な新郎の隣で笑う、純白の花嫁さんは美人だ。
細身で背が高く、黒髪のショートカットが似合うアーモンド形の目は、とても頭が切れそう。年上なのかな、と勝手に想像した。
健一くんは、こういう人がタイプだったのだろうか。
あたしとは全然違う人で、似ていたら似ていたで複雑だけれど、正反対というのはちょっと淋しい。我ながら面倒くさい思考を抱えて、目を寄せた。
これから先、健一くんと人生を分け合う人。それこそ病める時も、健やかなる時もというやつだ。やがて二人の間には子供が生まれて、その子はうんと賢そうな目をした子で、幸せな家庭を築いていくのだろう。
彼女は生涯、健一くんの隣に寄り添い合える。
「……いいなあ」
呟きは呼吸のように自然と漏れた。自分に置き換えた想像はうっかり視界が滲むほど幸福で、羨ましくて羨ましくて、あたしは何度も椅子の足に音を立てて踵を叩きつけてしまう。
案の定、十回目で下から「咲幸うるさい!」の声が響いた。踵もひりひりとして、色々と痛すぎる。
元恋人のSNS、それも結婚式の投稿を繰り返し眺めているのも、相当『おかしなこと』だ。別に異常性癖ではなくて、今の写真がこれだけしかないのだから我慢しているだけ。
せめてもうちょっと別の写真を、と期待しても更新はなにもない。
考えてみれば健一くんはSNSが得意そうな人ではなかったのに、なぜ登録したのだろう。……結婚報告のためか。
「浮かれやがって。ちくしょー」
普段なら考えられない口汚さで呟くものの、とりわけ怒っているわけではなかった。
誰にも知られてはいけない秘密の時間に浮かぶ感情には、名前がない。
心も、もしかするとどこにもないのかもしれない。




