星に願いを
死にかけの木枯らしみたいな音を立てる肺に、俺はなぜか煙草の煙を送り込もうとした。
ポケットの中でひしゃげた赤銀ツートンの箱を取り出し、震える手で幾度もライターを擦るが、なかなか火が着かない。死ぬ気かよ。いっそ死んでくれても構わないけれど、二十代の健康体は早々くたばったりはしないみたいだ。
涙に濡れた瞼を閉じ、口内に立ち込める煙を持て余しながら妄想に逃げた。
薫風で芝が揺れる。どこかと思えば山と田畑に囲まれた、田舎町の河川敷。
博物館からの行き帰り、さび付いた橋の欄干で咲幸が唐突に一人タイタニックごっこを始めるから、危なっかしくていつも頭を叩いてしまったあの場所だ。
背丈の低いコンクリートで整備された浅瀬には、ガキのころよくパン一で入って遊んだ。遊歩道の脇で、父親がキャッチボールをしてくれたこともあったのかもしれない。
青臭い風に背中を押され、小さな女の子が駆け寄って来る。くりくりとしたどんぐり眼は俺を映し、その口は目の前の男を呼んだ。パパ、と。少々の赤を差した頬。細く柔らかな髪の毛には、波を模した癖がついていた。
福笑いよろしく破顔させた俺は、その子を抱き上げ頬摺りをして、メリーゴーランドをやるぞーと細い腕を取る。
「あんまり危ないことしたらあかんよう」
後ろで俺を注意するそいつには、小学生にも満たない男児がしがみついていた。母さんが大好きでベッタリで、どっかの誰かによく似た甘ったれの面を下げながら、吸いダコの残る指を鼻に突っ込んでは怒られる。強靭な遺伝子らしく、やっぱり頭には少しの癖毛。
あいつはきっと母親になっても、俺のことをお父さんやパパではなく健一くん、と呼ぶだろう。
……甘い幸福に堕ちたまま、這い上がれない。
垂れかけた鼻を啜った瞬間、思考に制裁を加えるごとく煙が体内で暴走した。痛く、苦い。粉塵を吸い込んでしまったような重い咳を繰り返し、呼吸もままならずもがく。
呑酸に襲われ、苦しみを訴えるのが肺か胃かも判断できないまま体を起こした。
脳で考えるより先に鉄製階段の裏へ周り、しゃがむより前に堪えきれず嘔吐した。高熱に浮かされた時にも、酒に呑まれた時ですらこんな不快感を覚えたことがあっただろうか。こみ上げる喉を焦がす痛みに、ただ戸惑う。手で口元を押さえるもせず膝と手のひらを地面に預け、胃の中が空になるまで吐き、しばらく四つん這いのまま浅い呼吸を続けた。
ようやく壁伝いに立ち上がった足元には吐瀉物が広がり、いつの間にか手をすり抜けた吸い殻が浮かぶ。
どうするよ、これ。……どうにもできねえけど。
自問自答を一瞬で済ませ、アパート脇の自販機へ歩を進めた。安くはないが、唐突にジュースが飲みたくなった時などに重宝している。掃除が行き届いていない煤けたケースに手を置きながら、硬貨を吸い込ませた。
水を一本買う。三口分、口をゆすぎ、残りは心が赴くままに頭上へ掲げて引っ被る。髪を伝った水が首筋から背中や腹を流れ始めた時、少し飲んでおくべきだったと後悔した。
冷たい。目鼻と口から液体を垂らし、春の夜に立ち尽くす。夏は遠い夜風はまだ震えるほど涼しく、冷えすぎた水と共に容赦なく俺の体温を奪った。
ふと脳裏をかすめたこのままションベンしてえという欲求を、かろうじて息をしていた理性が抑え込む。
アスファルトに広がっていく透明な水たまり。スーツの裾から伝う雫がそこを目指し、落ちていく。たったひとつの水滴が大袈裟な音を響かせたのと同時に、寒さか虚しさか苦しさか、その全部か、体から心がはみ出し、何かが切れた。
弛みなく張られていた糸が終わりの時を迎える。ぷつりと、唐突に弾けた。
やめてやる。……なにをだろう。
答えを探せないまま最初に感情をぶつけたのは、手の中にあった煙草の箱。無性に腹が立ち、中身ごと捻り握りつぶした赤箱を、捨て置かれた鞄めがけて投げつけた。わずかに跳ね返ったあと、力なくアスファルトを転がる。
砂埃に塗れた鞄の外ポケットからは、今朝手渡されたばかりの辞令表が顔を覗かせていた。それも乱暴に引き抜き、躊躇いもなく真っ二つに破く。乾いた音が春の大気を割った。重ねてもう一度、もう一度。中途半端な厚みの賞状用紙は破りにくい。
それでも繰り返すうちに指先の爪ほどになった紙きれたちを、手の中に収めて風に晒す。強く吹いた夜風にさらわれ、濃紺の空に吹雪となってちらついた。いい年して外にゴミを撒くなよ。呆れたけれど、今更拾いきれはしないだろう。誰に謝ればいいのかもよくわからない。
……頑張ったんだ。
懸命に生きたつもりだった。無為に過ごした大学生活の穴を埋めるように、生まれ変われるように、入社式から気合を入れた。
人付き合いなど得意ではないけれど精いっぱいの愛想を振るい、内情に嫌気が差した同期たちが去っていく中、ひたすら仕事に打ち込んだ。
薄っぺらではない何者かになれるよう、自分自身を認められるようになるため。
根幹に自分が関わっている製品を街中で見かけた時、胸に沸いた熱が恐らく『やりがい』という名前を付けてよいものだった。
必死だった。いつしかその情熱が歪んだ軌道に乗り始めても、見て見ぬふりを続けた。
「萩乃、おまえやたら頑張るなあ。まあ、これからなにかと金が掛かるもんな」
背を叩き、上司は応援してくれる。後輩にも慕われた。髪型に難癖をつけてきた連中すら黙らせるほどの仕事量を、こなしてきた。
そうして手に入れた、ほどよく理想的な二十七歳の生活。仕事しかしてねえじゃねえかと憐れむ奴もいる一方で、そこそこの地位や収入や美人な嫁を、羨む奴もいるのかもしれない。
悪くねえじゃねえか、何度も言い聞かせた。大切な家族を養い、たまの休日はそいつらに癒される。日々に潜む小さな幸せを積み重ねる人生。
俺はきっと幸せになれる。この二年間、自分を納得させようとすればするほど本心は乖離し、行動もまたちぐはぐになった。ダラダラと夜の鉄階段で吸い続けた煙草は、一体何百本に上ったのか。
いつからか俺は、一生懸命働き続けることであの日々に手が届くのではないかと信じた。十九歳の夏に描いた、月並みな日々。少しの油くささと幸せの匂いが染みついた、彼女が隣にいる未来のために生きた。
俺はただ、あの日抱いた夢を叶えたかっただけだ。この先何年、何十年働いたところで、ひと欠片さえ触れられないとわかっているはずなのに、俺は彼女を幸せにする淡い夢の中にいる。どうかしていた。
心の底から彼女を吹っ切れたとき、俺はあっさりと手中の幸福に気が付く。正しく健全な生き方の中に、身をおくことができる。
そうしていつか、今よりずっと年を重ねた俺たちはある日偶然、再会を果たすのかもしれない。あの、思い出が残る田舎町で。互いに家庭を持ち、子育てすら終わり、その子供たちが新たな家族を作るかもしれないころになり、俺たちは長い空白の末に邂逅する。
すでに狂おしいほどの感情は消え、遠い日の恋人には小川のせせらぎのような愛しさだけが残っているのだろう。
胸の奥底にしまい続けた思い出の箱を、開く時だ。宝石より宇宙より煌めいていた懐かしい日々。素晴らしい青春を過ごしたねと、互いに目を細め、皺の刻まれた口元を綻ばせるのかもしれない。
その語らいはきっと美しい。
けれど俺は、あいつとの間に美しさなど求めてはいなかった。
ただ日常が欲しい。贅沢でなくとも、宝石のような特別さも持たなくていい。薄汚れた道端の石にも似た、生活の色がにじみ出たもので構わないのだ。
あいつの「おはよう」で目が覚めて、「おやすみ」の声で眠りの世界に入れるような、ありふれた毎日が欲しい。
ポケットにティッシュのゴミを溜めたズボンや、裏返しにしたままの靴下を洗濯籠に放り込んで、怒られるような日々でいいから。
「……咲幸」
寒さに震える唇がこぼした名前を、数年ぶりで口にする。行き場を知ったジグソーパズルがぴたりと帰るよう、その音を心が受け入れた。
ああ、初めからこの心にだけ従うべきだった。俺は一体なにを恐れていたのか。ただ一つの感情にだけ素直になって、生きればよかったというのに。俺は結局、あいつに謝ることすらできていない、クソ野郎のままだ。
濡れそぼっていた視界は晴れ、澄んだ夜空と輝く星々が広がる。棚引く煙とともにいつも眺めていた変わらない光。ぽつりと瞬くありふれた一つ星が、まるで俺の心を導くようだった。
戻ることもやり直すことも叶わない。青春の日々は失われ、二度とあのころは訪れないだろう。
それでもどうか。果てない夜空に手を伸ばし、俺は祈りと共に一歩を踏み出す。
もう一度だけでいい。絶対に離しはしないから、この手の中に……あの星を。




