Side.K 夏の夢
よろめきながら会社を出て少し歩くと、田舎町には星空が広がる。天頂に並ぶのは特徴的な柄杓型。
……咲幸、覚えているんだ、俺はまだ。
連なる星々をなぞり、変わらない場所で輝く夜空の案内星を探す。こぐま座のポラリス。そう言って光を指した、丸くて短い指先。
覚えているんだよ。星のない夜に咲幸が教えてくれた、メアテボシの探し方を。
北斗七星を挟んで北極星の反対側には、咲幸が一番大好きだと微笑んだ光がある。しし座のレグルス。
既に西側に傾いてはいるものの、南の空にはもう一つ清廉な白星が瞬いていた。あの眩さに、しかし俺は星座を結べない。
スピカとレグルス。今にして眺めてみると、二つの星は隣といえるほど近くに感じるものではなかった。けれどあのころの俺たちには、まるで夫婦星のように寄り添って見えたのだ。
今夜この光たちを、彼女はどんな気持ちで目に映したのだろう。
願わくはどうか、咲幸の瞳がずっと星を映しますように。永い時の中、天の北極に輝き続けるあの星のように、変わらずにありますように。俺は十年前と同じ祈りを空に捧げる。今はもう、見上げる星彩だけが俺たちの繋がりだ。
なあ咲幸。ずっと考えずにいた、独りよがりな妄想を吐いてもいいか。
もしかしておまえも、俺を忘れられないんじゃないか。あの日俺を振ったこと、本当は後悔しているんじゃないか。どこかの馬鹿と同じで、やり直したいと望んでいるんじゃないか。
「じゃああたしは、健一くんのためになにをすればいいかなあ」
「咲幸は、ずっと俺のことを好きでいてくれればいいよ」
おまえはあの夏の約束を、不格好なエビフライを一緒につくったあの甘い約束を……今でも、守り続けているんじゃないか?
そうであって欲しいと願う俺と、勘弁してくれと叫ぶ俺がいる。
どこにも吐き出せない想いを、情けなく引き下げたまま生きているのは、俺だけで十分だ。同じ痛みに咲幸が苛まれているのだとしたら、俺は耐え切れない。
遠い夏の言葉を彼女に告げる権利を、俺は永久に手放してしまったのだから。
純真さを宿した瞳で、きっと明日も明後日も数年後も、咲幸は眩い星空を望むのだろう。星を追う咲幸の隣に、誰でもいいけれど彼女を大切にしてくれる存在を祈った。指さす先の光を共に眺め、星を語る声に耳を傾けて欲しい。
咲幸はそいつに寄り添いながら甘い響きで名前を呼び、春の日差しの笑顔を向ける。やがて咲幸の腕には、俺の知らない誰かによく似た小さな男の子が抱かれたりするのかもしれない。
頼むから、お願いだから優しい世界であってくれ。深夜の冷えたアスファルトに崩れるまま膝をつき、俺は誰だかわからないなにかに心から土下座する。
お願いします、どうか咲幸を幸せにしてやってください。
やっぱりもう、頭がどうかしているみたいだ。……本当にそんな光景を目の前にしたら、生きていける自信すらないくせに。
一体いつになれば、腐らせた女々しい気持ちを捨てられるのだろう。咲幸の存在を脳内から追いやれずとも、頭の隅で青春のひと時として振り返る程度のものに、納めておけるのか。
子供が生まれたら変わるのかもしれない。
学生時代はうんことかセックスとか叫んでいた時に一番輝いていた高遠は今、顔をくしゃくしゃとさせる最高の笑みを見せては、娘を語る。
俺もいつか高遠のように、子供が可愛くて仕方がない馬鹿親になり、ひと昔前に付き合っていた女のことなど気にも掛けず生きていけるのだろうか。流れる時間さえも消し去ってくれなかった想いを、忘れさせてくれるというのか。
そうだとしたら、早く子供が欲しい。
最低な思考が芽生え、爆発的に頭の中で増殖した。一番現実的で『正しい』答えに導かれるままに、俺は走りだす。
アパートを目前にして気持ちが逸り、もつれるようにさらに加速する。抜けてしまいそうな激しい音を立てる、築三十年の鉄製の階段。
興奮のあまり鞄が手から滑り落ちた。拾う手間も惜しく、振り返らずに階段を駆け上がって部屋を目指す。
もっと早くから決断するべきだったのかもしれない。十九の夏に初めて抱いた本気の夢は、相手が誰であろうと同じじゃないか。
ドアノブに手をかけても玄関が開かない。回路のショートした脳は理由を導き出せず、俺は乱暴に呼び鈴を連打した。
近所迷惑も顧みず、荒い呼吸を混ぜて嫁の名を叫ぶ。
助けてくれ。胸の声が外に出ようと暴れ出し、耐え切れず言葉にならない呻きが漏れる。
薄いドアの向こうから、戸惑い混じりの絵美が俺を呼んだ。
「なになに健一? ちょっとうるさいから。どうしたの?」
止めて、と勢いのまま呼び鈴を押し続けていた手が掴まれる。ドアを支えた絵美は、怪訝そうな顔つきで眉をひそめた。
「なに? 鍵忘れたの?」
薄紫のパジャマに身を包んだ彼女は、呆れたながらサンダルを脱ぎ捨て廊下へ上がる。
今日は早いのね。どんな表情で口にしているか、想像できない声。
答えずに名前を背中に投げかけ、俺は彼女の腕を掴んだ。振り返る絵美を強引に抱き寄せる。短い悲鳴を上げながらたたきに滑り落ちた彼女の身体を、力のままに廊下へと押し倒した。
「いった……、え? ちょ、ちょっと、あんた酔ってるの?」
玄関の扉が閉まるのと、靴も脱がない俺が絵美に覆いかぶさるのはほぼ同時だった。
走り続けた俺の身体は、まだ荒い呼吸を繰り返す。
脚が震え身体に力が入らずとも彼女を羽交い絞めにするくらいは容易く、組み敷かれている絵美の抵抗を抑えつけたまま、無理矢理に言葉を奪う。風呂上りだったのか、触れた肌はしっとりと湿っていた。
手に伝わる温かさも鼻をかすめた香りも、何カ月ぶりなのかよくわからない。思い出せない。でもこれでいい、いいはずだ。
「なあ絵美。こ、子供……欲しい、よな?」
「ほ、欲しいけど。……え?ちょ、ちょっと待って待って、なに? どうしたの?」
安アパートで暮らし続けているけれど、経済的な余裕だって本当はすでにあった。よくない理由がない。なにもない。
絵美との間に子供ができたら、残業を減らそう。仕事ばかりにかまけてないで、家事ももっと協力した方がいいだろう。子供が少し大きくなったら家を検討する。ここら辺は土地が安いから、そこそこ大きい家が買えるのかもしれない。
俺は「なあ、俺一人部屋が欲しいんだけど」と溢す子供に、「そのうちな」なんて言い続ける親父にはならない。
休日には近所のショッピングモールや公園や海辺をぶらついて、時々家でごろごろして、男でも女でも俺はキャッチボールではなくバスケがしたい。あまり興味はなかったが、アウトドアなんかも面白いかもしれない。
子供の教育方針は俺よりも数段優秀な彼女に従った方がいいだろう。それからあとは。
「ねえ、健一! なんなの急に。いや、お願い、止めてってば」
それからあとは、あとは。あとはあとは……。
「止めてって言ってるでしょ!」
鈍い痛みで意識が戻された。決して気を失っていたわけではないのに、俺の頬に拳を振るった絵美の顔を、今日初めてきちんと目にした気がする。
バックルに掛けようとした右手を力なく垂らす。
俺と同様に忙しない息遣いをする彼女に宿る色は、明らかな恐怖だった。
周りからは姉さん女房と茶化され、事実俺を尻に敷き気味の彼女が、今まで見せたことのない顔。
俺は一体、自分の嫁にこんな顔をさせてなにをやっているのだろう。
「……あんた、なんで泣いてるの」
怯えと戸惑いが入り混じる絵美の顔に、雫が零れた。続けざまに、二、三適。涙なのか、もしかすると鼻水なのかもしれない。
自分の顔に触れると、頬にも顎にも生温い液体が伝い手のひらに移る。自覚をするとさらにとめどなく溢れ、ていることに気が付く。
スーツの裾で拭い、顔を背けて立ち上がった。
「ごめん。どうかしてた」
いや、今もどうかしている。俺の行動と遅すぎる謝罪に、絵美は呆気にとられ声を失っているのだろう。玄関を開けて流れ込んだ夜風にハッとしたのか、背中には震えた声が掛かった。
「ちょっと、どうしたのよ?」
「悪い、なんでもない。荷物、忘れただけだからすぐ戻る」
頼む、放っておいてくれ。涙交じりに突き放した言葉に返事はなく、追いかけてくる足音もない。そのことに安堵したせいか膝から力の抜けた俺は、階段の中腹で足を滑らせてけたたましい音とともに下まで転がり落ちた。
身体中の痛みに呻き、引き笑いにも似た嗚咽だけが口の隙間から漏れる。瞼を焼く熱さは収らない。抑えようとするほどに涙は手の隙間を伝い、首筋にまで流れた。
駄目だ、どうしても思い描けない。『正しい』選択肢の先にある未来を想像しようとも、遠い夏の夢が脳裏にちらつき邪魔をする。濡れた紙に文字を綴るように上手くいかず、苛立ちにも似た感情が沸いた。
俺の頭は今も未練がましく、あいつの姿を思い浮かべている。
不格好なエビフライを作りながら、大人になったいつかに想いを馳せた日。これ、なんかあんまおいしくないけどおいしいねえ、とか哲学みたいなこと抜かしていたアホな声が、耳を離れない。
俺の未来にあるのは、どうしてだろう。もうずっと昔に隣から消えてしまった、咲幸の笑顔。ただそれだけだ。




