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メアテボシのあなた  作者: つめ
第三章 社会人篇
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変わらないもの、変わりゆくもの

 きっと罰が当たった。


 ごめんなさい。

 天ぷらを揚げる音の勢いで騒いでいた蝉たちが、弱弱しく鳴き始める。ああ、夏は終わってしまうのか。暑い、早く秋になれ。毎日願っていたくせに、今胸にあるのは友達と別れた帰り道を思わせる淋しさ。


 あたしの言葉に眉を下げながら目を細めた宇佐美さんは、とても不器用に笑った。宇佐美さんはこの二週間、どんな想いで過ごしたのだろう。


「……ごめんなさい」

「いえ。何度も謝らないでください。考えてくれただけでも、嬉しいですから」


 素直な笑みに、胸の奥が痛む。罪悪感とは、こういう感情を差すのかもしれない。

 あたしは三度、宇佐美さんに謝った。

 最初は返事が遅れてしまったことに関して。その次は、宇佐美さんの気持ちに対する答えとして。そして今のは、宇佐美さんが思うよりあたしは、彼を考えてはいなかった不誠実さの、謝罪。


 宇佐美さんについては、真剣に考えていたつもりだった。でもそれは最初の一週間だけで、先週の土曜日からどっかりと居着いてしまった『健一くん』に、あたしの心はしがみついて離れない。


 汗と涙でぐしゃぐしゃになった紙を取り出し眺めるたびに、淡い期待が胸に詰め込まれていく。

 年中花畑を開園させているあたしの脳は、この一週間いつもにも増して満開だった。そんな集中力の散漫な状態で、宇佐美さんの隣にはいられない。

 今のあたしはきっと何をするにも健一くんを思い浮かべてしまう。些細なことで比べてしまう。

 同じことを自分がされたら、切ない。


 大きな鼻を人差し指でこすっていた宇佐美さんは、不意をついてあたしの写真を撮ると、いたずらに成功した子供のような笑みを残して去って行った。

 次の土曜日から、あたしの昼休みは少しだけ淋しくなった。


 健一くんと、やり直したい。

 都合のいい話があるわけがないのに、一度抱いてしまった希望をあたしは捨てきれない。少なくとも健一くんがあたしを気に掛けてくれた、という事実を糧に、あたしの脳内花畑は広がっていく。

 健一くんと連絡が取りたい。どうして会いに来てくれたのか、あたしをどう想っているのか、知りたい。渇望に近い願いの中、頭には一人の男の人が浮かぶ。

 そしてまるでテレパシーのように、翌日彼は博物館を訪れたのだった。


「よお咲幸。マジで働いてたんだな、おまえ」


 昼前の投影が終わると同時に声を掛けられ、振り向くと小麦色の肌が眩しい高遠くんがいる。

 ひと月前に軽く交わした口約束を、律儀に果たしに来てくれたらしい。そういうところがきっと、健一くんが『あいつはなんか憎めないんだよな』と評したゆえんなのだろう。


 武骨な手は愛らしい垂れ目な女の子の手と繋がれており、隣にいるその子とよく似た女性が軽く会釈をする。大きく目立つお腹に手を当てていた。


 パパあ、おなか空いたー。砂糖菓子の呟きに、おうちょっとだけ我慢な、と返した声は同じくらい甘い。

 うわ、と漏れてしまった声は引いたわけではなく感嘆だった。


 よく一緒に補習を受け、教室で下品な言葉を口走っては女子に罵倒されていた高遠くんが、パパと呼ばれている。

 満天の星空を眺める時とも、涙腺が緩む映画を見た時とも違う感動。それは感動というよりは感慨に近い。必然的に、時の流れを感じた。


「にしてもあれだな、こうやって働いてるとこ見ると咲幸がちょっと頭よく思えるから不思議だわ」

「なにそれえ、ちょっとはよくなったよ!」

「普通に喋る時の声はアホのままだな」

「えー?」


 少しは賢くなれた自信があったのに。実際二十歳から実家に戻るまでの数年間、仕事以外には勉強と読書くらいしかして来なかった。それでもきっと、平均よりはずっと馬鹿なままみたいだ。


「ミュージアムの方は見ていかんの?」

「土器とか掛け軸見てもよくわかんねえよ、俺。もののあはれがよー。こいつもサッパリだし、姫夏はガキだし」


 おどけた笑顔はあたしの記憶にある高遠くんのままで、安心した。馴染みある場所、例えば夏休みにおじいちゃんの家に遊びに行った時に感じる懐かしさ。


 心の緩んだあたしは、意を決して一つのことを尋ねようとする。ひと月前、夏の大気と共に飲み込んでしまった言葉。

 からかわれても、勘ぐられてもいいから。


「ねえ高遠くん。……教えて欲しいことが、」

「あ、そういや咲幸ビビらずに聞けよ!」


 教えて欲しいことがあって。あたしの言葉が切れるより先に、高遠くんの甲高い声がホールに響く。駄目だよ、そんなに大きな声を館内で出しちゃ、とは注意できない。


「健一な、結婚したんだとよ!」

「え……」


 あたしはいつも、救いようがない馬鹿だ。


「もう連絡取ってないって聞いてたから、知らなかっただろ」

「う、うん。知らんかった。へえ、そうなんだ」


 へえ。繰り返す声は、きちんと喉から出ている自信がなかった。そもそも今あたしは、どういう顔をしているのだろう。

 何度も唾を飲み込んでも、へえ、以外の二の句が継げない。


 首筋からすべてが冷えて、空白の時間が生まれる。

 心に氷河期が訪れた。デイアフタートゥモロー、とかいうふざけた単語を出す余裕はあるくせに、脳内はいまだホワイトアウト。

 空調効き過ぎているのか、ぞわりと背中に寒気が走った。


「おまえらも色々あったみてえだけど、なんだかんだ幸せにやっててよかったわ。……あ、わり。で、教えて欲しいことってなんだ?」

「へ? え、えっとお。な、なんだっけ。……忘れちゃった」

「んだよ、やっぱ馬鹿だな。まあ、咲幸もマスオと上手くやれよ」


 あたし高遠くんに宇佐美さんの話、したっけ。首を捻っても記憶は辿れない。

 どっちにしろ振っちゃったんだけどね、とは屈託のない笑みを見せる高遠くんには言えなかった。


「つーかさっきから気になってたんだけど、おまえ社員証の紐短くね? もっと長くしねえと変な位置で浮いてんじゃねえか」

「え? だってこれ支給されたやつだよ? 長さ調節できるのついとらんし」

「あー、いや。まあ、おまえがいいならいいけどよ。つーか腹減ったしそろそろ帰るわ」


 午後も頑張れよ。軽い挨拶を残すと、高遠くんは歩き出した。


「エレベーターあるけど使う? ……奥さん」

「大丈夫大丈夫。今はまだ階段くらいはいい運動になるんだってよ」


 姫夏ちゃんの手を引いて、奥さんを見守るように高遠くんは階段の向こう側へ消えていく。

 全身の力が抜け、しゃがみ込んでしまいそうだった。けれど意外とあたしの身体も根性があり、中身はもうスカスカで枯れてしまっているのに、なぜか倒れない老木みたいに立ち尽くす。


 健一くんも、いつかあんな風になるのだろうか。

 あたしの知らない女の人を気遣いながら、その人によく似た子と手を繋いで歩くのかもしれない。


 胸に満ちた感情は、悲しみや淋しさといったはっきりと色のついたものではなく、それは別れの朝に抱いたものとよく似ていた。

 涙はもう出ては来ない。


 あの冬の朝をやり直したいのはあたしだけで、後悔しているのもあたしだけで。健一くんはもう、新しい道を歩き始めている。

 突き放したのも終わらせたのも全部自分のくせに、本当に振られたのはいつの間にかあたしの方。

 眩しい夏日から、あたしの時間は止まったままだ。

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