二十五の夏、17才の約束
……別れたいわけではなかった。もちろん、嫌いになったわけでも。
ただ心だけが知らない場所に置き去りにされてしまったかのように、身体の中に空しさが生まれた。
あたしが一番なのだと、言って欲しかっただけなのに。
怒っても泣きわめいてでも、尋ねればよかった。きちんと話し合うべきだった。そもそもの原因はあたしにあったのだと、今ならわかる。
しかし淀んだ色の感情に支配された十九歳のあたしは、先走る気持ちに混乱し引き摺られてしまった。
短く揃えたはずの爪が手のひらに食い込んで、赤黒い痕をいくつもつけていた。
ずっと独り占めできると信じていたものは、そうではなかったらしい。
ぴりぴりとした手の痛みを感じながら、生まれて初めての嫉妬を知った。
馬鹿。無防備な肌を焼いていく太陽の下、遠い日の自分を何度もなじる。過去を気にせず悔まずヘラヘラ生きているあたしの、たったひとつの後悔。
あたしなりの猛スピードで夏の町を駆け抜けて、でも男の人を見つけることは叶わなかった。
汗が滲み肌に貼り付くTシャツへ空気を送りながら、職場への道を引き返す。
戻るころには昼休みが終わるせいでお昼が食べられないが、走り過ぎたせいか食欲もない。
来た時と同じ道――彼と何度も歩いた坂を未練がましく選んでしまったせいだろう。頭の中には一人の男の人ばかりが浮かぶ。凍てつく冬の朝を最後に、もう顔を合わせることも声を聞くこともなかった男の人の姿。
別れを告げたあたしを、健一くんが見てくれたのは一度きり。あとはずっと呆けたように立ち尽くしていたけれど、やがて俯いたままだんまりで、目も向けてくれなかった。
健一くん、このままだと別れちゃうんだよ。
あたし、千葉に行かなくなっちゃうんだよ。
こうやって一緒に遊んだり話したりできなくなっちゃうんだよ。
もう、会えないんだよ。
自分が思い浮かべた未来が具体的に脳内で描かれ始め、胸騒ぎが止まらない。朝を迎えた山間の白は溶けて寒さは和らいでいくのに、あたしは手足と身体と口と心と、すべてが震えてしまいそうだった。
「嫌、だよね?」
真っ白な吐息と共に吐き出した不安を、雪交じりの風がさらう。
なにを言っているのだろう。自分から別れを切り出したくせに、面倒くさいを飛び越えて意味のわからない人になっていた。
あたしは昔から脳で考えるより先に口を動かしてしまい、後から違和感の正体に気付いたりする。あの日も同じだった。
別れるなんて嫌だよね? 喉を震わす言葉は、健一くんから聞きたかったものだ。
「だって健一くん、あたしのこと……一番、好きだもんね?」
そう、だよね? 期待する一言を掛けて欲しくて、縋りつくような声を漏らしてしまった。
健一くんは黙り込んで、答えをくれない。
あの朝あたしは、初めて小学校に通う子供みたいに、何度も後ろを振り返ってしまった。止まってしまう速度と小さな歩幅で、帰路を歩く。
追いかけて来てくれないだろうかと、淡い期待を寄せて何時間家の前をうろうろしていたのかはわからない。気付けばあたしは軒下で寝ていたのか、身体を揺さぶられて目が覚めた。寝ぼけた頭には一筋の光が差す。
けれど心が浮いたのは本当に一瞬で、容赦ない母さんに頬を叩かれそのまま始まる説教タイム。堪えきれずに母さんの手を振り払い、あたしは来た道を引き返してしまったけれど、健一くんはもうどこにもいなかった。
これが彼の答えだ。
あたしを呼ぶ声と告げた想いと、触れた手つき、未来を語る笑顔、すべてを大切に保存しておきたいと願ってしまう夜だった。
嘘や演技だったのだとは思いたくないけれど、でも認めるしかない。だって健一くんはあたしの言葉に頷いてくれなかったのだから。
馬鹿みたい。真冬の空気に、乾いた呟きを溶かした。一晩中一人で浮かれて盛り上がって。
覚束ない足取りで家に着くとどうしてか倒れてしまって、あたしは数年ぶりに出た高熱で正月中ずっと寝込んだ。
ガンガンする頭に、夜通し遊んだからだと怒鳴る母さんの声はやたらと響く。「馬鹿でも風邪を引く」と笑う父さんや親類の喧騒もやっぱり煩くて、頭痛が増した。
「ちーちゃん。あたしね、お正月が過ぎたら三重に行こうと思うの」
黙々とみかんを剥いてくれた妹だけが、優しかった。
汗が吹き出す。凍てつくあの冬が恋しくなるほど照り返す日差し。湿気の帯びた南風が鬱陶しく纏わりついた。
着替えないと、恐らく業務ができない格好になり果てている気がしてならない。それほど汗が止まらない。
暑がりで汗かきのあたしは夏が苦手だ。かといって寒さにも強くなく、だから春が好き。
吸った大気にむせ返り咳き込むと、振動で額の汗が流れて目に入る。つんとした刺激に、短い悲鳴を上げた。
ハンカチを取り出す手に伝わる、無機質な感触。足元で軽い音がした。
折りたたんだ、紙だ。無造作にポケットへ入れて走りまわったせいで、皺だらけになってしまった。拾い上げたそれはあたしの汗で少し湿り、不快な手触りを伝える。折り目に沿って、ゆっくりと開いた。
「……なんで」
やはり漏れるのは、数十分前と同じ呟き。重い足を引き摺って歩を進めるたびに、同じ言葉を繰り返した。
ぽたり、ぽたり。雨粒のようにアスファルトへ吸い込まれていく汗は止まらない。
咄嗟に手で拭いあかん、と声を出す。落ちるくらい汗を流すのは問題だし、擦ったら化粧が崩れる。あれほど全力疾走をした後だから、もう手遅れだろうけれど。
ぽたり、ぽたりと次々に零れ落ち、滴は収まることを知らない。
いくらなんでも汗、出過ぎだよ。とりあえず抑えようとハンカチを握る手が、宙でさまよった。
この汗は、一体どこから流れているのだろう。
ぽたり。垂れた雫が手の中の紙に落ち、文字が滲む。滲んだのは文字か、視界のすべてか。……両方だ。
石があったわけでも窪みに引っかかったわけでもなく、膝が折れた。がくん、と重力にすべてを委ね、低くなった視線のあとで膝に痛みが走った。声は声にならず、喉から呻きが漏れる。
崩れ落ちるように地面に座り込むと、もう立ち上がることができなかった。
「なんでえ」
情けなく吐き出した声には、涙が絡んでいた。
泣いたら駄目だ。余計息苦しくなるだろうし、なにより昼休みがあと五分しかなかった。次も解説担当があるのに声が変になったら困る。だから、堪えないといけない。それよりこのままだと準備すら間に合わない方が問題かもしれない。
『あたしね、プラネタリウムの解説員になりたいんだ』
恥ずかしげもなく、夢を語った季節を思い出す。高校二年生の夏休み、17才になる夏。
初めての恋人とする最初のデートで唇を重ねてしまい、舞い上がる気持ちと熱を抑えようと打ち明けた。
プラネタリウムの解説員。
その夢を口にすると、馬鹿のくせにとみんなが笑う。
健一くんは、笑わなかった。
照れくさいのかいつものように前髪をいじりながら、けれどあたしと目を合わせて、微笑む。
「そうか。頑張れよ。その時は千國が映す天を、見に行くから」
約束な。大人になっても当たり前のように彼は隣に居るのだと、あのころは信じて止まなかった。
『綺麗な天だった』
汗と涙でよれた紙には、ただ一言。
彼そのもののように線が細くて繊細で、縦に長い字。どうしてかトメとかハネとかが存在しなくて、全部払ってしまっている少し癖のある字。
健一くんの字だ。高校時代、いつだって目にしてきた字。毎日のように答えを教えてくれていた字。貸してもらったノートに踊っていた字。忘れるわけがなかった。
確かにあの場所に健一くんは居た。あたしの映す天の下で、星を語る声に包まれていた。十年以上前に交わした小さな約束を、果たしに来てくれた。
なんで、と溢れる気持ちは声にならない。
今ごろ遠い日の約束を果たしに来たのなら、こんな言葉を残していくのなら、どうして健一くんはあの朝に、何も言ってくれなかったのだろう。
あたしの声に頷いてくれなかったのだろう。
「わからんよ」
滲んだ文字が並ぶ湿った紙を胸元で抱きしめた。
この気持ちを思い出してしまわぬよう、六年間意識して生きてきたというのに。たった一言ですべてが蘇る。あの鮮やか過ぎた日々が。人生で一番の幸福を抱いているとさえ感じた、温かな夜が。
「健一くん……わからんよう」
あたしはまだ、健一くんのことが好きで堪らなかった。
町中を包む蝉の大合唱に紛れて、あたしはただただ泣きじゃくった。大号泣がいつ以来か思い出せない。あたしは幼いころから、あまり泣かない子供だったから。健一くんと別れた日にもそれからの日々でも、涙を流したことは一度もない。
それなのになぜか溢れだしてしまった涙は堰を切って流れ続け、容赦なくあたしを溺れさせる。汗が混じりやがて鼻も出てきて、ハンカチでは足りずに服の裾で顔を拭った。
健一くん。ただ彼の名前を口にしながら。
小道に座り込んで延々と泣き続けたあたしは、やがて道沿いの家から出てきたおばあさんをぎょっとさせ、箱のティッシュとなぜかぼたもちを手渡される。この季節には重いと思いつつも食べ、お茶も頂き顔も洗わせてもらった。
博物館に戻ると、普段穏やかな上司が目を三角にして待ち構えていた。一時間の職務放棄を当然こっぴどく叱責されたあたしは減給となり、しかし早退を促され、半日早い夏休みを迎えた。
翌日、夏休み最終日のちーちゃんを朝五時に叩き起こし、高速をぶっ飛ばして弁天島まで遊びに出掛けた自分の行動が、いまだに理解できない。
「え? っていうか、弁天島? ってどこ?」
「静岡。海見よ、海」
「は、はあ」
助手席で眠気のあまりぎらっぎらの三白眼を披露していたちーちゃんも、きっと意味不明だっただろう。
あはは、空青ーい、海緑ー、鳥居赤ーい。ヤシの木やばあって、なにがやばいのかはさっぱりで、「お姉ちゃんのテンションの方がやばいから」という冷静なツッコミが入る。
夜遅くに上機嫌で家に帰ると、張り倒されんばかりの勢いで母さんに怒られた。もちろんあたしが。
内容は右から左に聞き流していたけれど、母さんの怒鳴り声で頭から抜け落ちていたことを思い出してあたしは焦る。
土曜日のお昼、町中を汗だくで駆けずり回っていたあたしは、宇佐美さんに告白の返事をしていない。




