Side.S 思い出の町で
そのお客さんは、四列目の一番中央の席に座っていた。あたしの好きな席。一番星の歪みが少なく鑑賞できるため、学生時代は気に入っていた。
最近では来館者にもわかりやすいように、お薦めの席周辺にはぬいぐるみを置いたりもしている。悲しいかな満席になることは少なく、邪魔にもならない。
彼が特別印象に残ったのは、一人で来た男の人だったからだ。博物館を訪れる多くは年配者か子連れの人たちで、単体の若い男の人は珍しい。
きっと星が好きなのだろうと微笑ましくなったものの、投影終了後もその人は座ったままで、あれは寝ているなと直感した。ドーム内は常に暗く、刺激も少ない。プログラムが思うよりも退屈で、夢の中を漂っている人は珍しくはなかった。
流しているだけの映像番組は仕方ないとしても、投影解説中に寝られてしまったのなら、あたしの反省点だ。
起こすのは後回しにして、出口へ向かうお客さんたちに挨拶をする。
ふと視線を感じて頭を動かせば、いつの間にか起きていたらしい男の人がじっとこちらを見つめていた。
見つめていた、と言いつつ彼が本当にあたしを認識していたのかはわからない。そのお客さんは不自然なほど帽子を深く被っていて、奥の瞳も顔すらも確認できなかったからだ。
けれど不思議とあたしは、彼と目が合ったと信じた。一瞬の数分の一にも満たないわずかな瞬間、あたしたちは見つめ合う 。
時間が止まった。広大な宇宙に二人きりで投げ出されてしまったような、奇妙な感覚に襲われる。ドームは何もない空間に変わり、立っているのはあたしと、知らない男の人。
背の高い人だった。グレーの緩いTシャツから色白な腕が伸び、同じように細長い足を包む黒デニムが、痩せているその人の細さを一層強調している。
道端で風に煽られるヒナゲシの花なんかを見つけると、大きな赤花を支える頼りない茎に不安を覚える時がある。目の前の男の人も、風が吹いたら揺れてしまいそうだ。でもあたしは心もとない身体つきの人に、いつもドキリとしてしまう。
無造作に伸ばした、襟首にかかる黒髪。少し猫背で俯き気味の角度が、よく似ていた。
健一くん。
どうしてかあたしは、数メートル先に立つ男の人を、彼の名前で呼んでしまう。一度考えを過らせるとあたしの脳は単純で、あれは健一くんなのだと騒いで止まない。
そんなわけ、あるはずがないのに。
……健一くん。
「千國さーん、ちょっといい?」
呼ばれた声で宇宙は消え、あたしは業務中であることを思い出した。
健一くんが、いるはずなどない。
理解はできているのに、脳内の反乱分子があたしの思考を支配し、心にはするりと先ほどの男の人が入って来た。確かめたい。
用事を済ませ一直線にドームへ引き返したけれど、もうすでに誰の姿もなかった。やっぱり、思い違いだったのだろうか。
コンソールを片付け、胸のつかえが取れないまま昼休みに入ろうとした時に気が付く。
彼の座っていた席に、なにかが置かれていた。
近づいてみるとA4のコピー用紙を四つ折りにしたもので、館内で用意したアンケート用紙だった。開いてみても、無回答の白紙。
任意で入口に設置しているはずのアンケートを、なぜわざわざ持ってきて書かずに置いていったのだろう。
首を捻りながら何気なく裏面を返し、あたしは呼吸を忘れた。世界は再び音を失う。
足先に走った痛みで我に返ると、抱えていた荷物がすべて足元にばら撒かれていた。
うそ。……なんで。
呟きと同時に足が上がる。一枚の紙だけを手にして、荷物は床に散らかしたまま走りだしていた。
一段飛ばしができない高さの階段が、もどかしい。ホールを駆け抜け、ぶつかるように入口の扉を押し開けると館外に出た。
むせ返る、夏の熱気。あたしを館内に押し戻さんばかりの、蝉の喧騒。
晩夏の昼間はまだ激しく燃えるような暑さで、数歩踏み出すと汗がにじんだ。
あたりを見回す。外階段を駆け上る男の子。ベンチには孫を連れているおじいちゃん。一本桜の下を歩くのは、四十代くらいの夫婦。……違う。
小走りのまま敷地内を歩く人にひとりひとり目を寄せるけれど、違う。どれも違う。
もうすでに敷地外に出てしまったのだろうか。跳ね返り顔にあたった社員証が煩わしく、うっかり放り投げてしまいそうになったところで、少し冷静になりポケットへしまう。
大きく息を吸い、あたしは敷地の内外を隔てる門をくぐり抜けた。
職場の博物館は、駅から坂を上り続けた高台に位置していた。裏手の大通りからは、広がる田畑と町並みが一望できる。
徒歩で訪れる時だけは抜け道が存在していて、民家の裏庭みたいな細い坂を上ると早くたどり着く。
地元民だけが知っているショートカット。
坂は恐ろしく急こう配だった。行きはまだしも、帰りの下りは一度踏み出すと止まることもままならない。
それでも遠回りをしたくないから、あたしはその道を選んでいた。……あのころの、話だ。
久しぶりに通る坂の斜度は、全力疾走をするのを一瞬だけ躊躇するほどだった。速度をつけて転んだ日には、坂の終わりまで転がり続けて大けがをするかもしれない。
けれどせり上がる熱い感情は躊躇いを押しのけて、あたしの足を勢いよく前へ出させる。
足の遅いあたしは、走っていて風を感じるようなことは滅多にない。でも今日は生ぬるい南風が向かい風となり、流れ出る汗をさらっていく。
暑い。髪が邪魔だ。足が上手く動かない。というかあたし、どんだけ走るの下手なの。
勢いが付いて、止まれないかもしれない。足が速度に追いつかず本当に転んでしまうかもしれない。
もしも転んだら、この手を取ってくれる人はいるのだろうか。
焦りと不安と昂る気持ちが綯交ぜになり、なぜか脳が遠い過去へ飛んだ。
この坂道を、あたしは幾度も健一くんと上り、そして下った。
あたしが一度転んでからは、健一くんは強く手を握ってくれていたことを憶えている。
肩まで抱くのは恥ずかしくて逆に歩きにくいのに、咲幸が転ぶかもしれないからと聞かない。ある日二人三脚のように、二人で派手に転んだ。
健一くんはいつもあたしの表情を大袈裟だと笑ったくせに、自分も大概だったのだ。
上り坂は、背中を押してくれた。「大丈夫だよお」「行け行けー! ……あ、足踏んだ、わり」「もー」。健一くんは頭が賢いのに、時々ちょっと馬鹿だった。
すけべだから、本当はあたしの身体に触りたかっただけなのかもしれない。なんでもいいけれど。あたしも満更ではなかったし。細い指のくせにべたべたと触る手つきだけは男らしい彼の手が、好きだったから。
健一くんは一緒に過ごすほどどんどんアホですけべな男の人になってしまい、もしかするとあたしの馬鹿ウイルスに感染してしまったのかもしれない。
どうしてこんなことを思い出しているのだろう。
すでに肺も痛く、空気があたしの身体に入ることを拒んでいるように呼吸ができない。顔に伝うものが汗なのか何なのかもわからず、鼻まで垂れそうになる。苦しくてしんどくて、だから走るのは苦手なんだ。
坂は終わり、穏やかな水面が眩しい河川敷に出る。さび付いた橋の欄干。風を感じたくて足をかけ身を乗り出しては、怒られた。あぶねーよ、馬鹿と。健一くんの『馬鹿』は、いつも優しい色をしていた。
傍から指を差されて笑われてしまうくらい恥ずかしいフォームで、あたしは倒れ込みながら駅にたどり着く。全身が酸素を求めている。咳き込んでえずきかけて、ふらついた拍子に自販機にぶつかった。
絡んでいた蜘蛛の巣とユスリカみたいな羽虫の死骸がべったりと服に移り、さらによろけた。
プラネタリウムや図書館に行った日は、帰りにこの自販機で飲み物を買った。少し割高だけど、健一くんはいつも奢ってくれた。彼の手の中でカシュっと大気を突き抜けた爽快な音を、耳が憶えている。
改札も駅員も乗客すら存在しない、静寂に包まれた場所。風の音や虫の声や、自然の呼吸音だけが溢れる。
どこまでも続いていく単線を前に、ホームにはぽつりと佇むベンチがあった。世界から置いてきぼりを食らったベンチが、当時のあたしたちのお気に入り。
駅舎を背中にホーム外からは完全に死角で、日の光すら知らない中で何度も唇を重ねた。
振り返ればあたしたちは、いつも隠れながら外でキスばかりしていた。今なら恥ずかしくて絶対にできない。高校生は度胸があるし、馬鹿だ。
小さな無人駅に、人影はない。
どこに向かえばいいのだろう。
踏切を越え、足はあてどもなく彷徨う。あの男の人は、どこへ行ってしまったのか。
『あれ、俺の家』
ふと思い出すのは、初めてのデートでにこやかに自分の家を指差していた健一くんの声。
そうだ、実家だ。遊びに行ってみたかったのに、狭くて恥ずかしいから嫌だと断られて、結局一度も行けなかった健一くんの家。
駅のすぐ裏にあったはずで、あたしは陽炎の浮かぶ道路を走り抜けていく。
こじんまりとした借家、青いトタン屋根にクリーム色に塗られた壁が眩しい平屋。三台の自転車と、バスケットゴールが置かれていた庭。
佇まいは少し年期が入ってしまったけれど、家は変わらず夏の太陽に燦々と照らされていた。
庭にはもう、自転車もバスケットゴールも見当たらない。
少しの花壇には真っ赤なホウセンカと、純白のオシロイバナが大きな花を開いている。脇には、小学校で育てる時に貰う朝顔のプランターが置かれていた。
わずかな引っかかりを感じ、朝顔を覗いてしまう。青紫の花はもう萎んでしまっている。
水色のプランターには、『きのしたはると』と書かれた元気な文字が踊っていた。
直後、玄関から飛び出してきた小さな男の子と目が合う。知らない子供、きっと『きのしたはると』くんだ。
子供でよかった、と安堵する一方、心には大気とは異なる涼しい風が吹き抜けた。「だあれ?」と無邪気な問いに笑顔で答え、あたしは踵を返した。
この場所はもう、健一くんの家ではなく『木下さん』の家になってしまっている。
いつの間にか引っ越してしまったみたいだ。
来た道を引き返し、踏切を渡る足は痛くて力ない。
そもそもあたしの中からは、彼が車で来た可能性が抜け落ちていた。あのころと同じ道を歩いているのだとばかり思っていた。やっぱりいつになっても頭が足りない。
見知った町なのに、迷子になってしまったように行く場所を見失ってしまう。
抜ける青空も、心地よさをくれない湿風も弾ける炭酸みたいな蝉の声も、あのころと何も変わっていないのに。どうして彼だけが隣にいないのだろう。
どこに行けばもう一度、健一くんに会えるのだろう。




