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メアテボシのあなた  作者: つめ
第三章 社会人篇
50/60

指さす光とあの夏の約束

 今週は残業中に飯を食べる暇もなく、咲幸の更新を追えていなかった。スクロールを続けて、数日分の投稿を読む。


『一時間さけるチーズ割いてたらあかんことになった』


 ロクでもない投稿が先頭で、気が抜けてしまう。添付画像はスルメソーメンのような、生糸の束のようなふわふわのチーズ。くだらねえことしてるのな、隣で彼女を小突く自分を想像した。


 翌日は艶やかな花並木。桜色よりも濃い花もあれば、白に近い淡い色も乱れる。青空に映える鮮やかな花は桜ではなく、きっと花桃だ。

 近所の土手に植えられた数千本の花桃は、見ごろを迎えると絶景なのだと、昔教えてくれた。


 五月の大型連休にデートをした時だから、高校三年生のころ。

 待ち合わせの駅前で、電車を降りた咲幸が俺に駆けてくるなり小さな手を開いてみせた。


 八重桜にも似た連なる薄紅色の花弁が、ぽってりと重みのある一粒の花をなしている。来る途中に拾ったのだという。きっと枝から落ちて間もなかったのだろう。色つやの残る若い花を、咲幸は俺の手に落とした。

 こんなの、男が貰ってどうするんだよ。軽く握った手の所在に困る。


「花桃の花言葉はねえ、『あなたに夢中』」


 芽吹く春の匂いを含ませて咲幸が微笑むから、俺は酔ったように顔を火照らせた。ティッシュに包み、花を持ち帰る。

 捨ててしまうのはしのびなく、「兄ちゃん押し花してるんだけど」「え、キモ」という声をBGMに、分厚い本の間に挟んだ。

 そのあと開くことはなかったけれど、あの本は今どこにあるのか。


 舌で転がした飴玉みたいな思い出に、身体が痒くなる。首筋や脇の下を掻きながら、さらにスクロールを続けた。

 二日ほど空きがあり、本日の投稿。十分ほど前に更新されたばかりだ。

 咲幸の投稿にもっとも多い紺色、霞みがかった春の夜空が映される。

 春は南天。懐かしい響きをタイトルにして始まっていた。


『春は南天。ようよう白くなりゆく星空。赤色だちたる麦星。ほそく線引きたる』


 即興だったくせに、咲幸はそれを気に入っているのか。

 野球部の金属音、調子っぱずれな吹奏楽部の演奏。それらを運ぶじっとりと湿度の高い夏の風。俺は放課後にいた。

 机を並べた二年B組の教室。揺らめくカーテンは、湯葉の色。


 今日の投稿は少しだけ長く、珍しく『もっと読む』が表示されている。俺はクリックし、新しいページを開いた。


『やっぱり春のこの時間は、南の空が一番好きだなあ』


 南天に見える、星の紹介。アークトゥルス、スピカ、デネボラ。春の三角形。


『からす座はどう見てもカラスじゃないから、おとめ座のβ星やη星たちと作ったエビフライ座の方がそれっぽくていいねえ』


 おいおい、おまえ現役の解説員だろ? いいのかよ。

 咲幸らしいほのぼのとした短い文章が続いた最後。一言だけ、素朴な気持ちを添えて絞めくくられていた。


『スピカは一番好きな星。レグルスは一番大好きな光』


 咲幸の声が、遠い春の夜から時を越えて届いた。

 頭なのか胸なのか、心という場所が存在するのならばそこに注ぎ込まれ、俺の息を止める。


 嘘だろ、と呟きは自然と漏れた。

 咲幸。どうしておまえはまだそんなことを言っているんだよ。あの春から幾度、季節が巡ったと思っているんだ。それなのにどうしておまえは。


 蘇るのは、まだ雪の残る山道を、必死に自転車を飛ばして落ち合った深夜の冷たさ。互いに新しい道を行こうとしていた、十八の春。

 初めて一緒に星を追った夜に教えてくれたのは、彼女が一番好きな星だった。おとめ座の咲幸が好きな、スピカ。

 そして、一番大好きだという光。小さな王。大袈裟な二つ名を持つ、白の輝き。


「なんでだ?」


 首を傾げる俺に、咲幸は幼げな八重歯をちらつかせて頬を染めた。俺を覗く上目遣いが、目の前にあるように描ける。


「レグルスはね、しし座のアルファ」


 あの星は、健一くんだから。


 呻きに近い、吐く寸前の声が出た。ディスプレイが滲む。胸の中央が鷲掴みされ、せり上がる苦しみがあの夜の愛おしさを思い起こさせた。


 さすがにまずい。口と鼻から同時に息を吸い、目を固く閉じて持ち直しす。

 残業中に元カノの近況報告で、泣きながらを嘔吐をしたとなれば、人生終了の鐘が鳴る。少なくとも、会社員としてはアウト。

 厳重注意で済まされず、療養を薦められるのかもしれない。


 ああ、けれどもしかしたらその方がいいのか。諦めにも似た感情が心を満たす。俺はもう、どこかがおかしいんだ。


 間に合うのだろうか。左手で輝く指輪を外して、絵美にひたすら土下座をすれば。罵られても殴られても蹴られても構わないから、頭を下げ続ければ。

 会社に退職届を叩きつけ地元に戻り、そして咲幸の元に駆けつければ。俺はまた彼女の横を歩けるのか。


 涙か鼻水かもわからない液体で顔中をしょっぱくし、俺は咲幸にもう一度やり直してくれと懇願する。好きだ、本当に好きだから、二度と離さないから側にいてくれと誓う。


 そうしたら咲幸は、西日が幻想的な絵画を作り出した夕暮れと同じく、「いーよ」と頷いてくれるのだろうか。十年前と変わらない甘い響きで、「あたしも健一くん、好きだから」と、はにかんでくれるのだろうか。


 そんな度胸がてめえにあるのかよ。なにもかもを投げ捨てて人を傷つけて、それでも掴めるかもわからない星に手を伸ばす勇気が、あるのかよ。……本気で、間に合うことを期待しているんじゃねえよ、馬鹿野郎。


「悪い戸田。俺やっぱ今日帰るわ。さっきのチェックは朝一でやるから」

「あ、それは構わないっすけど。……って、顔色やばいっすよ。どうしたんすか? 一人で大丈夫ですか?」

「ああ、やばいかも。でも大丈夫」


 本当はもう、ずっと前から『やばかった』。

 なにがなんでも箱に押し込めて、壁を厚く塗り重ねたり厳重に封をしたりしてごまかしていただけで。あまりにも中に押し込めたものが強大だから、時々なにかの拍子で壁が崩れ、封が吹き飛んでしまう。


 でも大丈夫。自分に言い聞かせる。またどうにかして、押し込めておくから。

 生きていくとは、こういうことなのかもしれない。

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