文化祭の太陽
一年の文化祭はなに一つ記憶に残ってはいない。
けれど二年の文化祭は、今でも鮮明に憶えている。
年を重ね、溢れだすほどの思い出や経験が脳内に蓄積されても。もうろくしたジジイになり、身の回りのことすら曖昧に薄れていくことになっても。
あの放課後に差した夕陽の色を、俺はふとした瞬間に思い出すのだろう。
球技大会や高校総体をはじめ、文化祭、期末テストに夏休み。イベント過多な六月と七月。
中でも文化祭は最大のイベントとして、校内の空気を色づけた。
「A組は金魚すくいらしいぜー」
「マジか。金魚には負けらんねーよな」
文化祭には謎のルールがある。飲食系の出店は、三年生しか許可が下りないのもその一つだ。
二年生はアトラクション系の出し物、つまりはお化け屋敷や縁日といった、参加型の企画にすることが例年定められていた。
生徒数の関係で、文化祭の規模は小さい。それでも学内にはお祭り好きな連中が溢れているせいか、毎年そこそこの盛り上がりを見せているようだ。
「でえ、ウチはなにやるー?」
「はいはいはい! 喫茶喫茶! メイド!」
「だから食べ物は駄目って言ってんじゃん、アホ」
教室に満ちる喧騒をBGMに、俺はゲームに勤しむ。
正直、なんでもよかった。
去年ほど積極的にばっくれようという反抗心こそないものの、特別思い出作りをする気もまたない。
面倒じゃないやつがいいな。そう、あの瞬間まではそんな白けた空気を纏っていた。
「はいはいはい!」
やたらと響く、活気にあふれた声。
いや、うるせえなと視線を寄せれば、お隣の彼女だ。
肘が伸び、指一本一本が天頂を目指し揃っていた。少しだけ丸い爪が並ぶ、短い指。
大袈裟な挙手は、参観日で気合を入れる小学生のようだと、俺は微笑ましさを覚えた。
「咲幸、なんかあるん?」
「あたしプラネタリウム、やりたいです」
あの瞬間だ。
クラスに文化祭の太陽が誕生した。ビックバン! ……じゃねえな。けれど衝撃は同等。
わずかに赤を差した柔らかな頬。童心を忘れていない輝きに満ちた瞳。俺は前髪の隙間から隣の彼女を覗く。
俺の視線に気が付いたのか、咲幸は軽い頬杖をつきながら、湾曲したまつ毛の並ぶ目を細めた。
「萩乃くんもいいと思わない? プラネタリウム」
「え? あ、ああ、うん」
いいんじゃねえの、別に。俺のいい加減な相槌に、咲幸はやっぱり相好を崩すのだ。幼さを残す八重歯をちらちらとさせながら。
プラネタリウムを最後に見たのは小学三年生の学校行事。科学館への遠足だっただろうか。映画館にも似た真っ黒の空間は子供心をくすぐり、広がる天は純粋に美しかった。
似たような思い出がクラスの連中の中にもあったのかもしれない。咲幸の意見は大多数の票を得て、可決された。
そして俺たちは太陽に引き付けられるかのように、短い数週間をぐるぐると周り、駆け抜け輝いた。二度とは戻らない17才の夏を、ただ笑いながら。
文化祭で作製するプラネタリウムは、用意するものが大きく分けて二つある。ドームと投影機。
ドームは環状に並べた机の上に、段ボールを張り合わせて作った多角形の球体を乗せた。崩れないように固定し、外側を暗幕で覆う。教室の半分近くを埋める巨大なものになった。
投影機の方は、ピンボール式が採用された。地球儀のような球体に小さな穴を開け、内側にセットした電球でドームに光点を映し出すというものだ。
比較的簡単な手法であるが、知識皆無の高校生が作るには難易度が高い。
俺たちの作業は、ホームセンターで金ボウルを二つ購入するところから始まった。
ボウルの底を丁寧に叩きだし、綺麗な半球型に整える。
二つを合わせて固定すると、バスケットボールサイズのステンレス製ボールが完成した。
次に早見星座から作り出した船底型のような星図をボールに貼りつけ、それに沿って星の穴を開けていく。実際の等級に照らし合わせるように、数ミリずつ異なるサイズの星を描写する。
この穴から中から漏れた電球の光が、星彩となってドームに映し出されるのだ。
その管理をすべて行っていたのは、咲幸だった。
そもそもピンボール投影機の設計図から内部の電源部分、使用する電球や投影方法まですべての作成方法を予算内にまとめて実行委員に提出したのは、咲幸だった。
無駄に有能。みんなに指を差されながら笑われ、照れくさそうにしていた。
「うーん、この電球だとフィラメント部分が大きくて星の像に写っちゃうかもしれないねえ」
フィラメント、だって。どこかわかっているのかね。咲幸が難しい単語を喋りながら、口を歪めている。どことなく賢く見えてしまうことが新鮮で、おかしくて仕方ない。
現実感が薄い、非日常。夢のような時間だ。
なんでもいいなどと無関心でいたくせに、咲幸が中心となって進める放課後の準備に俺は、今のところ皆勤賞。
段ボールの切れ端を手に教室をうろうろ。高遠と浦山と廊下で騒ぎ女子共に怒られる時もあれば、教室の隅でゲームを手にしていた時もあった。
帰ればいいのに。自分でも呆れながら、手持ち無沙汰な状態で教室にいる。
「萩乃くん。これ、書くの手伝ってもらえる?」
教室の隅にいる埃みたいな男子に、彼女は手を差し伸べる。
実行委員でもないのに俺に仕事を与えてくれ、無意識のうちに二年B組の輪に導いてくれる。
「え、なんで俺?」
「んー、萩乃くん暇そうだったから。嫌だったらいいよー」
別の人に頼むから。
踵を返す咲幸が手にする模造紙を掴み、慌てて立ち上がった。待って、見捨てないでくれ。男子高校生という生き物は馬鹿でアホなくせに、時々面倒くさい。
「や、やらないとは言ってねえし」
彼女が太陽であるのなら、俺はさしずめ惑星だろう。この光で輝けて、ゆく道さえも示されている。
星を作る咲幸は俺が知る限りで、もっとも表情を輝かせていた。目には宇宙を宿し、彼女そのものが恒星のように光を放つ。
ボールに星の穴を開けている途中で、貼りつけていた星図の一部を誰かが破ってしまうアクシデントが起きた。
一部分だけ、描写する星の位置がまるでわからなくなってしまったのだ。星図は複製が可能ではあったが、運悪くその日、原紙の型紙は学校になかった。
残り少ない作業時間に、焦るクラスメイト。どうするよ、つーか破ったの誰だよ。怪しい雲行きの中、咲幸だけは一人冷静だ。わずかな思案顔を作ったかと思えば、いつもの飄々とした笑顔に戻る。
「あたしに任せてよお」
小さな球体の前にしゃがみ込むと、ペンを持った右手を動かし始めた。淀みない動きで、星の光が描写されていく。
その光景を、俺たちはしばらく受け入れられずにいた。
咲幸は星座早見を見ることもなく、その場所にあるであろう星たちの点を打ち始めたのだ。
「北極星からこれだけ下がったところに、おおぐまのお尻としっぽ、ドゥベ、メラク、フェクダー」
描かれてゆく点はどこか見覚えのある柄杓のような、ハテナのような形。恐らくは北斗七星。
「ダイヤモンドと……うーん、かみのけ座はわかりにくいなあ」
適当に点を打ち、星座を結んでいるのではなかった。そのことは、後に用意した星図をボールに合わせた時、咲幸がそらで打った光が寸分違わず星図の位置と合わさったことで証明されている。
あの時咲幸は、ボールの縮尺に合わせ点と点の間隔を瞬時に導きながら、宇宙に散らばる一つ一つの光を描いたのだ。
星をそらんじ、その距離までをも割り出していく。名もなき光たちを等級順に、正確な場所へ点描していく。
それをあの『学年一馬鹿』のレッテルを貼りつけて笑う咲幸が、やってのけているというのか。
あの夏の放課後。鼻歌まじりに星を描いていく咲幸を前に、俺たちは唖然としていた。いくらアホな連中でも、咲幸がやっていることが尋常ではないことだと理解できたのだろう。
こいつ、なんでこんなところで馬鹿をやっているんだよ。きっと誰もがそう思っていた。
正直、俺だけではなかったはずだ。あのころ、クラスの誰もが心の中で千國咲幸という女を馬鹿にし、見くびっていた。その見方を、たった数分の出来事がひっくり返してしまったわけだ。
「んーと、開ける穴のサイズは横に書いておいたからあとはお願いしまーす!」
やべえ、こいつただの馬鹿じゃねえぞ。なにかを持っている馬鹿だ。全員が直感した。
そして次はなにを見せてくれるのかと期待する。
あの大喜利大会と同じだ。咲幸はいつだって人を惹きつける才能に満ち溢れていた。
「すげえな、千國」
思わず漏らしてしまった俺の言葉に、振り向いた咲幸は顔をほころばせる。
「めずらしーね、萩乃くんから喋りかけてくれるの」
「いや、別に珍しくはねえけど」
嘘つけ。俺から話題を振ったことも彼女の名前を呼ぶことも、一度たりともなかったくせに。
「あたしね、星が好きなんだ」
夕陽が眩しかった。カーテンを取り払った大きな窓からは燦々と西日が降り注ぎ、明るさに目を細める。中でも日差しは、俺の目の前でしゃがむ小さな咲幸を、より一層神々しいなにかにしていた。
あの瞬間が決定打だった。
話しかけてほしい、名前を呼んでほしい。隣の席からアホな顔を覗き、時々飴を貰っていられれば満足だ。そんな気持ちが上書きされた。
あたしね、星が好きなんだ。
いつもより少し涼しげで大人びた声が、体中に染み込む。
俺、こいつのことが好きだ。
目に見えない引力で、俺は太陽に引き寄せられていった。