Side.K 二つの日々で生きる
「あれ? まだ帰らないのか?」
「あ、はい。ちょっと修正作業がありまして。もうすぐ終わりそうなんですけど」
すみません、と頭を下げる彼女のパソコンには、さっそくアラート画面が表示されていた。
同時に一瞥した時計は二十一時半を回っており、まだ早いと考えてしまった感覚にぞっとする。眼鏡の奥で細められた彼女の瞳には、疲れの色が窺えた。
慣れているとはいえ、俺もわずかに目が霞む。
「あー、それだけなら残り俺やっておくよ」
「え? でも、そんな」
「いいって、もう帰りなよ。すぐ終わるやつだから。デスク借りるよ」
戸惑う新入社員の椅子を半ば強引に奪いながら、キーボードを叩く。
「ていうか、終わったらこのままパソコン落としていい?」
「は、はい。構いません。……ありがとうございます」
お礼を重ねながらもデスクを離れない彼女を追いやるように帰すと、入れ替わりに戸田が頼りない足取りで近寄ってくる。
「なにカッコイイことしてんすか、係長」
「いや、入って一ヶ月でこの残業時間は辞めたくなるだろ。普通に可哀想だわ」
「ま、そっすね」
「おまえは遅れ過ぎだけどな。そろそろやばいぞ」
「あー、もう僕も可哀想っすよ」
「いくつかこっち回せ。手、付けてないやつ」
作業を終えすべてのアプリケーションを閉じてから、パソコンを落とす。整然としたデスクに俺の手汗をべたべたとつけておくのも躊躇われたので、袖で拭った。
「え? もう終わったんですか」
「ああ。本当に大したことないミスだったから」
「さすがっすねえ。萩乃係長」
いやにねっとりと絡みつく戸田の声が鬱陶しくて、肘鉄を食らわせながら席に戻る。うるせえよ、まだだっつってんだろ。睨みを聞かせても締まりのない顔で、なぜか奴は俺の席まで付いてくる。いいじゃないっすか、と陽気な声が響いても、淀んだオフィスの雰囲気は大して明るくもならなかった。
今日はまだ、大半の人間がデスクに張り付いている。炎上必死のプロジェクトをいくつか抱え続ける部内は、残業地獄からなかなか抜け出せない。
大学で電子工学を学んだ俺は、エアコンや空気清浄機といった家電製品に組み込まれるマイコン開発を仕事に選んだ。会社は大手家電メーカーの下請けで、表向きは待遇のよい企業。しかしその実深刻な人手不足に悩まされ、狂った仕事量により破滅への道を歩み始めている。
本当に優秀な人間は、一年と経たず見切りをつけていく。中途半端な技術力ゆえに、転職を躊躇ってしまう戸田のような奴もいる。
俺みたいに思考すら手放して仕事に打ち込んでいる人種は、さすがに稀だろう。特にここ数年は、人生と仕事がイコールで結ばれてしまうほど馬鹿みたいに働き続けた。
その結果なのか、今朝の辞令交付会で俺は主任から係長に昇進した。先があるかもわからないブラック企業の役職者なんて、正直やってられねえよ。などと吐き捨てるわけにもいかず、当たり障りのない挨拶をして場を収める。
「結婚してから本当にやる気あるな、おまえは」
上司に茶化され、俺は照れたように笑う。大人になってから身に着けたものと言えば、愛想笑いくらいなものだ。
やはり俺は、目の前にある課題や仕事を淡々と処理する能力には長けているらしい。仕事は効率重視、クソな上司にも楯突かない、後輩には厳しくも基本は優しく接した。
中小企業といえども二十七歳の係長は稀で、幾人もの年上がもうすぐ部下になる。
「それより昨日言ってたセンサーのなんですけど」
「あー? 飯食ったらチェックしとくわ」
「いやいやいや、こんな時間になに食ってんですか」
「いや、なんかすげえ腹減ってな」
「さすがに胃もたれするんじゃないっすか?」
「うるせえな、ほっとけ」
戸田を追い払い、焼肉弁当を一気にかきこむ。学生時代は肉さえあれば満足だったが、最近は『野菜も一緒に食べたい』という気持ちを、年寄りくさいと馬鹿にはできない。弁当の端に転がっている柴漬けなんかが、美味く感じてしまう。
案の定もうあまり若くない胃は、遅い時間の油を歓迎していなかったらしい。五分と経たずにもたれてくる。
とてもじゃないが仕事をする気にはなれず、食休みがてら俺はパソコンのブラウザを立ち上げた。
最近の俺は残業代が出ないことを逆手にとり、やりたい放題だ。早く帰りたいという一般的な欲求が、すでに存在しない。
相変わらず俺は、咲幸のフェイスブックをチェックしていた。更新がある日は彼女の声を聞けたような気分になり、布団の中でふとあの甘い声を思い返す。
星を追っている咲幸の一文は、俺を包み込む安心感をくれた。懐かしい田舎町にいる変わらないあいつの存在に、俺は救われている。
……会社のパソコンで元カノのネットストーカーをしている野郎が上司とか、俺なら絶対に嫌だ。
『大学生になった妹が元気がなくて心配。ホームシックかなあ、やっぱり地元の空が恋しいんかなあ』
そんなのが恋しくなるのはおまえだけだろ、とツッコミながら驚く。一度だけ目にした小学生の妹が、もう大学生になったのか。俺も年を取るわけだ。
時の流れを実感する。俺たちが別々の道を歩き始めて、もう八年もの歳月が過ぎ去っていた。
咲幸に会いたい。背徳感に苛まれながらも、抱いた想いに従ってしまった二十六歳の夏。プラネタリウムに足を運び、抑えつけていた自分の気持ちを受け止めてしまった日。
俺は咲幸と顔を合わせずに帰った。もとより会うつもりはなく、会うべきではないとも考えていた。
目標にたどり着いた彼女の姿を一目見られたのだから、満足だ。自分に言い聞かせ日常に戻ったが、あの日から俺は脱線した道なき道を走り続けていた。
俺を俺であらしめていた支柱が身体の中から引き抜かれ、ここで生きている感覚が希薄になる。心はいつも、あの夏日に留まっていた。
咲幸に対する気持ちだけが、日増しに強まっていく。顔を見たい、声を聞きたい。「健一くん」と耳元で名前を呼ぶ甘い囁きを思い出しては、再会を望んだ。しかしもう二度と会えないだろう。想像は、暗闇に心を閉じ込め息苦しさをもたらす。
貯めこまれた欲望はダムの決壊のごとく放出し、自分自身でも抱くのは嫌悪だ。
自嘲しながらも、一人になると脳裏にはいつも咲幸の笑顔が過った。
初めて咲幸と話した、世界史の授業があったあの日からすべて。潤んだ瞳と赤い頬、舌足らずの「あうぐしゅてぃにゅしゅ」で教室を笑わせ、俺に飴玉をくれたあの始まりの日。
しつこいくらいの萩乃くんと呼ぶ声。意味のない問答、大袈裟な身振り。
「あたしね、星が好きなんだ」という声に、恋を自覚した日。みんなを引きつける太陽でありながら、少しだけ大人な顔を覗かせた文化祭。帰り道、俺の半端な告白に見せてくれた笑顔。好きだという言葉。
初めてのデート、小さな手のひらと柔らかな唇。呼び方が萩乃くんから健一くんになった日。一度だけ零した不安と、揺れる瞳。触れた手の冷たさと、重ねた体の温もり。ともに星を追った春の真夜中。不格好なエビフライを作りながら抱いた夢と、交わした約束。
狂おしいほどの幸福な夜と、天使を目にした凍てつく朝。そして告げた、別れようの言葉。
星空を望む、俺が好きだった瞳。
とるに足らない、ありふれた日常も、また。
再発した病気が体を蝕むように、咲幸と過ごした日々が俺の心に広がっていく。
頭がどうかしている。けれど滞りなく社会生活をこなせていている俺は、世間ではそこそこ有能な会社員。俺自身もまた自分の異常さを言葉で説明できない。一体俺は、どこが壊れているのだろうか。
長い年月の経過とともに、脳内で彼女の存在は美化され過ぎてしまっていた。
今も咲幸と付き合っていたら、あいつの許せないところも見えてきたはずだ。つまらない欠点をついては、人並みに喧嘩もしたのかもしれない。
咲幸に腹を立てた俺が、「うるせえ、デブ」などと暴言を飛ばしコングが鳴るのだ。体形を気にしていた咲幸は「デブじゃないもん!」とプリプリして、もしかすればあいつが本気で怒る形相を拝める日が訪れたのかもしれない。
けれど俺には、その機会すら与えられなかった。心に残る思い出だけが濃縮され、蓄積していく。俺の中で最高の女として、誰にも追随を許さないまま彼女は生き続けていた。




