夕暮れの手のひら
お風呂から上がると、タイミングよく宇佐美さんからメッセージが入る。
『星を撮るつもりで来たのに、三脚を忘れてしまいました。貸して頂けないでしょうか。あと一緒に星を見ませんか』
文字だらけの、非常に丁寧な文章。
簡潔に返事をし、三脚を抱え部屋を出た。「半裸みたいな恰好で出歩かないの!」と廊下で母さんに怒られ、急いで服を着る。
「実家も田舎なんで星が綺麗でしたけど、天の川なんて初めて見ましたよ」
「でしょー。光源が少ないってのもあるけど、標高高いでねえ。今日は晴れとるし月も出とらんから、よけい綺麗だね」
数分前まで宇佐美さんはかつてないほど興奮気味に、満天の星空へカメラを向けていた。
裏庭のベンチに宇佐美さんが腰を掛けている姿は、現実味が薄い。一ヶ月前までの自分は、博物館以外の場所に彼を据え置いたことがあっただろうか。
あたしは村の星空が褒められる時、どうしてか誇らしい。『星のお姉さん』としての始まりが、幼いころに見上げたこの場所の星空だからだ。肉眼で望める天の川の希少さを、あたしは知っている。
おぼろげな雲のような優しく淡い白。心がホット息づく瞬間、やっぱり地元に帰って来て良かったと思わせられた。
「宇佐美さんって、ビール飲める人?」
「え? まあ。……人並みには」
「じゃあこれ、どうぞ」
五百mlのビール缶を宇佐美さんに手渡すと、持っていた手の感覚はもうない。宇佐美さんも一瞬手を引くほど、氷の冷たさだった。父さんはすぐに冷やしたいものを、なんでもかんでも製氷機に入れてしまう。
「い、いいんですか?」
「うん。本当は宿泊料とか安くしてあげられたらよかったんだけどね」
「いやいや、悪いんですからビールで十分です。千國さんは飲まないんですか?」
「あたしビール苦手。苦いじゃん? だからこれでいいや」
冷蔵庫のポケットに詰め込まれていた缶酎ハイ、桃味。こちらは多分、母さんのもの。
ばれたら番犬のようにぎゃんぎゃん吠える母さんの叱責が待っているので、明日買ってこっそり補充をしておこう。
「あとこれ、よかったら食べる?」
小さなボウルいっぱいの枝豆は、昨日収穫し塩ゆでを済ませたばかりの新鮮なものだった。絵の具を塗ったみたいに鮮やかな緑色は、残念ながら闇夜の中では目立たない。
「ベランダであたしが育てたやつなの」
「うわあ、こんなにたくさん穫れるんですか?」
「うん、穫れる穫れる。特に今年は大量だったよ。この枝豆、『湯あがり娘』って種類でね。面白いでしょ。あ、ミニトマトもあるよ」
同じくベランダ産の、奇妙な形のトマト。そら豆を思わせる、出来そこないのハートのような、歪な形をしていた。
日光をたっぷり浴びられる南側のベランダには、あたしが持ち込んだプランターが所狭しと並んでいる。たまに蜂が飛んで来るけれど、青臭さに囲まれた草花をいじる時間は、緩やかな流れの中にありあたしは好きだ。
「僕、ミニトマト好きなんです。貰っていいんですか?」
「いいよー。っていうか珍しいね。嫌いっていう人多いのに」
宇佐美さんは早次に三つ、トマトを口に入れた。あたしも続く。……少しだけ酸い。
「枝豆も、頂きます」
枝豆を食べながら宇佐美さんが片手で缶ビールを開け、軽快な音が夜に響く。虫やカエルの合唱に混じり切れない乾いた音。でもどこか爽快さを味わえる音。
炭酸はカシュの音を聞きたいから、ペットボトルよりも缶を選ぶ。そんなことを教えてくれた男の子の声が脳裏を過り、慌てて首を振った。いけないいけない、と口の中で繰り返す。
どうやらあたしは、下戸らしい。毎回忘れてしまい、飲んでから思い出すのだ。三口ほどで顔が火照り、眠気に襲われてすべてを手放したい気分に支配される。
うっかり鞘から飛び出して転がっていく枝豆にすら、笑いがこみ上げてしまう。
「ちょ、千國さん。駄目ですよそんなに枝豆飛ばしたら。もったいないですって」
「えへへー」
ぽーん。あ、また飛んだ。
「あの千國さん。僕、そういえば美博のプラネタリウムって見たことないんです。というか、館内に入ってもいなくて」
「ええ、なんでえ? 安いから入ってよお、もー」
「すみません。だから千國さんの解説も実は聞いたことがなくて。なので、今やってみてくれませんか?」
「えー?」
えーの声と一緒に口から魂が抜けかけ、慌てて戻す。歪む視界ではすでに星なんて霞んでしまっているのに、身体は本音を飲み込み空に腕を掲げさせた。全体重をベンチに掛けながら目を閉じて、指で空を差す。
「このベンチ、真南向いとるの。というかあたしが向けたんだけどね」
「え?」
「だで今日は、南天の星だけを話してくねえ」
八月十六日、時刻は二十二時二十分。
ここから眺める一番有名な星は、わし座のアルタイル。けれど、あたしは仲良く並んでいる土星と木星よりもさらに山際を指差した。
北の柄杓と対を成す六つの連なり。天の川を掬うスプーンのような南斗六星が一部になる星座を、瞼の裏に描いた。形を想像するのは難しいけれど、きっとこっちの方がいい。宇佐美さんは、十二月一日が誕生日だと言っていたはずだから。
「……さん。千國さん」
いつの間にか寝ていた。肩を揺すられて目を開けると、二の腕に痒みがあり蚊めえ、と低く唸る。
手の中の缶酎ハイは奇跡的に直立したままで、中身も無事。恐らくすぐに起こされたのだろうけれど、自分の中では長い間眠っていた感覚があった。
「大丈夫ですか?」
「んー、あたしお酒飲むとすぐ眠くなってまってねえ」
生温い欠伸を一つ、夏の空に送る。缶の中は半分ほどしか減っていなかった。
「宇佐美さん、残り飲まん?」
「え?」
「あたしもう飲めんくて。いらなければいいけど」
ラップをして冷蔵庫に入れておこう。炭酸もアルコールも抜けてしまうけれど、味は悪くない。
「あ、いや。……えっと、じゃあもらいます」
少し乱暴にあたしの手から缶をさらうと、宇佐美さんは二口程で一気に煽ってしまった。
「いよ、いい飲みっぷりー」
よく見れば宇佐美さんの顔にも、湯上りのような赤が差している。お酒には強くないのかもしれない。
髪をさらう夜風は夕方よりずっと冷たく、秋の匂いすら混じっていた。昼間はまだ汗ばかりを垂らす猛暑が続いているというのに。この町の夏は短いから、あっという間に羽織った上着の温もりが落ち着く季節がやってくるのだ。
「あの。……星空解説、素敵でした」
「ええ、できてたあ? 記憶ないけど」
「千國さん、目を閉じているのに、指さす方向にちゃんと話してる星があるんですもん。どういうカラクリなんですか?」
「ちょーのーりょく」
「いやいやいや。でも、すごいですよ」
超能力は冗談として、あたしは自分の向いている方向がわかれば、夜空に輝く星座を辿れる。目を閉じていようが不思議と脳裏に浮かんでくる。幼いころ星座早見を動かして遊んでいるうちに、頭の中に納まってしまっていた。
密かな特技を初めて褒めてくれたのは、妹のちーちゃん。宇佐美さんは三人目。心がふわりと浮いた。
「そろそろ戻る? あたし明日も普通に仕事だった。忘れとったけど」
右手には鞘ばかりになった枝豆のボウルを抱え、空き缶も放り込む。よっこいしょ。年寄りくさい掛け声とともに立ち上がろうとして、ふらついた。座っていると、酔いがどこまで身体に絡んでいるか判断ができない。
「大丈夫ですか?」
「うん」
ベンチに座ってもう一度一息。感覚の薄れた下半身に力を入れるけれど、またしても立ち上がることは叶わなかった。
宇佐美さんの右手があたしの手のひらを抑え、あたしをベンチに繋ぎ止めていたからだ。あるべき場所に戻って来たと主張するばかりに、彼の膨らんだ手のひらがあたしの手に重ねられる。
「ち、千國さん! あの、好きです」
「……へ?」
「初めて会った時から、その、ず、ずっと好きでした。僕と、結婚を前提に付き合っていただけませんか」
酔いが冷めた、わけではないのかもしれない。よくわからない。しかし意外とやるな、とか失礼かつ冷静な感想を浮かべでしまう。
いつも眼鏡がずれていて、今日も右斜め十度くらいのダサさなのに、満天の星空の下で告白をするなんて。
それはすごく綺麗で、教科書や参考書があるのなら例文で載せてもいいのではないかという花丸印な告白だった。二割増しカッコいいマスオさんになっていた。
一方あたしの恰好がひどい、とにかくひどい。高校ジャージ、それも年期が入り過ぎてすでによれよれ。膝には剥げかけたエビフライ……本当は、エビフライのしっぽだけど。
肩には挨拶回りで貰った近所の旅館タオルが引っかけてあり、今更ではあるけれどどうしてこんなにも家感丸出しの恰好で出てきたのかと疑問を抱く。素面だったとは信じがたい。
人の容姿をなにも言えないくらいみっともなくて、噴きだしてしまいそう。この恰好の女が現れて、どうして告白する気になれるのか。宇佐美さんを茶化したいけれど、とても真っすぐな目であたしを見据えていて、できやしない。やっぱり丸い鼻をこすっていた。
宇佐美さんの手のひらの熱に、心拍が上がる。揺らめく視界に戸惑うあたしの頭には、どうしてか遠い日の夕暮れが広がっていた。
同じくらい唐突な言葉に声を無くし、目が眩んだ西日の光。夕方になってもまだ湿っぽく、けれど川風が心地よくもあった。
初めて男の子に真剣な想いをぶつけられた、高二の夏。
好き、とは告げられなかったから中途半端な告白かもしれないけれど、おっぱい揉ませてとかではない真面目なやつだ。
思い出すのはひどく汗ばんだ汚れた手。あたしの手のひらすべてを隠すほど大きくて、骨ばっていて、長い指先を持つ手のひら。見た目よりずっと厚みがあり驚いてしまう。
頭が賢いけど寡黙で愛想がないせいか、クラスの友達は根暗だと彼を嫌厭していた。だからきっと、あたしだけが知っている。
長い前髪は汗のせいか風のせいか、乱れて額に貼り付いていた。露わになった清涼な一重瞼はその日だけ不安げに潤み、真っ赤に染まった頬には汗が伝う。呼吸の音が聞えるほど、荒い鼻息。
どこか冷めていて教室では目立たない男子の、こんなにも必死な形相を、あたし以外の誰も見たことがない。
呆けたように見惚れた。
誰も知らない彼の顔を、ずっと独り占めしたい。自分でも理解できない感情が生まれて、あたしは戸惑う。もっと彼の心に触れてたくて、色々な表情を目にしたいと願った。恐らく、好きという気持ちなのだと自覚した。
高校二年生の夏、あたしはあの手に触れた瞬間に、彼が大好きになった。ちょっと意識しているクラスメイトから、彼の存在は大昇進を遂げる。
「あの、考えさせてもらっていいですか。……次の、土曜日まで」
別の男の人を頭に浮かべて、なにを考えるというのか。咄嗟に口をついたなぜか敬語で曖昧な返事に、しかし宇佐美さんは微笑んで頷いてくれた。
申し訳なさから直視できず、あたしはすぐに立ち上がってしまう。
宇佐美さんには惹かれている気がしていた。けれどあたしの手のひらは物足りなさそうに、もう触れられはしない温もりを求めている。




