日常と妹と、非日常
世間はお盆休み、あたしは通常運転。
数年間騒ぎ続けたオリンピックが閉会すると、日本中に立ち込めていた熱気は潮が引くように消え、人々は日常へ帰っていく。
暑さの残り香をさらう夕風の涼しさは、夏もまた終わりが近いという合図だ。
「ただいまー、ちーちゃん」
「あ、お姉ちゃん。……おかえり」
帰宅すると、今日も庭先で自転車と仲良く寝転んでいる妹がいる。自転車を起こして、足元についた泥を払ってあげた。
高校三年生になる妹は、自転車に乗れない。
正確には、乗れなくなってしまった。
三年前に長期間意識を失う自転車事故を起こした彼女は、それから自転車を漕ぎだせないらしい。
感覚自体は残っているはずだから、きっと精神的な問題なのだろう。
ある日何事もなかったかのように乗れてしまうかもしれなければ、一生乗れないままなのかもしれない。
自転車なんて乗れなくても生きていけるのに。そう言っても妹は、自転車の練習を止めなかった。
よろめいて足を着いてしまう後ろ姿は必死でもなければ、悲壮感も漂わない。
淡々と乗っては倒れ、起きてペダルを踏んではまた転ぶ。
なにを考えているかは、理解できない。
けれど練習終わりに彼女を一人にさせたくなくて、玄関先で伸びる影を見守ってしまう。いつの間にか、日課になっていた。
事故の後に買い直した自転車は、まだ公道を知らないはずなのにもうボロボロで、可笑しかった。
村中に鼻がつんとするにおいが立ち込めて、夕ご飯の香りと混ざる。抱くのは、どことない懐かしさ。
小高い庭から辺りを見回すと、あちらこちらから集まった終わりかけの野焼きのような細い煙が、黄昏の空に棚引いている。
きっと送り火を焚いているのだろう。見ればずっと先にあるお隣さんのおじいちゃんも、ちょうどカンバに火をつけるところだ。
小さく爆ぜる音が、真っ白な煙とともに風に煽られてウチへ流されてきた。
「煙めっちゃこっち来とるけど、吉村さん家のご先祖様、空じゃなくてウチに来てまうかなあ」
あたしの冗談に、自転車を押したちーちゃんが振り返り口元を綻ばせた。
「なにそれ。っていうか迎え火とかしてもさ、お姉ちゃんなら絶対間違えて知らない人の家行くよね。あ、美味しそうなご飯の匂い~、みたいな」
「もー、馬鹿にしないでよお」
新家であるウチは送り火の風習はないはずのに、不思議とこの香りを馴染み深く感じる。
「お姉ちゃん、全然休みないね。夏休みあるんだっけ?」
「んー一応、二十三から五日間かなあ」
「私、二十四から学校なのに」
「……じゃあ最終日、どっか遊び行く?」
「うん」
わずかに緩んだ頬が、表情の乏しい妹の喜びを教えてくれた。
あたしと過ごす最後の一日が、きっと彼女にとって唯一の夏の思い出になってしまう。去年と、同様に。
楽しみだけれど、物寂しい。
妹には友達がいない。
これも正確には、三年前になくしてしまったみたいだ。当時実家に居なかったあたしは詳しくは知らないし、彼女があまり話したがらないから、訊かない。
いまだに学校でも一日中、誰とも喋らないのだという。唯一人の友達もいないまま、半年後には卒業を迎えてしまう妹を思う時、あたしは高校生になりクラスメイトとして彼女の教室に入りたくなってしまう。
イケるかなあ。……さすがにもう制服は無理のあるコスプレになってしまうかなあ、なんて。
誰とも話さない学校など、あたしには考えられない。勉強のできないあたしは、休み時間ばかりに胸を躍らされて学校へ通っていたのだから。
それでもやっぱり妹は、朝になると淡々と用意をして家を出る。
あたしよりもずっと頭は賢いはずなのに、彼女の姿はとても不器用だ。
いつか妹にも、本心を打ち明けられる友達やら彼氏やら、そういう存在ができればいいと願う。
「あ、そうだ。遊ぶのもそうだけど、髪の毛切ってくれる?」
「あれ? 伸ばすんじゃなかったの?」
「暑い、やっぱ無理。なんか量増えて来ちゃったし」
っていうか、手入れ面倒なんだよね。ただ櫛を通しただけ、という感じの無造作な黒髪が肩先で風に踊る。毛先だけが自由になり過ぎている癖毛は、あたしとよく似ていた。
一度美容院に行ったのを最後に「美容師と話せない」とごねては、母さんかあたしに頼む。どちらも当然プロではないので、ちーちゃんの髪はいつも不揃いで締まりがない。
大学生になったら、さすがに美容院に行ってくれると信じている。
「精進が足らんねえ」
「お姉ちゃんこそ、暑くないの?」
「ぶっちゃけ暑い。坊主になりたい」
「じゃあ切れば?」
「ええ? 出家え? さすがにその勇気はないよう」
「いや、じゃなくて普通に切れば? もうずっとその髪型じゃん。私の中でヅラ疑惑あるよ」
「うっそ、待ってなんで!」
ほら引っ張ってみてよ、違うから。慌ててちーちゃんに髪の毛を触らせる。引っ張って、と言ったはずなのになぜか数本引き抜かれてしまい、鋭い痛みが頭皮に走った。
「あ、本物。……まあ冗談だったけど」
「冗談で五本もあたしの髪抜いたの? 恐ろしい子だよお」
「でも、なんか私の中のお姉ちゃんって、髪短めなんだよね。今の私くらいのさ」
「今の髪型にしたの、家出てからだからじゃない? 高校まではずっと短くしとったし」
二十代も半ばに差し掛かると、高校時代の記憶は日増しに手の届かない所へ走り去っていく。
「今の髪型もいいけど、私短い方が好きだったかも」
「えー、そうなん?」
「うん。切らないの?」
「……今のとこは切らんかなあ」
なんで、と横から向けられた視線から、静かに逃れた。
どうしてだろう。自分でも答えを探せない。こだわりなどどこにもないし、むしろ手入れが面倒なだけなのに。それでもあたしの中ではもう、長い髪の方がしっくり来ていた。年齢的に似合わなくなるまでは、この髪型を突き通す予定。
括っていたゴムを外すと、煙交じりの風になびかれた髪は、胸元で大袈裟に広がり始める。
どうしてだろうね。呟きはちーちゃんにも聞こえてしまったのか、小首を傾げてあたしに目を寄せた。小さな黒目が放つ光は鋭くて、でも本当は生まれたての湧水みたいに澄んでいる。
「ええ? なんでえ?」
家に入ると、宇佐美さんがいた。正確にはお客さん用のロビーにだ。奇声をあげて母さんに怒られる。後退った先で父さんの足を踏んでしまい、やっぱり怒鳴られる。散々だ。
夏季休業を利用して、民宿に泊まりに来たらしい。
先に話してくれればいいのに。あたしの小言は華麗にスルーして、宇佐美さんはいたずらに成功した子供のような無邪気さで、耳打ちをした。聞いていた通り、いい所ですね、と。
その吐息にうっかり痺れてしまったのは、あたしは耳が弱いからだ。……恐らく。




