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メアテボシのあなた  作者: つめ
第三章 社会人篇
46/60

Side.S 二十五の春と、宇佐美さん

***


 高遠くんと七年ぶりに再会したのは、二十六歳になる直前の夏の盛り。

 駅前の温度計とアスファルトの陽炎に心で悲鳴を上げていると、突然肩を掴まれて本当に叫んでしまった。

 覚えのない男の人は、うるせえよ、と馴れ馴れしくあたしの頭を叩く。


「だ、誰?」

「はあ? 高遠だよ。もう忘れちまったのか? ったく、やっぱり馬鹿だな」


 だって頭のブロッコリーを収穫しちゃうんだもん、わからないよ。それに赤点仲間だった高遠くんからの『馬鹿』には、納得がいかない。


 少しだけ近況を報告し合った。高遠くんは結婚をし、すでに子供もいるのだという。姫夏ひめかちゃん、五歳。

 頼む前から見せられた写真の女の子は、真っ黒に日焼けをして、向日葵を連想させる笑みが眩しい。奥さんに似たのだろう。けれどただ一点、渦を巻きワガママに踊る捻転毛だけは、完全に高遠くんの遺伝子だった。

 小麦色の肌も相まってか、日本人離れした風貌になっている。


「あー、ここだけ似てまったのー? よりによって」

「そうなんだよな。中学とかになったら責められっかな」

「絶対責められるよお。ウチの妹、父さんにそっくりで目つき悪いからいつも怒っとったもん」

「マジかよ。縮毛とか考えておいた方がいいか」


 つれーわ。言葉と表情が一致しない高遠くんは、年の瀬には二人目が生まれるのだと言い、姫夏ちゃんと同じ色の顔に皺を寄せた。


 あたしが博物館で働いていると知ると、「咲幸のくせに頭良さげなところで働いてんじゃねえよ」って、本当に失礼。

 それでも高遠くんは、嫁と娘を連れて行くわと約束してくれた。


 懐かしさの中、頭にはふと一つのことが過る。高遠くんは今でも……。

 喉元まで出かかった言葉は、結局引きこもったまま。湿っぽい夏の大気と一緒に体内へ戻し、一瞬でも浮かんだ思考を慌てて掻き消す。


 千國さん。

 直後に遠くから掛けられた声はいつもより荒かった。責められたような申し訳なさを覚えたのは、なぜだろう。


「今の人ね、高校の時のクラスメイトなんだ」

「あ、そうだったんですね。ナンパかと思って大きい声出しちゃいました」


 すみません。あたしの言葉に、彼は恥ずかしがりながら目を伏せる。赤く染まった団子みたいな丸い鼻に手を当てて。

 宇佐美さんは今日も腰が低い。年上なのに敬語を使い、反対に年下のあたしにタメ口を利かれている。不思議な距離感。


 宇佐美さんはあたしよりも一つ年上の、カメラが趣味の男の人だ。初めて出会った日も、博物館にある満開の一本桜を熱心に撮影していた。

 写真を撮る手つきはとても滑らかで迷いないのに、歩き方や鞄を探る動作はたどたどしい。初の名刺交換で戸惑う、社会人一年目を彷彿とさせた。それだからフィルムケースを地面に落としてしまい、あたしが拾ったことをきっかけに話すようになったのだった。


 フィルムカメラ、珍しいですね。あたしの声に、あの日の宇佐美さんも大きな鼻をこすり照れくさそうにしていたのだろうか。忘れてしまったけれど。

 少し風が強く、桜の花弁が大袈裟に舞っていたことは、憶えている。


 翌週もそのまた翌週も、土曜日のお昼になると宇佐美さんは大樹の前に現れるようになった。お昼休みは暇だから声を掛けてみる。

 薄紅色は姿を消し、茂る葉桜が緑風を涼しげにする。幾重にも枝分かれをした木々が作る木漏れ日に、宇佐美さんはレンズを向けていた。


 宇佐美さんが桜の木の下にいると、もう一週間が経ったのか、明後日の休みはなにをしようかな、と自然に考えるようになる。同じ発想をしていた人が、他にもいたのかもしれない。職場では宇佐美さんに「うなぎ」というあだ名がついていた。どうやら土曜と土用を掛けているらしい。ちょっぴり笑える。


 一方で誰が言い始めたのか、「マスオさん」と呼ぶ人もいた。確かに似ている。くりくりとした子供らしい瞳や、穏やかそうな下がり眉、大きな鼻。極め付けは少し古いくさい丸眼鏡。

 けれど紛らわしいから、うなぎかマスオさんか統一して欲しい。……というか宇佐美さんだってば。


 葉桜を雨が濡らす季節が来ても、宇佐美さんは博物館を訪れた。


「こんな日も、撮影するんですね」


 太陽は隠され、木陰も宇佐美さんの影もどこにもない。鉄臭さと生温かな泥臭さを混ぜた匂いは、町中が生命力に溢れる眩しい季節をすぐ連れて来るのだろう。


「庭のタチアオイがてっぺんまで咲いたんです。今年の梅雨明けは、きっと早いですよ」


 霧のような水飛沫を作り出す雨の中、ある日宇佐美さんは入口で立ち尽くしていた。さすがに今日は撮影もできないらしい。


「少し早い夕立かなあ。駅出た時は降ってなかったんだけど、参ったな」


 あたしの顔を見ると、鼻に手を当てながらはにかむ。


「傘、持ってないんですか? お貸ししますよ」

「え? あ。いや、悪いですし」


 当館のサービスですから。そんなことを言ったくせに、貸し傘のストックがゼロで焦る。もとより少ない上に貸したら戻って来なかったりするので、減る一方だ。

 帰るまでに止んでいなくとも私はどうせ車なので、自分の折り畳み傘を差し出した。


「あの、思いっきり名前書いてあるんですけど。千國って」

「えへへ、すみません。来週でいいので返しに来ていただけたら嬉しいです」


 本当に来週で構わないのに、仕事を終えた夕方に館外へ出ると、傘を手にした宇佐美さんが待っていた。一回家に帰り、戻って来たのだという。律儀さに、驚きを越えた笑い声が出た。


「あの千國さん。お礼にご飯を馳走したいんですけど、今夜、空いてますか?」


 翌日、ニュースで例年より二十日早い梅雨明けが宣言された。

 宇佐美さんはお客様から、お友達になった。



 それから毎週土曜日、宇佐美さんと夕ご飯を食べることが恒例になっている。

 話は特別合うわけではない。唯一共通の趣味であるカメラの話題さえ、宇佐美さんの言葉はマニアック過ぎてあたしにはついていけない。

 音痴だからカラオケには行かないらしく、あたしとしては残念だ。喉を傷めたら仕事にならないので、あたしも以前ほどは行かなくなってしまったけれど。


 三度目に食事へ行くころには、あたしはすっかりタメ口になってしまっていた。構わないと言われたから、直してはいない。

 敬語というのが昔から苦手だ。頭が弱い人間に、丁寧語だの尊敬語だの謙譲語などと色々喋らせないで欲しい。全部日本語じゃん、と疲れてしまう。


 仕事中はどうにか気を張っているものの、食事中は脳の細胞が喜んで食事一色になるので、知能指数が二十くらい落ちる。敬語など意識していられない。


 数年前まで近隣の県を転々としていたあたしは、各地の訛りが中途半端に移ってしまっていた。ヘンテコでごちゃごちゃした喋り方が、いまだに抜けない。けれどそれが面白いから、敬語でなくて構わないのだという。


 宇佐美さんの実家は静岡県。東京にある本社からの転勤で、この町へ来たらしい。見も知らぬ、田舎町に。

 あたしがかつて函南町に住んでいたと知ると、どうしてか嬉しそうに「都会ですね」と顔を綻ばせた。そうだろうか。むしろ自然に囲まれた場所だった気がする。


 宇佐美さんは山梨との県境にある、なんとかという小さな田舎町の出身らしい。耳なじみのない町。富士山が綺麗に望める場所だと教えてくれた。


 平均よりもずっと低身長な宇佐美さんは、ずんぐりむっくりとしている。むくんだような手に並ぶ、みっちりと肉厚な指。


「僕、手が小さいことがコンプレックスでして」

「あたしも結構ちっちゃいよ?」


 比べてみれば本当にあたしと大差がなく、驚いてしまう。

 見れば見るほど、宇佐美さんはマスオさんに似ていた。小太りのマスオさん。彼よりも剽軽さはやや欠ける。

 初めてのボケは厚い唇を指して、「このタラコのせいで、昔は『アナゴさん』って呼ばれてたんです」と恥ずかしそうにしたことで、思わずずっこけた。


「そっちい? マスオさんでしょー」

「それは大人になってから、よく言われます」

「あ、やっぱ言われるんだ」


 自分自身が丸めの容姿をしているせいか、あたしは全体的にシュッとした男の人がタイプだ。……って、語彙力低いなあ。三くらいしかないよ、今。

 だから失礼ながら宇佐美さんの容姿に魅力は感じないのだけれど、優しげで温かな雰囲気は安心感をくれた。


 週に一度ご飯を食べながら、他愛ないやり取りを交わす。

 宇佐美さんが中学時代にバレー部を半年で辞めてしまった話や、高校と大学で属していた写真部のこと。

 勤め先は光学機器の製造販売を受け持つ企業らしいけれど、専門的な話は意味不明で混乱した。へえ、すごいねえ、を口にする機械と化す。うっかり欠伸まで漏れかけて、自分の馬鹿さ加減を改めて実感した。


 あたしの曖昧な反応に宇佐美さんは謝ったけれど、あたしとしては今まで関わって来た人達のように「馬鹿だなあ」と流してくれた方が、有り難かった。


 代わりにあたしが話すのは、博物館やプラネタリウムの話と、実家の民宿のこと。宇佐美さんはあたしの終着点を失った話にも、微笑んでくれる。


 土曜の朝は目覚ましよりも早く目が覚め、部屋に光を多く感じた。カーテンレールが小気味良い音をたてるせいか、心が浮き立つ。運動会や遠足の日の朝に、少し似ている。

 だからもしかすると、あたしは宇佐美さんに惹かれているのかもしれない。

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