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メアテボシのあなた  作者: つめ
第三章 社会人篇
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江戸彼岸と蝉の声

 足早にドームを後にした俺は、ロビーも抜けて館外へ急いだ。タイル張りの外壁に隠れ、入口に視線を送る。

 しばらくすると咲幸が出てきた。内外の気温差にやられたのだろう。よろめいて数センチの段差から滑り落ちていた。

 忙しなく視線を動かしながら、敷地内をうろつく。


 咲幸は気が付いたのだろうか、俺の存在に。

 先ほど開きかけた口は、健一くんと繋ぎたかったのだろうか。

 頼りない足取りは、俺を求めているのだろうか。


 ねっとりと肌に貼りつく湿風は、汗をさらわない。疎ましさすら残していく。

 それでも咲幸は揺れる髪を押さえながら、あたりを走り回っていた。体育の授業から変化のない、おかしなフォームで。


 あの後ろ姿に、声を掛けたい。咲幸、と名前を呼びたい。

 俺の声に振り返った彼女は、表情に花を咲かせ瞳に光を宿すのだろうか。

 デートのたびに駆け寄ってきてくれたあのころと同じく、髪を風に躍らせて側に来てくれるのだろうか。

 犬の尻尾のような髪の毛は、随分と長くなってしまったけれど。


 自由な波を思わせる髪はやはり先端だけ渦を巻いたまま、左後ろで束ねられ肩から脇に流されていた。昔咲幸が口にした通り、毛先はブロンドに近い明るさをも交えている。

 結った髪を解けば、ちょうど胸元あたりで広がるのだろう。

 すげえいいなあの髪。思わず口にした独り言は、外の喧騒に打ち消された。


 濃紺のTシャツはサイズが小さいのか胸を強調し、ふくらみの上では紐の短い社員証が跳ね続けている。

 邪魔だと感じたのか、煩わしげに社員証を外した咲幸が、忙しなく道路の方へ駆けていく。城郭の名残を持つ城門をくぐり、やがてその姿は敷地外から消えてしまった。……仕事中じゃないのかよ。


 俺を追いかけて行ったのだろうか。馬鹿げた妄想に憑りつかれる。

 そんなわけはないだろう。よく考えれば、時間的に昼休みだ。


 彼女のいなくなった敷地内で、肺の中を空にするまで息いて吐き座り込んだ。中年夫婦が訝しげな視線を送りながら通り過ぎていく。

 俺はポケットから携帯を取り出し、数日前に交わしたやりとりを再確認する。馬鹿げた妄想は止せ。


 俺は知っている。咲幸にはもう、新しい恋人がいるのだろう。

 高遠と浦山とメッセージを交わした日。俺を抜きに続いていた会話を辿ると、高遠がそれらしいことを仄めかしていた。


 高遠と再会した時、咲幸は駅前で男と待ち合わせをしていたらしい。

 『太ったマスオさんみてえな冴えねえ野郎だったけど、まあいい奴そうではあったなー』とのことだ。

 どんな奴だよ、と言いたいが、想像は容易だった。今ちょうど外のトイレから出てきたカメラを抱えた小太りな男も、マスオさんみたいな顔をしている。つまりはどこにでもいる、穏やかで平凡な顔つきの野郎なのだろう。


 咲幸の恋人。普通に考えれば当然のことだ。あれから六年もの歳月が流れ、俺も幾人もの女と関係を持ち結婚までしているのだから。咲幸だけが変わらずに生き続けるはずがない。


 可愛くて優しく、アホだけど真面目で一生懸命で、いつだって真っすぐに人を愛せる奴だった。男がいない方が不自然だろう。咲幸が俺以外の人間に好意を寄せ、結ばれることを憂うことすら、俺にはおこがましい。


 それでも胸には、鉛のごとく重さが埋まる。

 燦々と差し込む太陽から、地面に沈みかける俺を隠してくれる大木。力強く太い幹は、箒状に枝分かれを繰り返し空を目指していた。

 二十メートル近くにも達する、大きな一本桜。樹齢四百年を超える市内随一の名木らしく、春には薄紅色の花を一面に咲かせる。


 高校三年生の春に、一度だけ咲幸と見に来た。

 樹高も樹齢も名称も、この町では叶わないけれど彼岸のころに花をつけるためついた種名も、すべて咲幸が教えてくれた。


 また一緒に見に来ようね、無邪気な咲幸の微笑みを思い出す。当たり前のように『また』は存在するのだと疑わなかったが、地元にいなかった翌年は時期を逃して、結局機会は訪れなかった。

 そんなことばかりだ。叶わなかった『また』と『いつか』が、胸の奥で覚めない眠りについたまま。


 町に溢れる蝉の声は、世界の喧騒と混ざり合い俺を包む。

 あの日もそうだった。初めて、彼女とこの場所に立った夏。大きな木陰の下で、一息を吐く。


 蝉うるせえ、しゅわしゅわしゅわ炭酸かよ、と俺は悪態も飛ばした。すると咲幸はうっとりと目を細めるのだ。「蝉ってねえ、食べられるんだって」と。本当に食べること好きなのな、呆れながら俺も声を上げた。


「健一くんに、これあげる」


 唐突に咲幸は、鞄の中から一本の缶を取り出す。タオルが巻かれ、間に挟まれた保冷材はぐにゃぐにゃに溶けている。アルミ缶の赤い外装、俺の好きな飲み物だ。


「ウチにちょうどあってね、来るときに思い出したの。そういえば健一くん、好きだなあと思って。でも渡しそびれてて、もうぬるくなっちゃったね」


 言うように、真夏の陽気にやられて冷たさはどこにもない。けれど生温いコーラは一気飲みには最適だ。

 コーラが好きなどと、いつ教えただろう。疑問を抱きながら、カシュっという小気味よい音で答えを導く。


 飴玉を貰った時だ。好きな飲み物ってある? と訊かれたことがあった。俺はコーラだと答えた。開けるときの音が好きだから、ペットボトルより缶がいいのだと。

 こだわり派だねえ、と茶化したあと、いつものように一つのお返しをくれる。


 彼女は紅茶のストレートをよく飲むのだという。紅茶花伝派だけど最近はストレートを見かけないから、午後ティーに浮気中だと教えてくれた。

 何年か前にストレートティーの再販が決まったらしいから、喜んだのだろう。


 ああ、どうして今、思い出してしまうのか。すべては蝉のせいだ。

 咲幸はなんでもかんでもすぐ忘れる馬鹿な癖に、俺のことはどんなに小さなことでも覚えていた。

 朝は白米派だとか、味噌汁はじゃがいもとわかめが好きだとか。下着はトランクス派だとか、よく考えればセクハラな質問じゃねえか。それでも俺は引き換えに彼女の下着話が聞けるのかと期待して、意気揚々トランクス! と答えたのだが、「ウチの父さんもトランクスだってー」といういらん返答を得ただけで萎えた。オッサンの下着事情など知ってどうする。


 日々の合間に漏らした俺の情報を全部記憶していて、ふとした瞬間に呟くのだ。

 健一くん、これ好きだよねえ。と。

 よく覚えてるな。ある日感心すると、なんでもないようなことのように彼女は答える。


「だってほら、言ったじゃん? 好きなもののことはすぐに覚えられるし、忘れないの」


 先生が告げた小テストの存在はもう遥か彼方に飛ばしたのに、本当にあいつは馬鹿。

 思い出に感傷的になってしまうのも、やはり蝉が悪い。

 絵の具をぶちまけた青空も、そびえる一本桜も、あの夏から変化のない何もかもが悪い。


 俺は不意に、いつか咲幸を嫁に貰う男を想像した。件のマスオになるのか違うのかは知らないが、そいつはうんといい男であることを願った。デブだろうがハゲだろうが、咲幸が受け入れていれば容姿は問わない。


 ただ、あいつのことをとても大切にしてやれる、底抜けに優しい奴がいい。幸福を分かち合い、時に苦しみに寄り添って欲しい。泣かせたり悲しませたりしたら俺は許さない。もちろん浮気なんてする奴は論外だ。

 真面目に働いて、多少の煙草と酒は見逃しても、ギャンブルはいけない。


 あいつは料理が苦手なようなので、あまり飯にケチをつける男も可哀想だろう。子供が生まれたら子煩悩で、年一くらいは家族旅行に連れて行ってくれる家族想いな奴。健康で長生きして、できるだけ多い時間、彼女を愛してあげることのできる奴。……でも一番は。


 南中した太陽は俺の中の水分を奪い、カラリと音が鳴りそうな喉から、乾いた笑い声が漏れる。蝉の合唱に混じらず晴れた空に掻き消えた。

 でも一番は、俺ならいいのに。


 認めた瞬間に壊れた。亀裂が入り、崩壊する音が響く。あれを押さえ込んでいたものが、弾け飛んでしまったのだろう。


 大学四年の夏から、俺は変われてなどいなかったのかもしれない。

 咲幸のことは脳内から綺麗さっぱり流して、などと決意したわりに、やったことといえば咲幸という存在を厚い段ボールの箱に押し込めただけ。ぐるぐると幾重にもガムテープを巻き付け、中身がうっかり零れ出てしまわぬように厳重に封をした。脳の隅に追いやり、これで大丈夫だと安堵したけれど、封印はあっさり解けてしまう。


 彼女の声を聞いただけで、その顔を見ただけで封はあっけなく吹き飛び、箱はもろく崩れた。押し込めてあった想いはなぜか三年の内で増大し、俺の頭の中心に腰を据える。

 堪らなく彼女と歩む未来を欲してしまう。


 足を動かせば、声を張れば、望む未来を掴めるのだろうか。

 ポケットに入れた左手、その薬指にある感触を親指で確かめて乾いた咳をした。脳内で自分を殴りつける。

 今まで幾度もあったチャンスを、その度に逃して来たのは誰だ。恐れたのは俺だ。もう、間に合うわけがないだろう。


 ああ。結局俺は、今でも咲幸が好きなのか。

 あの夏の日に、俺は心を置いてきた。

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