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メアテボシのあなた  作者: つめ
第三章 社会人篇
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君と天を見る

 咲幸が夢を叶えた。

 偶然知った事実から唐突に芽生えてしまった名付けられない感動は、宇宙に生まれた生命と同じくやがて数を増やし、俺の心を埋めていく。


 咲幸に会いたい。その感情に支配されるまでに時間はかからなかった。

 六年間も連絡を躊躇っていたことが嘘のように、気付くと俺は出張だと偽り、地元へ向かう特急列車に乗っている。足は一直線に高台の博物館を目指した。


 入口すぐに置かれたホワイトボードには番組表が並び、今日のスケジュールが張り出されている。彼女が休みであったらどうしようかという問題も、杞憂に終わったようだ。直近の『解説者』欄には、千國と書かれたマグネットが少し傾いたまま貼り付けられていた。


 本当だ。疑っていたわけではないが、改めて実感する。

 後から来た年配夫婦に声を掛けられるまで、俺はホワイトボードの前に立ち尽くし、その名前を見つめ続けた。


 顔を隠すため深く帽子を被る。入社してから途端に視力が落ち、普段はコンタクトだが今日は眼鏡。黒縁のハーフリム眼鏡を垂れさがる前髪で隠し、ドームに入った。


 前から四列目の一番中央に近い席。隣には投影機がまるで大黒柱のように、威圧的な重みを放つ。

 見やすく星のゆがみが少ないのだと、咲幸が気に入っていた席だった。

 休日でありながら相変わらず客層は親子連れと年配者のみで、それも以前よりだいぶ減った気がする。経営は大丈夫なのだろうか。


「大変長らくお待たせいたしました」


 ドームに響き渡る声に喧騒が和らぐ。もう長い間耳にしていなかったその声が、ふわりと自然に心に入ってなじんだ。


「……それでは、十一時からのプラネタリウム投映を始めるにあたりまして、まず場内のご案内を申し上げます」


 まだ星空どころか、出口がどこだの飲食は禁止だの注意事項しか話していないのに、俺は鼻の奥につんとする痛みを覚える。

 暗くなるドーム内。ゆったりとした曲調のクラッシックとともに、やがて茜色だけを残し太陽は堕ちていく。薄暮、浮かぶ月の解説。言葉数は少ない。


 ちょうど俺の後ろにあるコンソールで、咲幸は同じ天を見ているのだ。あの機械音痴だった咲幸がいくつものシステムを操作しながら、憧れ続けた操縦席でこの星を映しているのか。

 この広がる天に、命を吹き込こんでいるというのか。


 今の気持ちを表現する言葉を、俺は持たなかった。

 落ち着いた涼しげなアルトが、ドーム内に満ちてゆく。北の空、方角の説明、北極星の探し方。夏の夜に浮かぶ星々にまつわる物語。


 相変わらず咲幸の話す日本語は易しく、シンプルでわかりやすい。

 時々挟む少し抜けたジョークや澄んだ歌声は子供向けなのかもしれないが、彼女らしさが出ていた。


 きっと咲幸はここにたどり着くまでに、膨大な時間を勉強に費やしたのだろう。好きだった星のこと、天文や地学。資格を取るための基礎的な概論。文理すら存在しない高校で生きていた彼女が、物理を勉強している姿はもはや笑えすらした。


 伝え方や魅せ方。読む・書く・語る、そんな根本的な学習まで、普通よりも劣っていたあいつは、きっと並でない努力を重ね続けたのだろう。あの日語った夢に、たどり着くために。


 ふいに俺は右手を伸ばした。昔と変わらない座席の、肘置きの上に。手はただ空を掴み、あてどもなく彷徨う。いつだってそこにあったはずの、あの温かな手はもうどこにもないのか。もみじのような小さな手のひらが、俺の手に重ねられることはもう二度とない。


 俺の隣に咲幸がいないことなど、何年も前からわかりきっていたはずなのに、どうして俺は今更なにかに触れられると期待したのだろう。俺の右手は、なにを探しているのだろう。


 わずかな瞬きの間に咲幸と過ごしたプラネタリウムが蘇る。宇宙を見据える輝いた瞳。耳元で囁くこそばゆい俺を呼ぶ声。幾度も重ねた手のひらの熱、触れた柔らかな唇。夢を語る、咲幸の横顔。


 咲幸が映す星が歪む。

 ああ、もうこれ駄目なのかもしれない。目を伏せて、夜に沈んだ。



 咲幸が解説を終えた後の映像番組はほとんど記憶になく、気が付くとドーム内に明かりが灯っていた。

 お忘れ物や落とし物のないよう、お気をつけてお帰り下さい。

 彼女の声とともに出入り口が開き、観客は席を立つ。



 俺はしばらく座り込んだままでいた。全身の力が抜け、立ち上がり方すら忘れてしまった虚脱感に襲われる。

 まばらだった客もほとんどが出口周辺に集まり、席にいる人間は俺だけだろう。

 ようやく腰を上げた俺は、それでも未練がましく後ろを振り向いた。帽子のつばを強く握る。


 一目だけでいい。願いを胸に顔を上げた先に、その光はあった。コンソールに立つ顔は誇らしげで、充足に満ちた目を来場客に送る。

 決して彼らは振り向かない。けれど咲幸はいつまでも柔らかな笑みを絶やすことなく、頭を下げ続けていた。


 咲幸。たった数歩の距離が詰められない俺は、音もなく彼女の名前を口にする。その声が届いたかのように、咲幸の頭がゆっくりと角度を変えた。

 視線は、いまだ席を離れないひとりの客の元へ向かう。


 時間が止まった。喧騒も消え、周りのすべてが削ぎ落される。ドームには、俺と彼女、二人だけが残された。

 ああ、と声が漏れてしまったのかもしれない。

 くっきりと引かれた二重線、長いまつ毛に縁取られた大きな瞳はさらに広がり、相変わらず口は半開き。


 咲幸は確かに俺を見た、目が合った。前髪で、帽子で隠された奥にある、俺の目と。

 彼女の口が形を作ろうとした。気付けば俺も震えだしてしまいそうな足を、踏み出そうとしている。もっと近くで顔を合わせたい。


「千國さーん、ちょっといい?」

「え、あ、はい。なんですか?」


 俺たちの空間を破る声に、足が止められてしまう。俺はハッと目が覚め顔を背ける。なにをしようとしていたのだ。


「すぐ済むことなんだけど」


 奥へと姿を消す後ろ姿を見守ると、全身を支えていた気力が奪われ、倒れ込むように厚みのあるチェアに身体を埋めた。


 ああ、咲幸だった。今更なにを言っているのか。

 高遠が教えてくれた通りほとんど顔に変化はなく、きっと今でもお酒を買えば、身分証の提示を求められてしまうのだろう。


 アホで緩くて、穏やかな春の陽気をいまだに纏う彼女。化粧でそれを隠しても、わずかにした背伸びに気付けてしまう無垢な雰囲気。

 一方で、立ち振る舞いにはどこかこっくりと落ち着いた色もちらつかせていた。大人になったのだ、咲幸もまた。


 六年の歳月で、なんて美しい年の重ね方をしたのだろう。


 夢叶えたんだな、おめでとう。頑張ったな。側で支えてあげられなくてごめんな。彼女に届けたい言葉は両手いっぱいに溢れるけれど、どれもきっと口からは出てくれない。

 それでも俺は、一つの想いを伝えたいと望んでいる。

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