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メアテボシのあなた  作者: つめ
第三章 社会人篇
43/60

たどり着いた場所

 きっかけは、些末なことだった。


 社会人になり四年目、二十六歳の誕生日を目前に俺は結婚した。二年前から同棲を始めた、絵美とだ。

 放出する結婚したいオーラは日増しに濃くなり、押されるように踏み切った。ダラダラ同棲を続けていても仕方ねえもんな、というけじめみたいなものもあったのかもしれない。


 惰性というわけでは決してなかった。そう思いたい。

 絵美のことは普通に好きで、DVDの同じ箇所で声を上げて笑えるような仲でもある。残念なところを挙げるなら、魚介類が苦手なため食卓にはエビフライが出ない点くらいか。

 付き合い始めた当初から、定期的に前髪の散髪を促してくるのは正直鬱陶しい。


 それでも「式さあ、親の援助とか貰えねえから来年くらいになってもいいか?」と訊くと二つ返事で了承をして、「っていうかやんなくても別にいいよ」と答えてくれるありがたい奴だった。

 さすがに多少は憧れがあるだろうと、貯金額を増やし始めた。そんな時分。


 高遠と浦山に結婚報告のメッセージを送った。

 半狂乱でスタンプを連打して祝福してくれた。あの瞬間、俺も直接会って伝えたかったな、という気分にさせられた。高遠の時みたく酒を吹きかけられながら、手を叩いてもらいたかった、と。


 近況報告を交わすうちに、ふと思い立ったかのように訊いてきたのは高遠だった。


『そういや健一、咲幸と連絡って取ってるか?』


 咲幸。久しく目にすることもなかった文字だ。それなのにどうしてだろう、心は刹那に乱される。

 いや、取ってない。俺の返答に、だったら知らねえかと前置きをして、高遠は幾度にも渡りメッセージを飛ばした。分割しないで一度に送れよ、とじらされたけれど、表示された文字に文句の言葉は消える。


 この前、駅前で咲幸に会ったんだよ。あいつ俺のこと忘れてやがってな。そんなことはまあ、どうでもいいんだけど。あいつ、春に地元に戻って来て、博物館で働いてるんだと。あのクソ馬鹿の咲幸のくせにな。


『プラネタリウムの解説員、やってるんだってよ』


 最後の一文で、カチリとなにかのスイッチが入ってしまったのかもしれない。

 続けて送られてくる鳥のような物体が驚いているスタンプ。余計なものを送って来るんじゃねえよ、と思ったら浦山の方だった。


 プラネタリウムの解説員。その単語を反芻する。


「あたしね、プラネタリウムの解説員になりたいんだ」


 あの、涼風のような声が脳裏を過る。


 17才の夏、初めてのデートで訪れた博物館。満天の星空を見終わったあとに、咲幸が呟いた夢。たった一度だけ零した弱音を振り払い、ひたすらに目指して来ただろうその場所に。

 咲幸は、たどり着いたのか。


 その事実に俺は、自分でも想像し得なかったほど心が揺さぶられていることに気が付いた。襲い来る嵐のような激しさが胸の中心で渦巻く。どう反応してよいのかわからず、本能的に打った文字は「写真ねえの?」というアホ丸出しな一言。


『あるわけねえだろ、馬鹿』


 あたりまえの答えが帰ってくる。


『ハギおまえ新婚じゃねーのかよ』


 携帯を片手に、二人の下品な笑い声がディスプレイから響いてきそうだった。


『顔は全然変わってなかったな』


 学生時代より胸でかくなってんのに、いまだにパイスラやってんの、あいつ。誰か注意する奴いねーのかな。やべーぞあれ。

 相変わらずの高遠にお決まりの死ねを投げつけ、俺は携帯を置いた。


 咲幸、おまえは今どこでなにをしているんだ。いや、博物館でプラネタリウムの解説員をしているのだろうけれど。

 一度スイッチが入ってしまうと、押し寄せる波のごとく咲幸の存在が頭に満ちていく。


 その後もくだらない会話を続ける高遠と浦山を無視して、パソコンを開いた。一かけらでもいい、咲幸のなにかを手にしたい。彼女の今を、知りたい。

 SNSとかやってねえのかな、という安易な考えで検索窓に名前を入れた。

 千國咲幸。咲幸は一発変換されずに、さきゆきと打ち込む。


 検索結果の一ページ目トップに表示されたのは、フェイスブックのプロフィール。半信半疑でクリックをすると、名前の下に書かれているのは俺たちの出身高校だった。あの、動物園みたいなアホ高校。

 同姓同名ではなく、咲幸本人で間違いない。


 どんな投稿をしているのか気になるが、これ以上先に進むにはログインが求められる。俺は仕事以上のタイピング速度を発揮して、速攻で会員登録を済ませた。

 煩わしい設定を飛ばして表示させた咲幸の投稿は、全体的に紺色めいている。最後の更新は二日前、一面に広がる星空が写っていた。


『ちょっとずつ秋の星座が混じり始めた空。秋の星座をめぐるポイントは四つの星からつくる四辺形だよー』


 気の抜ける、咲幸らしい語り口調の一文を、俺は過剰に顔を近づけて凝視した。

 咲幸の投稿はほとんどが天体写真。星の解説や感想が並ぶ素朴なものだ。どこにでもあり、きっと誰も注目してはいないのだろう。

 コメントも、いいねもない。


 あいつは高校時代、バイトをして買ったカメラをぶら下げていた。

 「一眼レフだよお。操作よくわかんないけど」って、アホ過ぎるだろうと呆れたが、手にした取り扱いガイドには几帳面に付箋が貼られていた。説明書は読み込むタイプらしい。たまに漢字が読めないと検索していた。


 宝石を散りばめたかのようなこの空も、きっと本格的なカメラで写したものなのだろう。


 合間合間に日々のとりとめもない投稿が続く。

 『神社にいた猫ちゃんが靴下模様~』とか、『ベランダで育てていたトマトの形が変』とか。本当に些細なこと。

 星を愛する咲幸は、自然も好んでいた。彼女自身が咲く花や流れる大気のように、世界に溶け込む人だったからかもしれない。


 ああ、付き合っているころにこういうノリでたまにメールを送って来ていたな。投稿はいつも語り口調で、きっとメールとSNSの区別がついていないのだろう。


 咲幸は作文が苦手だと公言していた通り、毎回書き込みは簡素だった。

 フェイスブックなのにフェイスないのかよ、とツッコミ。咲幸の顔写真は一枚もなかった。交友関係についても、全く触れられていない。


 スクロールを重ね、咲幸の生きた日々を辿る。五年以上会ってもいなければ顔も見ていない、声も聞いていない元彼女の生活を覗くことは、罪悪感を抱かせた。

 ストーカーかよ、俺。呆れ返るけれど、手は止まらない。


 ありふれた日々を伸びやかに生きる彼女が、この世界に居る。咲幸の声が聞えた気がした。ねえ、健一くん。あの甘い響きで、綴られた文字たちが再現される。

 いつの間にか俺も頭の中で彼女に答えている。……ストーカーより質が悪い。


 やがて最初の投稿である、今年の春先まで遡っていた。どうやら始めて日は浅いらしい。

 目に入るのは、就職、の単語。


『やっと正規の学芸員として就職できたよー笑 博物館のプラネタリウムで働くことになりました! 早く生解説を任されるようにがんばろー!』


 七年の就職活動は『笑』どころの騒ぎではない。ただ俺は、笑えてしまった。乾いた声が鼻を抜ける。

 ああ、そうか。咲幸はここまで来るのに、七年の月日を費やしたのか。俺が無軌道のままに大学生活を送る間に。ブラック企業で、精神と時間を消耗させ続けている間に。

 あいつはただ一つの場所を、目指し続けたというのか。

 描いた未来予想を辿り、いつの間にか咲幸は夢見た場所にいた。


 学芸員という資格を有する大半の者は、大学の履修により手にしているのだと以前咲幸が教えてくれた。彼女のように認定試験を経てまで資格を得る人は稀であるらしい。合格率こそ低くないが、試験を受ける多くは学士取得者になるそうだ。


 高卒である咲幸はそもそも、受験資格を満たすまでに時間が掛かったのではないだろうか。

 資格を得たところで就職できるとは限らず、少ない椅子を奪い合うライバルたちは教育機関で専門的に学んでいた人間。

 そんな中で、あいつはたどり着いた。


 なにより、壊滅的に馬鹿だったあの咲幸が。小学生と張り合う学力で、毎日のように大喜利大会を開いていた高校時代(あのころ)。学年一馬鹿で、赤点ばかりで怒られて、いつだって「クソ馬鹿」と嘲笑されていた咲幸が、掴んだ。


 幼いころから抱いていた夢を、叶えたのだ。


 徐々に目頭が熱くなる感覚は、久しぶりだった。

 あいつはこの場所にたどり着くまでに、一体どれほどの努力を重ねたというのだろう。その一かけらさえ、俺は知ることができなかった。ずっと応援するなどと、誓ったくせに。


 鼻の奥に染みる痛みを味わいながら、俺は続きの文を読む。珍しく初日だけは長文なのか、数行の空白行を挟み投稿が途中で途切れていた。『もっとを読む』をクリックし、全文を表示させる。


 映し出された文章に、変な声が出た。およそ文字に起こせない。息を飲みこんだのか吸い込んだのか、吐きだしたのかもわからない声ともとれない音。

 最後にたった一行だけ書かれていた言葉。


『特別なこの場所で、これから働けるんだね』


 うれしいな。

 撃ち抜かれたのか。いや、鈍器で殴られたのかもしれない。そう違う熱が身体に走り、衝撃は俺を殺めようと牙をむく。血管が破けてしまうほど滾る血液が、全身を駆け巡った。


 最初から気が付いていた。高遠は今でも地元にいるわけで、あの町の近くにプラネタリウムは一つしか存在しない。だったら答えは考えるまでもないだろう。


 咲幸の働いている場所は、俺たちが初めてのデートをしたあの博物館だ。初めて手を繋ぎ初めて唇を重ねて、何度も何度も足を運んだ、あの星空が広がる場所だ。17才になる夏、プラネタリウムの解説員になりたいという夢を咲幸が打ち明けてくれた、あの場所だ。

 特別がなにを意味するのか勝手に察した俺は、ただの馬鹿野郎だろうか。


 なあ咲幸。なにをやってるんだよ、おまえは。

 俺との思い出ばかりがたっぷり詰まったその場所で、どうして働く気になれたんだ。本当にいいのか? 本当に嬉しいのか?

 おまえが愛想をつかした、クソみたいな浮気野郎がいつだって隣にいた場所なんだぞ。

 そんな所を職場に選ぶなんて、頭がどうかしているんじゃないか。さすがにもっとあるだろう。おまえは本当に馬鹿なのか?


 幾度も俺と眺めた星々を、どんな瞳で見つめているんだ。どんな声でなぞるんだ。どんな心で、その天を旅するんだよ。

 いまだにそこを『特別』だと言うのなら、どうしておまえはあの日、俺を振ったりしたんだよ。


 おまえはなにを考えているんだ。なあ咲幸、教えてくれ。俺は……。


「健一ーお風呂出たけどー。……って、なにやってるの?」

「なんでも、ねえよ」


 掛けられた声で現実に戻り、ふと死にたいとすら願った。光輝く銀色を左手に携えて、俺はなにを考え始めたのだろう。

 ああ、もう戻ることなんてできねえじゃねえか。悪態をついて呆れた。戻るという選択肢を幾度も捨ててきたのは、俺自身だというのに。


 ブラウザとパソコンを閉じ、一緒に目も閉じた。


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