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メアテボシのあなた  作者: つめ
第二章 大学生篇
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第三の選択肢

 広崎絵美とのきっかけは、プラネタリウムだった。観る方ではなく、歌の、だ。


 彼女は俺よりもずっといい大学を出て大手企業に勤めていたものの、求人詐欺を原因に三カ月で会社を辞めたらしい。再度就活をする一方で、以前働いていた俺のバイト先に出戻りをしてきた。

 二度目の入社時期からすると後輩にあたるけれど、実質的な立ち位置は先輩。仕事がやたらと早く年上でもあったため、広崎さんと当時は呼んでいた。


 バイト仲間を集めて、職場のカラオケで飲み会を行った時だ。

 流れ出したメロディと歌声に、思わず顔を上げた。


 『プラネタリウム』――それはカラオケに行くといつも必ず歌っていた、咲幸の十八番曲。『気まぐれロマンティック』を甘々な声で奏でる時もあったが、夜空のような涼しげな雰囲気を漂わせて歌うこの曲の方が、俺は好きだった。


 絵美の歌い方が、その声が、記憶にある咲幸のものと重なりただ聴き入った。

 地声が似ているわけではない。しかし咲幸は歌声の音域が広く、時にだいぶ低く落ち着いた声を響かせる時もあったので、似通って聴こえたのだろう。


「あたしもねえ、小学校のころはいきものがかりだったの。『勉強はできないけど、エサくれと水くれは上手いなあ』ってみんな褒めてくれたんだよ」


 デンモクをいじりながらピコピコと音を立てる、咲幸の声が蘇る。

 ああ、咲幸の歌声が聴きてえな。歌声どころか普段の声ですら二年耳にしていないというのに、そんな気持ちに駆られた。


「広崎さん、歌声はいい声してますね」


 歌い終わった彼女に告げる。


「歌声はってどういう意味よー」


 叩かれた、マイクで。いてえよ、と文句を零したかったが、当時の彼女はまだ先輩の色が強くて我慢した。


 あれが始まりだったのだろう。

 シフトが被ることは多くなかったが、一緒になるとそれなりに親しく話をした。

 頭の回転が速く姉御肌な風貌から後輩に頼られ、暇さえあればドリンクバーを飲んでしまう奔放さには手を焼いていただろうが、仕事ができるため上の人間にも好かれていた。


 姉貴、という印象は、付き合いが長くなった今でも実は払拭できていない。

 あまり愛想のよくない俺と共に、よく客の前で頭を下げてくれた。


 そしてある日、彼女に告げられたのだ。ねえ、付き合わない? と。随分、軽い調子で。

 バイト終わりに煙草をふかしながら短い髪をかき上げて放つものだから、夕飯かなにかかと勘違いする。明らかに「ふー、やれやれ終わった。一杯どう?」というニュアンスの方が色濃かった。


 そのため、どこっすか? と飲み屋の場所を尋ねると、切れ長の目を吊り上げて、もう馬鹿! とバッグで殴られた。やっぱりいてえよ、とは言えない。


 誤解が解けたあとは、即決で断った。

 俺コロリ未遂女――もとい元カノのせいで、俺は女性不信気味であり、その反動か心は余計に咲幸を求めていた。


「あ、そう? まあ来年もここにいるだろうから、気が変わったら言って」


 待ってるかも。彼女は落ち込む様子もなく、依然軽い態度で去っていく。

 この人、就活する気あんのかな。

 訝しむ俺の視線に気付いたわけではないだろうが、絵美は踵を返して俺の前に戻って来た。


「じゃあさ、試しに付き合うってのはどう? 会社の試用期間的な?」


 どうにも俺の周りには、変な女が集まる気がしてならない。なにかおかしなオーラや匂いを発しているのだろうか、俺は。


 どうでもいいや、めんどくせえ。経験上三カ月も付き合えば振られるだろうから、投げやりに頷く。

 倫理観なのか貞操観念なのか、はたまた人格なのか、どこかが狂っている自覚はあった。


 しばらくして、俺もついに人生の岐路を迫られる時期になる。

 就職か進学か。それに関しては大して迷うことはなかった。

 いつの間にか大学で成績優秀者に名を連ねてしまっていた俺は、ゼミの教授から院への進学も勧められたが断った。

 勉強は嫌いではなかったが、空白を埋めようと目の前にあるものに取り組んでいたに過ぎない。学術的探究心などとは無縁で、興味もなかったからだ。


 就活、あれが恐らく最後のチャンスだったのだろう。

 俺の中に選択肢が三つあった。一つは千葉に就職して、この地に腰を据える。もう一つはいわゆるUターン就職で、地元に戻るというもの。


 そして最後の一つが、咲幸のいる土地で就活をするというものだった。

 いや、最後だけはおかしいだろと自分で幾度もツッコミを入れたのだが、あのころの俺の中には明確な一つの選択肢として存在したのだ。


 咲幸ともう一度やり直す。

 お試しで付き合い始めた絵美とは、最早正規の交際と違わない仲になっているくせに、どうしてか俺は意味不明の第三の選択肢をぶら下げていた。


 最終的に、無難に千葉で就職した。

 就活が楽で、流されるようにこの地に落ち着いてしまったというのが正しいのだろう。


 結局俺は動けなかった。言い訳はいくらでも並べられるけれど、一番はやはり拒絶への怯えだったのかもしれない。

 咲幸に連絡をして拒否されたらどうしようか。謝って許してもらえなかったら、そもそもあいつに新しい恋人ができていたら。「無理」という決定打を打たれたら、俺は生きていけるのだろうか。

 どうしようもない腰抜けだ。踏み出すべき一歩を、逃げる方向へと踏み出した。


 一方で、常に自信の欠如に苛まれていたせいもある。 

 一つの場所を目指してがむしゃらに生きているだろうあいつと、俺は対等でいられるのだろうか。

 四年の月日は俺に夢を与えることもなく、漫然と過ぎ去り、一層俺を臆病にさせた。いつまでも傷心のまま抜け殻のように生きる俺を目にして、咲幸はどう感じるのだろうか。


 客観的に見て、当時の自分は吐き気がするほどみっともなかった。薄っぺらい男で気持ちが悪く、どうかしている。

 未練だけを引っ提げた成長のない男が、浮気という前科を謝罪しながら復縁を迫るのか。その行為自体が新たな罪だ。受け入れてもらえるわけないだろうが。


 咲幸のことを引きずるほど俺は情けない人間になり果てていく。いい加減未練がましい自分と決別して、自身を受け入れたいと望んでもいた。

 さすがに依存が過ぎている。彼女のことは脳内から洗い流し、俺は俺の人生を生きるべきなのだろう。

 わずかに前向きな決意とともに、俺は第三の選択肢を捨てた。


 俺は俺なりに生きがいを見つけ、なにかに必死になれる人生を歩んでいく。その第一歩目が、咲幸を吹っ切ることになった。

 内定を取った日に俺は咲幸の連絡先を消し、自分の番号も一新した。馬鹿みたいにシャッターをきった彼女の写真だけは、どうしても消すことができなかった。小さなカードに残して、今も引き出しの奥底に眠らせてある。


「今更っすけど、ちゃんと付き合います?」


 絵美に返事をし、俺は咲幸と交わらない道を行くことを決めた。


 ようやく終わったなと、重い荷物を降ろした気分を味わった大学四年の夏。もうずっと前に終わっているくせに。独りごちながらも、決意を新たにした。晴れ始めた心が、世界を明るく捉えていく。


 咲幸のことは、切なくも甘酸っぱい青春の思い出にしていこう。ずっと年を重ねたいつか、心の奥底に仕舞いこんだ記憶の箱を広げると、宝石のごとく煌めいた日々が顔を出す。眩さを懐かしみ、「最高の青春を過ごしたな」と微笑むことができるように生きていこう。


 正しい選択をしたのだと信じていた、あのころは。

 実際にその時から四年は、人並みの幸福を抱きながら暮らしていたのだと思う。

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