触れた星々
七歳年下の彼女は、小さな学習塾に通う中学一年生。
大学一年から二年にかけて俺は塾講師のアルバイトをしており、つまるところ職場の生徒に手を出したというわけだ。
数ヶ月前まではランドセルを背負っていた子供であることは理解しつつも、俺は無意識に、彼女を目で追っていたのだろう。変な噂を立てられ、塾長にも釘を刺された。
裏で煙草を燻らせていると、いつしか彼女はいたずらめいた表情で声を掛けてくるようになる。
「せんせー、あたしのこと好きなんですかあ?」
読者モデルをしているらしく、いつも派手な格好が目立つマセガキだった。塾なんて制服で来い。面倒なので無視を決める。
似ていたのだ。風になびく自由で緩やかな髪の毛が。光を受けて明るく輝くその栗色が。……咲幸と、よく似ていた。それだけだ。
中坊のくせに彼女の頭は染め毛で、癖もパーマのものらしい。それでも俺ははぐれた綿菓子のような髪から目が離せず、ある日彼女からされた告白を受け入れた。咲幸と別れてから一年が経とうとしている、年の瀬だった気がする。
「先生、いつもあたしの髪触ってますよね?」
フェチなんですか? からかうような微笑を浮かべる。俺も笑おうとして失敗した。口の端だけが歪み鼻から息が抜ける。
隠れるように続けた彼女との交際は、俺が居酒屋で予言した通り、春を迎えず終わりを告げた。
萩乃先生って、あたしのこと見てないですよね?
肯定も否定も返せなかった俺の前から、彼女は去っていった。なんか淋しい。たった一言だけを残して。
俺は淋しさもなく、言いふらされたら犯罪になるのだろうかと遅すぎる不安を過らせた。思考がどうかしている。
案の定やがて塾長の耳に入り、俺は塾講をクビになるのだが、同僚に同学部の男がいたことが運の尽きだったのだろう。俺は学内で二股野郎に加えてロリコンの名まで付随し、ますます後ろ指を差されるはめになった。
塾講の後に回転寿司屋でバイトを始めた俺は、そこの常連客と付き合っていた期間もある。
週に幾度も姿を現しては、そいつはひたすら貪り食っていた。しかも頭のネジがガバガバらしい。しょっちゅう自分でしたはずの注文皿を取り損ねる。
またあの女か。呆れながら一周して来た皿を都度レーンに乗せるのだが、再び取り忘れたようで戻ってくる。五分で三皿戻って来た日には、さすがに馬鹿じゃねえのか、と皿を手に彼女の席に届けた。
テーブル一杯に皿を並べた彼女は、俺の姿を目にするなり寿司の詰まった頬を緩める。
「わーい、ありがとうございますー。あ、お礼にこれどうぞお」
甘ったるい声とともに、うっかり口から飛びだす米粒。手のひらに乗せられた寿司屋の景品であるガチャポンを目に、脱力した。
きたねえし、いらねえ。
呆れながらも同様のことを繰り返しているうちに、いつの間にか彼女は寄り添ってきて恋人になっていた。
ハマちゃん、と呼んでいた。そう呼んでほしいと彼女きっての願い。渋々だったが、おかしな話で俺は彼女の本当の名前を知らなかったのだから仕方がない。
回転寿司大好き人間のハマちゃんは、冗談抜きで寿司しか食べていなかった。何十皿も食うくせに身体は骨と皮だけで構成されているような頼りなさで、肌は透き通るほど白かった。なにかの病気を疑うほど生気がない。それでも寿司を食う時だけは幼げな顔を晒し、相好を崩す。
名前も年齢も、職業も住んでいる場所すら不詳。俺は彼女の素性について、なにひとつ知らない。バイト終わりに会計を終えた彼女と落ち合って、俺の家で過ごす。彼女との関係はそれだけ。
おかしな女だったのだか、当時のおかしくなっていた俺は気にも留めなかった。ある日おっかないヤクザのようなオッサンが出てきたり、壺やら鍋やら数珠などが出てきたりするのだろうか。たまにふと不安に襲われはしたが、結局オッサンも壺も出ては来なかった。
恐らくハマちゃんは年上だったのだろう。
早苗を撫でる優しい風のような雰囲気で、彼女は俺を包んだ。飄々としていて掴みどころがなく、いつかそれこそ風のように、俺の前から消えてしまうような気がしていた。
第一印象通り頭が弱く、自由で緩やかで伸びやかで。肌で感じる彼女が作り出す空気に、俺は懐かしさを覚えた。
春のような女性だ。口にするとハマちゃんは、夏生まれで名前にも夏が付くのだと微笑んだ。
穏やかに流れる彼女との日々。振り返れば三カ月にも満たない時間だったが、もしかすると彼女は、一番俺の傷を癒してくれた存在だったのかもしれない。
けれどハマちゃんはある日唐突に、俺の前から消えてしまった。
七月三日。「たのしかった、さよなら」と、拙い書置きだけを残し行方をくらました。なんだよそれ。しばらく待ったけれど俺の元にも、回転寿司屋にも二度と現れはしなかった。
ハマちゃんという女について、結局俺が知れたことは片手で数えてもおつりがくる。七月二日の誕生日。最後の最後で書置きに残されていた、『夏生』という名前。読み方は、わからない。そして彼女が、潮風の匂いが心地よい小さな漁港町で生まれ育った女性だったということ。
いらねーと思いながら部屋に転がしてあったガチャガチャの玩具は、ハマちゃんが居なくなると捨てた。誕生日にねだられて買ってあげたペアリングも、燃えるゴミの袋に突っ込んでしまった。
一体彼女はなんだったのだろう。おぼろげな記憶は、青白い顔すら曖昧にさせる。ひと夏の幽霊でも見ていたのではないか。
けれど内面的に、俺がもっとも心に残る女の影を重ねられたのは、ハマちゃんだった。そして彼女は最初から、俺の心を見抜いていたらしい。
「萩乃くんって、あたしじゃない、好きな人いるよね」
頷いても、ハマちゃんは穏やかな笑みを崩しはしなかった。だからだろうか、あの年の夏の終わりは、微かな淋しさを抱いた。
常連客であるハマちゃんで経営がもっていたのではないだろうか。そう疑うほどハマちゃんが消えた回転寿司屋は売れ行きが怪しくなり、ほどなくして潰れた。
仕方がないので新たなバイト先として働き始めたカラオケ店。ここで出会った女が、俺の歴代彼女の中でもっともまともでない人間だった。
同い年でほぼ同期だった彼女は、俺が職場で一番優しく接してしまった女だった。
理由は単純で、やっぱり似ていたからだ。顔が、咲幸に。このころの俺が女を見る基準には、いつもど真ん中に咲幸という存在がでんっと居座っていた。どうかしていると自覚はありながら、自分では手に負えない感情に翻弄される。
彼女は少し濃いめの下がり眉に、大きなどんぐり眼が愛らしかった。
いわゆるたぬき顔というやつなのだろう。緊張感がなく、常にぼんやりと口を半開きにしている。
瞳を三日月に押し上げる頬肉も、桃色の厚い唇も柔らかそうで、俺は彼女を通していつも咲幸を思い出していた。
視線は言葉より顕著なのか、おのずと同僚から勘ぐられ誤解を招く。
彼女もまんざらではなかったらしく、ちらちらと俺を盗み見た。やがて飯に誘われ、遊びに誘われ、付き合いたいと告白された。
まあ、いいよ。惰性のように交際を始めて、数日。
ただぽやっとしていると踏んでいた彼女は、付き合い始めた途端に豹変した。
実家暮らしのはずなのに、親はなにも言わねえの? と疑問を抱く頻度で泊まりに来る。それはいい。
その都度私物を置いて行く。それもまあ、いい。
やがて毎日俺の家に顔を出し始め、当然のように住み着いた。家賃も食費も出してはくれないが、いつの間にか始まっている半同棲生活。気付けば俺は毎晩彼女に飯を奢っている。
甘えたでやたらと物をねだられるので、他に使うところもねえし、と俺も財布の紐を緩めてばかりいた。
しかし俺も一介の大学生でしかない。月のバイト代のほとんどすべてを彼女に献上している事実に気が付いた時、さすがに釈然としない思いがこみ上げてきた。
指摘をすれば、浮気を疑われ騒がれる。半同棲でほぼ毎日束縛されていて、いつ浮気をする時間が? そんな理屈が通じる相手ではない。
正直辟易していた。金銭的な面以上に、大学とバイト以外の時間すべてを監視されるような生活に疲れきっていた。要するに相性が良くなかったのだろう。常に付き合わされている感覚が抜けず、まったく気が休まらない。
我慢の限界が訪れたのは、携帯を勝手にいじられた時だった。見られるだけなら構わない。しかし数年間、俺がずっと保存しておいた咲幸からのメールが全部消されてしまった。大した量ではなかったが、俺からすれば唯一形として残っていたあいつの声だ。
今日の夕飯とか道端で見た猫とかきれいな空とか、ありふれた近況報告。咲幸に連絡を取る度胸はないくせに、時々読み返していた思い出は、容易く失われた。
不安だったんだもん、で許されるわけねえだろ。
衝動のままに怒鳴りつけ追い出そうとしたら、熱くなっていた頭にさらに熱が加わる。殺虫剤の缶で頭を殴りつけられたのだ。虫コロリが危うく俺コロリ。……衝撃のあまり思考回路が壊れた。
その後も度重なる暴力が続き、俺が怒ると死ぬだのなんだのと喚く始末で、恐ろしく心身を摩耗させられた。
巴が可愛く見えるほどワガママで強引で、面倒な危ない女を掴まされてしまったらしい。
しかし最後はあっさりとしており、ある日唐突に出て行った。なぜか俺の家からケトルをパクって。なんでも、他に好きな男ができたらしい。バイトも辞めていた。
半年にも満たない時間で、何十倍も年を食った気がする。もはや俺の中には、安堵しかなかった。
そんなわけで付き合った女たちを収集すると一人の元カノの面影を形成できてしまう、という驚くほど気持ち悪い偉業を成し遂げた俺は、刹那的な繋がりばかりを繰り返した。
忘れさせて貰おうとか淋しいから、といった気持ちがあったわけではない。ただ、満たされない渇望だけが誰と居ても付き纏う。
思い返せば星好きな女は一人もいなかった。俺を健一くん、と呼ぶ人間も、また。
体つきが咲幸と似ている奴もいなかったせいか、やっぱり俺は誰を抱いても咲幸とばかり比べてしまう。肌が吸い付いてしまうような一体感と、心から安らぐ不思議な甘い香りを誰も持たない。
一部では足りず、彼女そのものでなくては駄目だったのだろう。天真爛漫で時折俺より大人になる、彼女でないと。
大福や白玉団子を思わせる、すぐ赤くなる耳たぶだとか、そういう些細なところまで彼女を求めるくせに、俺は頑なに連絡だけは躊躇い続けた。
年を追うごとに人を傷付けることに関しては鈍感になっていくのに、反して自分の傷においては敏感になっていく。
退廃的な学生生活に身を置き続けた俺だが、最終的に一人の女性に落ち着いた。
それが広崎絵美――今の嫁だ。




