手の中にない星
「にしてもあれだなあ」
冷めきった揚げ物を素手で口に運びながら、浦山がため息をついた。油ぎとぎとの右手を隣の高遠にこすりつけ、きたねえよと頭を叩かれる。
「一発レッドカードは鬼かよお。千國はそういうの、許す奴だと思ってたわ。仕方ないなあ、いーよって感じでさあ」
「そんな軽いノリのわけないだろさすがに……つーかキャベツは箸使えって」
全部手掴みかよ、どこの民族だおまえ。
塩ダレが伝った指をしゃぶったあとは、やっぱり高遠のズボンをタオルにする。
そんな浦山に答えつつ俺も、本当は同じ気持ちが多少なりともあった。
あいつなら許してくれるのではないかと、心の隅で期待していた。咲幸はいつだって『いーよ』で俺を受け入れてくれ、否定することも拒絶することもなかったのだから。
きっと垢抜けない濃い眉を下げ、一度は悲しげに大きな瞳を伏せるのだろう。けれど最後は許してくれる。それでいて、次は許さんよ、と優しく釘を刺してもくれるはずだ。
そんな風に、勝手な決めつけをしていた。俺はどこまで己の中で、咲幸を都合のいい女にしていたのだろう。
「ばっかだな。浮気はバレちまったら、別れるか殺すかの二択になってる脳内を全力で『許す』に持っていくんだよ。黙ってても勝手に許してくれるような女、いるわけねーだろ」
「タカ、おめえ経験者だらあ?」
「うるせえよ」
高遠の言う通りだ。
俺はそもそも自分の罪を打ち明けてもいなければ、謝罪もしていない。さすがのあいつも、そんなものをどう許すというのだ。
「やるせねえな。健一もアホだったけど、元はと言えば咲幸が疑われるようなことしたからなのにな」
「え? やっぱ千國は白だったんか? わり俺そこら寝てたわあ。もう一回頼む」
「めんどくせえな。高遠、適当に話しといて」
「はあ? 嫌だよめんどくせえ。……で、それから連絡は取ってねえの?」
「ああ」
「連絡取ってみろよ。一年経ったらさすがに落ち着てるだろ、咲幸も」
「つーかヨリ戻せよお、いけるら?」
いや、と俺は二人の言葉を否定した。今は、まだいいやと。だったら何時ならいいんだよ、と頭の中にいるもう一人の俺が疑問を投げかけるが、無視を決めた。
この一年間、幾度か咲幸に連絡を取ろうとしたことはある。けれど最後に目にした咲幸の表情が、都度俺の手を寸前で止めた。
許してもらえないだろう。
あの夜、身体中を喜びの感情で満たした咲幸は、まどろみに意識を手放す瞬間まで俺に寄り添っていた。髪を撫でてあげると、目と口元に緩やかな弧を描く。むせ返りそうな甘い響きで俺の名前を囁く。同じように彼女の名を呼ぶと、熱の籠った額を肩に押し付けてきた。スケスケの小さな脳は、健一くん一色に染まる。溢れだす俺への想いを、彼女自身が持て余し困惑していたのだろう。
幸福に支配されている人間がどういう状態なのか、初めて知った。合わせ鏡のように、俺も咲幸に甘えた。
そのタイミングで不用意に突きつけてよい現実ではなかったのだ。自分の迂闊さを呪い続けている。
もはや暴力ではないか。階段から突き落とすのとはわけが違う。高度何千メートルという高さから地表に叩きつけられたら人は死ぬ。俺が犯したのはそういうことだ。咲幸を裏切り、心を殺した。
許してはもらえないだろう。
結局は自信がなく怯えているだけだ。連絡を取って、決定的に咲幸から拒絶されることを、俺は恐れている。あの咲幸が心底俺を嫌悪し、二度と関わりたくないと口にする瞬間を想像する。俺たちの繋がりなどもうどこにも存在しえない、おまえの幻想なのだと現実を突きつける瞬間を。妄想だけで動悸がした。
魂を引き抜かれ日々に流されていた俺は、少しずつ傷が癒えつつある。それでもまだようやく縫合が済んだ程度で、下手をすれば傷口が開くどころか致命傷になりかねない。
人を傷つけておいてなんでてめえが被害者ヅラなんだよ、と呆れるが、俺は体中をバラバラに引き裂かれたような痛みの中、今なお欠けた部分を探している錯覚に陥る。
一生不完全な身体で生きていくのかもしれない。これが、罰なのだろうか。
「まあ健一がいいっつーならいいけどよ。にしても俺、マジで落ち込んでるわ」
「ああ、わかるわかる。俺もだわー」
逆三角形のおにぎり面を仲良く並べ、二人はテーブルに力なく体を預けた。
なんでおまえらが落ち込むんだよ。
「おまえらは結婚するんだろうなって、当たり前に思ってたんだよな」
「そうそう。友人代表のスピーチ、タカと二人でやろうぜとか言ってたのによお」
「漫才でもする気かよ」
「いや、でもマジでさ。俺、おまえらにはずっと一緒にいて欲しかったわ。だって考えてみたら咲幸は、俺らのなこうどなわけだろ?」
両手で頬杖をついた高遠と、なぜか見つめ合う形になる。アルコールのせいでどこかうっとりした細い瞳。朱に染めた頬。
「言い方がおかしいし頬染めんなよ、気色わりいな」
「酔ってんだよ!」
浦山が奇声じみた笑い声をあげ、ついに隣から壁を叩かれた。
でも、そうかと納得してしまう。
咲幸がいなかったら、今こうしてこいつらといる時間すらあり得なかった。高遠も浦山も名前すら知らないクラスメイトに過ぎず、俺は一生彼らの存在を思い出すことなどなかったのだろう。
友達もいないままクラスに溶け込めず、俺は高校生活を終えていた。
咲幸がいなかったら俺は、文化祭も体育祭も球技大会も修学旅行もただただクソだるくて面倒で、印象にも残らず過ぎ去ったのだろう。大人になって振り返っても、黒墨を塗られたように三年間が人生から抜け落ちていたのだろう。
とりとめのない日々が輝いていたのは、平日の朝に心を躍らせることができたのは、その根幹にいつもあいつがいたから。
俺に青春と呼べる時間が存在したのは、咲幸のおかげだ。俺の青春は、千國咲幸という女無しで語ることなどできはしなかった。
帰りたい。あのころに。
虫ばかりが飛び込む教室。ど田舎のオンボロ校舎。帰り道、ダラダラと渡った大橋。そこから見えるただっぴろい河川敷。緑に淀んでいるくせに、エメラルドグリーンのように輝いていた河川。
緩やかな坂の先に建つ、ちっぽけな無人駅。隠れて手を繋いでいた、二両列車。
放課後にはいつも咲幸がいて、休み時間には二つのおにぎりがいた。あのころに、戻りたい。
戻りてえな。
俺の一言で、高遠も浦山も黙り込みすっかりお通夜モードだ。
「……わりい」
短く謝り酒を煽った。大人になった俺は、もう高校時代に戻れはしない。
「まあ、やめようぜ。健一ももう気にすんなって。な? 女なんて星の数ほどって言うだろ?」
確かにこの世界には星の数ほどの女がいるけれど、宇宙にある名もなき星でさえ、ただ一つ光なのだと口にはできなかった。
咲幸という星は、もう二度と俺の手の中に戻りはしない。
あれほど俺の人生に色をつけた彼女は、もう隣にいないのか。
そう考えた瞬間、俺はようやく咲幸を失ってしまった現実に気付かされた。遅すぎるほどゆっくりと、実感がわいてくる。もう一年も彼女の声を聞いていないことが、信じられなかった。
最後に触れた咲幸の体温が、絡みつくように俺の心に残っている。
二十歳の冬。あの居酒屋で俺は初めて、咲幸を引き留めなかった過去の自分を責めた。別れるなんて嫌だ。おまえが一番だから、絶対にもう裏切らないから許してくれ。みっともなく縋りついてでも許しを乞いて、考え直してもらうべきだった。
あれから七年近くが過ぎた今、俺は再び後悔を重ねている。二十歳の冬に、どうして俺はやり直そうと咲幸に連絡をしなかったのだろう。




