側に居たい
あのね。いつ話そうか迷っていたんだけど。
そんな前置きをしてから、咲幸は小さな手で口元を覆う。吐息を空に溶け込ませ、俺を見据えた。
「実はあたし、次の就職先が決まったんだ」
「え、マジで? そういや試験受けるって言ってたよな」
「うん、そう。先々週に連絡が来て、今度は少なくても一年契約になるって。高卒は募集しとらんかったけど、最近まで行ってた科学館の館長さんが昔そこで働いていとったみたいでね、『試験だけでも受けさせたってくれんかー』って、頼んでくれたみたい。それで試験、受けれたの。久しぶりに書いたよ、作文なんて」
漢字全然わからんの。目尻を下げて苦笑する咲幸は、上の空で授業を受けていた高校時代と変化ない。
「だからカラオケもファミレスのバイトもボランティアも年内で終わらせて、あたし今プー太郎よ」
「そっか。でも良かったな。やっとまた働けるようになって」
けれど俺の声に、なぜか咲幸は頷かない。カップ麺を持つ手に力が入ったのか、プラスティックが軋む。
あれ? こんな違和感を、以前も抱かなかっただろうか。既視感は具体的な記憶となり俺の脳に蘇る。
今の咲幸の声は、採用試験を受けると教えてくれた、あの夜と同じものだった。
「もしかして咲幸、嬉しくないのか?」
「ううん。そんなことはないよ。でもね、迷っとるの」
「迷う? なにをだよ?」
言い淀む咲幸はなにを思ったのか、突如鞄を漁りだす。あ、そういえばとか言って、調子っぱずれな声を出しながら。
小さな鞄から取り出したのは、B5サイズ程の膨れた厚みのある袋。乾いた音を立てており、スナック菓子かなにかだろう。このタイミングでなぜ? 鞄の中の大半をその袋が占めていた図は、どこか間抜けだった。
白地に赤文字で印刷された文字は、薄暗い外灯では読み取れない。
「これ、お土産。本当は赤福買って来たかったんだけどねえ。健一くんに会うまでにカビ餅になってまうでお煎餅にしたの」
「お、おお。ありがと」
受け取った袋には、伊勢銘菓の文字が刻まれていた。
「え? というか、もしかして」
「次の就職先、三重なんだ」
俺の推測より早く、咲幸がその場所を口にした。
キンと冷えた真夜中の公園に、張りつめた空気が満ちていく。
三重県。行ったことねえな、と呟いた。県庁所在地が日本一短い都市だということは知っている。岐阜よりもさらに西の、遠い所。それだけの場所だ。
ああ。これは駄目なんだろうなと、静かな終わりを予期した。
俺たちは大丈夫。一年前に抱いた、根拠なき自信はもうどこにもない。
俺は黙り込む以外の選択肢を失い、膝に置いた土産の文字に目を落としていた。
「いい所だったよ。写真、撮ってくればよかったね。和歌山に近い外れの方の港町でねえ。山が沢山あるのにすぐ近くには海もあって、塩っぽい匂いがした。憧れなんかなあ。あの匂いかぐと、すごくわくわくするんだよねえ。健一くんもそうじゃない? ……お昼に食べた海鮮丼が、安いのにめっちゃおいしかったの。海も行ってみたけど、冬のせいかなあ。ちょっと寂しかったや。でも、すれ違う時に挨拶してくれる人がいてね。優しいところだなあって思った」
温かい町だった。
俺の瞳はずっと伊勢銘菓の文字をなぞっている。咲幸の表情はわからない。けれどきっと、彼女は微笑んでいるのだ。
「科学館もね、お城の跡地とかで、地元の美博と雰囲気がよく似とったの。あたしは好きだなあ、あそこ。懐かしい気がして、いいところだなあって。館長さんも、優しい人だったよ。でもプラネタリウムがあるところじゃないんだよね。そこだけが残念」
いいところだよ。咲幸はもう一度繰り返す。
正月が過ぎたら、咲幸は俺の知らない遠い港町へと行ってしまう。
初夏に二人で過ごした川沿いの街を離れて、少し淋しげて優しくて温かい町で、暮らすのか。
「えらい遠いとこでねえ。岐阜からでもバスと電車で四時間くらいかかった。千葉に行くまでにはね、六、七時間くらいかかるみたい」
耳を流れていく言葉を頭に納めたいのに、零れ落ちてしまう。手を伸ばしてすくい上げても、気付けばどこかへ泳いでいくように消えてしまう。
そうか。たった一言が言えず、俺はずっとだんまりを貫く。
態度の悪い奴だな、答えてやれよ。咲幸が喋ってんだから。それでも喉には姿の不明瞭なものがつっかえて、言葉にならない。
その塊がするりと落ちて声を漏らしてしまったのは、あまりに予想外の一言を咲幸が発したからだった。
「でもあたし。……まだ返事しとらんの」
「え?」
「年明けには返事しないとだから時間がないんだけど、迷ってて」
辞退しようかと思っとるの。
俺はようやく顔を上げ、咲幸に向き直った。
「向こうの人にも、頼んでくれた館長さんにも申し訳ないし、特別に試験受けさせてもらっといてすごく失礼なことだけど。……でも」
「なんで」
掠れた音がわずかに喉を震わせ、辛うじて声になる。
俺から目を逸らさない咲幸の瞳に、俺自身が映っていることに気が付いた。
「あのね、あたし夏くらいから決めてたことがあって。来年は……あ、もう今年か。今年は、関東で就活しようって思っとったの。というか、年が変わったら関東に行くつもりだったの」
「なんで?」
「考えてみたらあたし求職中のフリーターなんだから、そんなのどこでやっても同じじゃん? だったら関東行って、そこでバイトしたりボランティアしたりしながらまた職探そうかなって。見つかるかはわからんけど、田舎よりは数も多いしいけるかなあってね」
「だから、なんで」
俺は馬鹿の一つ覚えのように同じ質問を繰り返す。なんで。なんで関東?
それこそ本当にわからないのかよ、おまえ馬鹿じゃねえの、と返されても文句の言えない問い。
けれど咲幸は俺のように声を荒げることもなく、春風の穏やかさを持つ声色で答えを呟いた。
「健一くんの側に居たいから、だよ」
ですよね。そうですよね。俺はまた咲幸から顔を逸らし、伊勢銘菓に視線を戻した。
もっと早く知りたかった。もっと前に打ち明けてくれていたら、俺は……。
こんな時まで責任転嫁をしようとする自分を、心の中でぶん殴った。そのせいだろか、身体の奥が発熱したように熱さを訴える。
「淋しくて耐えられん、ってわけじゃないんだけどねえ。でも、夏に健一くんが遊びに来てくれたじゃん? あの夜が、楽しかったの。あんまし美味しくないご飯一緒に食べて、つまらんDVD見て、それでもなんか笑えてさあ。あんな風にもっと健一くんと一緒に過ごしたいなあって思っとってねえ。でもバイト始めてからなかなか会えんくなって、健一くんがせっかく来てくれるって言ったのに、あたし上手く予定調節できんでさあ。だったらもう千葉に行こうかなあ、ってね」
単純で向こう見ずな思考。けれどそれは、真っすぐな咲幸らしい考えだった。
「考えてるうちにすっごいテンション上がってね、もう絶対そうしよーって決めたの。でも引っ越しの費用がなかなか集まらんでねえ。年内には貯めたかったからシフトめっちゃ入れたんだけど、そのせいで全然会えんくなってごめんねえ」
咲幸は学生時代よりも細く整えた眉を下げた。純粋さの原石のような言葉は、研ぎ澄まされたナイフとなって俺の胸に突き刺さる。苦しさを覚え、もがくように俺は口を開いたけれど、言葉がまるで出てこようとしない。
「急に驚くし、相談してーって話だよね。健一くんには行けるお金が貯まったら相談するつもりだったんだけど、その前に館長さんが採用の話持ってきてくれてね。迷って、決められんのにとりあえず試験受けてそしたら採用されて、うあーどうしよって悩んでるうちに今年終わって、今になって」
開き直っているのか自嘲しているのか、イマイチ掴めない咲幸の声。
「就職先が決まるかもってのは、すごく嬉しかった。正直、関東で就活して仕事見つけられるかなんて、わからんもん。あたし馬鹿だし学歴もないし。三重行かんかったら、次いつちゃんと職につけるか、わからんのよ。でもね、本当のあたしの気持ちは、千葉に……行きたいんだと思う」
咲幸が俺の側に来るかもしれない。じわりじわりと俺の体を熱くする可能性に頬が緩み、咲幸の言葉で冷静になった。
単純に咲幸が俺の近くにいることを望むのなら問題ない。来てくれ、一日も早く来てくれと俺は両手を広げることができた。けれど、咲幸にはもう一つの選択肢が与えられている。
「高校生の時、あたしの側に居たいって言ってくれた健一くんに、あたし駄目って答えたじゃん? あたしを理由に地元残るのはやだって。あんな偉そうなこと健一くんには言ったのに、自分がそうするのはどうなんかなって。意思弱いんじゃないのって気がして。だからあたし、どうしたらいいかわからんくなってまってねえ。夢、諦めるとかじゃないよ? でもねえ、それでもね。あたし、健一くんの側に居たい」
伊勢銘菓の文字が、心なしか霞んできてしまっている気がした。耳も鼻ももちろん手足も、身体中すべてが痛いほど冷たいのに、目頭が熱いのだ。鼻の奥が、ツンと痛む。
俺たちは同時に鼻をすする。呼んだわけでもないのになぜか互いに横を向き、目を合わせた。
俺は煎餅の袋を握りしめて、咲幸は汁だけのカップ麺を手にして、ヘンテコな絵面。ロマンティックはどこかに消える。
そんなものはいらない。
咲幸は赤くなった鼻を隠すように、口元を覆っていたマフラーを引き上げた。くぐもった声が、けれどハッキリと俺の耳へ届く。咲幸の心が、俺の心をじんわりと満たしていく音がした。
「ねえ、健一くん。あたし、千葉に行ってもいいかなあ」
ずるい。卑怯だろ。口にしてしまったら俺はひどく情けない男になる気がして、奥歯を噛みしめた。
どうしてか縋るように空を仰ぐ。
今日は新月なのだろうか、それともすでに沈んでしまったのだろうか。月はない。代わりに澄んだ夜空には、音が鳴りそうな瞬きを見せる星々が煌めいていた。
特徴的な柄杓から、北の星を探す。
迷った時に、悩んだ時に、咲幸が眺めるというその星。わずかに顔を上げた先にある、ありふれた光に俺は問うた。
俺は、どうすればいいのだろう。
隣の咲幸も、同じ星彩を見つめているのかもしれない。
変わらずにあり続ける、メアテボシの輝きを。




