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メアテボシのあなた  作者: つめ
第二章 大学生篇
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堕ちる音

 巴と浮気をした。

 一度心を緩めてしまうとあとは堕ちる一方で、果てを知らない。地についてもなお下を目指す。

 俺は自分でもドン引くほどの、お手本のような浮気野郎と化していった。


 不倫は文化だとか、男なら一度は浮気をするものだとか、平然とぬかす連中を心底軽蔑していた。卑劣で最低な行為だ。もちろん自分が手を出す可能性など、想像もしていなかった。それなのに、だ。


 付き合ってみると巴は強引で奔放な女だが、可愛げもあった。

 想像以上に乙女で、「会いに来て」とせがんでは俺を呼びつける。

 悪い気はしなかった。好かれているとか、必要とされているとか前向きに捉えられる。

 主張が激しくて気が強く、見た目も中身も咲幸とは正反対。唯一似ているのは名前くらい。


 新鮮味の一言は免罪符だ。今のところすべてのワガママを許せている。

 当然のように巴の家で飯を作ってもらい、休日は日がな一日遊び歩くこともあった。


 物理的な距離の近さが、心の近さと比例するのだろう。あのころはそう信じた。

 近くにいる恋人、という存在に俺は浮かれてもいたのだ。

 結局は、会える方が楽しいから。


 盛り上がっていた。不思議と頭からは消える、罪悪感という言葉。

 初めてその単語と対峙したのは、世間の恋人がやる一通りのことを巴と済ませた直後だった。

 巴と付き合いだして、二週間ばかりが経過したある夜。


 なにを、やってたんだよ。

 カフェイン摂取後のごとくクリアになる頭。数分前までの興奮が音もなく消え、脳内には後悔を煮詰めて固めたなにかだけが取り残された。俺は、目が覚めた。


 恍惚めいた表情の巴とは裏腹、冷静に咲幸と比較まではじめる始末だ。……ぶっちゃけ、咲幸との方がよかった。

 ああ、やっちまったよ。

 だいぶ前から戻れるラインなど踏み越えていたくせに、改めて実感した。もう完全にアウトだ。


 そういう日に限って、珍しく咲幸からのメールが届いていたりする。後悔はより濃くなる。

 左半身をベッドからずり落とし、床に携帯を置いたまま確認した。


『今日の夕ご飯、ふんばつエビフライだよー! うまやらしいでしょー。ところで今夜てんわできる?』


 ひらがな多すぎ。メールなのに何故だろうとよく読めば、誤字だらけ。そりゃ変換もできるわけがない。

 そしてエビフライの、写真付き。

 顔ではなかったことに心底安堵した。このタイミングで咲幸の顔が映っていたら、きっと死んでたよ、俺。


 咲幸はあの初夏の夜以降、給料日のあとに時々エビフライを作っているそうだ。今日はやっと形がまっすぐになったのだと喜んでいる。呑気だ。


 咲幸が「エビフライおいしい」とパクパクしてる一方そのころ、俺は同期の女を食っているというのに。笑えねよ、本当。

 そしてその同期を横にして「おお、美味そうなエビフライ!」なんて返信をしたら、さすがに馬鹿だろ。

 当然電話もできるわけがないため、無視を決めた。あいつお得意の寝てた、を今日は俺が発動。まだ十時前で、信ぴょう性はゼロに近い。


 あの夏に焦がれていたはずの俺は、気が付くともう戻れない場所にいる。


「最っ低」


 いつの間にか俺の背中に手を掛けていた巴が、上から手元を覗いていた。


「……見るなよ」

「見えるようにやるからでしょ」


 一理ある。いや、それしかない。


「ねえ。健一さ、咲幸さんの前でもそうなの? 終わってすぐに携帯いじったりするわけ?」

「するわけないだろ」

「だと思った」


 いいけどね、別に。絶対よくはないであろう声色で巴は呟く。その証拠に踵でケツを蹴られた。


「健一のそういうところ、嫌い」


 俺だって、好きではない。


 数分前まではしおらしく色めいた声も上げていたというのに、巴はすっかり平常運転に戻っていた。おまえの切り替えの早さも女にしたら相当じゃねえの? 口に出かけた言葉を飲み込む。

 どうやら巴は俺の中で、意識をしないと大切に扱えないガラス細工に部類されるみたいだ。


 巴は処女だった。正直びびる。思わず本気で謝ってしまった。

 堂々と横恋慕をしたり道端でキスなんぞをしたりする奴だから、てっきり経験済だと勘ぐっていたのだ。今はただ、申し訳なさだけがある。

 初めてが俺なんかでよかったのかねえ、と。


 余韻もクソもないまま、別の女のメールを読んでいる男の背中とケツを眺めて、こいつは幸せなのだろうか。


「というか健一さ、別れるって言ったでしょ。……咲幸さんと」


 うん、ともいや、ともとれる曖昧な声を出したら再びケツを蹴られた。

 そのうち、という曖昧な回答でお茶を濁し続けてきた話題。

 目も覚めてしまった俺は、咲幸を捨てて巴を取る選択はできそうにない。


「なあ巴。別れねえ?」


 やっぱり、俺……。振り向きざまに開きかけた口を、無理矢理塞がれる。抑え込まれるように仰向けにされ、そのまま馬乗りされた。

 とにかく強引。本当になにもかもが力技。多分テレビとかパソコンとか、叩けば直ると考えているタイプだ。


「なんで、今言うの」


 そして極めつけが、芸術的な泣き落とし。

 長い指の揃った手のひらで顔を覆い、声をくぐもらせる。涙交じりの声。

 仲間内と騒いでいる時ともバスケをやっている時とも異なる、蚊の鳴くような弱弱しさ。


 嫌だよ、やだ。別れたくない。

 巴はワガママで、泣き虫だ。泣いては俺を惑わせる。そして俺はどうしようもなく女の涙に弱い。泣き顔を前にすると、とりあえず泣き止ませることを脳内が最優先事項としてしまうのだ。


 結局俺はその日、自分の発言を撤回した。

 冗談だよ、別れねえよ。腰と背中に手を回し、巴を抱き寄せた。

 音が聴こえる。俺たちの重なる心音と、彼女の傷か癒える音。そして俺が、堕ちる音。


 その後も俺は良心の呵責に耐えかねて、日課のように巴に別れを切り出した。

 結果はいつも同じだった。

 巴の涙に絆され、俺は謝る。なし崩し的に体を重ね、仲直りをする体裁を繕う。

 雨降って地固まる、のように。けれど知っている。本当はどんどんと土壌が崩れ、流れだしているのだ。いつか必ず破たんする瞬間が訪れるのだろう。


 それでも俺は巴との関係を断ち切れずにいた。少なからずの情が移ってしまっている。

 泣くほど俺が好きなのか。それはやはり、悪い気はしなかった。


 浮気なんて簡単な単語の癖に、思うより単純明快ではなく複雑怪奇。

 誰かを深く傷つけることに、俺は抵抗がある。

 ここまで堕ちてしまったら、誰も傷つけずに終わる方法など、存在しえないというのに。中途半端に善人ぶった十九歳の俺は、無謀にもありもしない未来を求めていた。


 だから当然のように、咲幸とも電話を続けた。もちろん、巴には内緒で。

 咲幸と話す俺の声は、罪悪感が増すほどに甘さが深まった。吐き気すら催す。


 巴と過ごす時間が増えた俺は、時々咲幸の電話を無視した。唐突な睡眠障害を疑うレベルで寝落ちを主張する俺に、咲幸はまるで疑いの目を持ってはいない。冬は眠くなっちゃうよねえ、って頓珍漢な返答。


「あのね、健一くん。今日ねー」


 電話越しの声も、俺の甘さと比例して大袈裟に明るく弾んでいる。

 彼女もまた、なにか罪悪感を抱えているのかもしれない。

 そうかと思えばふと黙り込み、思わせぶりな沈黙を作る時もあった。俺はそれに、気づかないふりを続ける。

 夜の数十分は、ひどく作り物めいた優しい時間になっていた。

 なにかを隠し、俺たちは笑う。


 ふと巴の顔が浮かぶと、俺はなにもかもを打ち明けるべきなのではないかという気持ちに駆られた。

 楽になりたい。気付くと誰と話していても、心が休まる気がしない。


 朗らかな笑顔の裏で、同じ陰鬱さに咲幸も襲われているのだろうか。ナントカくんの顔を脳裏に過らせながら

 それを想像する時、俺の中で咲幸への愛情が削ぎ落されているように感じた。同時に脳内で、顔も知らないナントカくんをぶん殴った。


 つーか咲幸がナントカくんと本当はなにもなかったら、俺はどうするつもりなのだろう。死ぬしかないよな。


 ただただ堕ちて堕ちて、底なし沼のような果てのない場所まで堕ちていく。

 罪悪感と疑心、後悔と諦め。

 ガキの癖に大人の真似事をして、本当にクソみたいな人間に成り下がって、今年を終えようとしていた。

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