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メアテボシのあなた  作者: つめ
第二章 大学生篇
30/60

さよならのはじまり

 なにを。なにをしやがったんだ、この女。

 息を吸っては吐いて、もう一度吸って。唇を濡らした熱はもう欠片もないのに、脳にはべったりと生々しい温度が貼り付いている。


 ぶざけんなよ。荒げた声が住宅街の空気を揺らした。

 咄嗟に振り払った右手には、俺自身が狼狽するほどの衝撃が跳ね返り、あっと漏らした時には遅かった。

 男と大差ない長身のくせに。肩幅も広ければガタイもいいし、やたらと筋肉質な身体をしているくせに。巴も女だったのだ。


 試合中にトラベリングを食らった選手のごとく、巴がアスファルトに倒れ込んだ。倒れ込んだ、なんて表現は生ぬるい。正確にはぶっ飛んで、叩きつけられた。

 葉もまばらなつつじの木に頭を突っ込んで、彷徨った右手が脇のポールに弾かれる。ごわおうん、という間延びた音がいやに耳に残った。


 これはやばい、と直感が告げる。感情のままに俺は恐らく、かなり本気の力で巴をど突いてしまったらしい。

 目も当てられない光景を前に、理性が舞い戻ってきた。

 なにやってるんだよ、俺。手を上げるのは駄目だろう。


「ご、ごめん。本当、悪かった。怪我ないか?」

「いっつつ……大丈夫。私こそ、急にごめん」


 立ち上がりパンツの砂を落とす巴の手の甲は、擦りむいていた。派手に皮がむけている。細かい砂利が貼り付く、深紅の肉。痛々しさのあまり顔をしかめてしまう。


「かなり擦れてんじゃねえか。とりあえずウチで手、洗ってけよ。消毒とかはねえから、洗うだけだけど」

「……いいの?」

「俺が悪いんだし」


 ここでそのまま突き放すなんてこと、できるわけないだろうが。



 家にあげた巴が手を洗う間、俺はベッドに腰掛け呆然としていた。

 なんだこれ。脳や感情が、一斉にロケットへ詰め込まれ宇宙に放り出されてしまったようだ。唐突に起こった様々な出来事に、大混乱。

 心が息継ぎも許されずにもがいている。一体俺の身に、なにが起きているのだ。


 咲幸はなんで。巴はどうして。

 つーか、さっきのは、浮気になるのかな。現実味はまだないけれど、いとも簡単に「いけないこと」は体験し得るのか。

 悲しみやら罪悪感やらの海に溺れているうちに、軽い眩暈を覚えた。キャパオーバーで、少し休みたい。


 それにしても巴の奴はいつまで手を洗っているのだろう。


「おい巴、いつまで洗ってるんだ? 血、ひどいならガーゼとか買ってくるけど」


 タオルを手に様子を見に行ってみれば、洗面所で巴が膝を抱えて泣いていた。

 一畳もないバスタブの横で、声を殺した巴の顎からは水滴が滴り続けている。


 汚いぞ、床。掃除ロクにしてねえから。埃だらけで、よく見りゃ巴の横にも俺の変な毛が転がってるし。というか蛇口の水は止めろよ。

 心に浮かんだ言葉のなにひとつも伝えられず、俺は黙り込む。

 俺の気配を前に巴も無言だった。


 なんだよ、この状況。意味がわからなすぎて眩暈は治りそうにない。

 俺はとりあえず手の中のタオルを巴に放った。丸谷工務店、とか書かれた真っ白なタオル。どこだよそれ、と今更思う。

 そうして膝を抱えている巴の手を取った。


「帰ろう、送ってくから。あと、タオルはやるから」


 けれど巴はまるで動く気配もなければ、タオルにも手を伸ばさない。

 雄々しく腕で涙をぬぐい、俺にキッと鋭い目を寄せた。しかしすぐに巴の細い瞳は洪水を起こし、抑えきれない手を伝って指先から涙が溢れてしまうのだ。タオルを使えと言っているのに、聞きもしねえ。


 彼女の涙の理由が、俺にはわからない。泣きたいのは俺の方だ。


「健一、ごめん」


 一体それはなんのごめんだ。

 正直、彼女には謝ってもらいたいことが山ほどある。

 けれどさっきの一撃で、俺はチャラにしないといけないだろう。というか、チャラにして、などと呑気なことを言っている場合ではない。

 巴の頬には涙の痕だけでなく細かな切り傷もできていて、心が痛んだ。それは本当に、申し訳ない。


「いや、もういいから。さっきのも忘れるから」


 なかったことにする。俺も、そうしたい。


「違うの。キス……したこともそうだけど、電話。変なこと言い出してごめん。こんなことになるなんて思ってなくて。健一を傷付けるつもりは、なかったの」

「いや、まあ。そりゃわかるよ」


 俺だって想定外の出来事だった。


「健一と……咲幸さんはもっと、仲良くしてるんだって思ってた。健一がちょっと子供だから、上手くいっていないように感じるだけで、本当はそんなことないんだろうなって。多分私の付け入る隙なんて本当はなくて、だから私一人がただ空回っているだけなんだろうなって。痛々しいなって、嫌になることがあったけど。でも、そうじゃ……ないの?」

「俺に訊くなよ」


 俺だってわからないのだ。

 彼女との関係が上手くいっているのか、いないのかなど。真実を数値化してくれるような機械など、ありはしないのだから。


「本当は話してる途中で邪魔してやろうって考えてた。いい感じになったところで健一に声かけて、すっごい怪しいこと言って、二人を気まずくしてやろうって。喧嘩とか始めればいいなって、期待してた」

「おまえやっぱとんでもねえ性悪じゃねえか」


 なんてこと考えてやがる。本当に人の子か。


「でもそんなことする気、途中からなくなっちゃった。……咲幸さんは、馬鹿だよ。どこまで自覚しててどこからが無自覚かなんてどうでもいいけど。健一が不安になって傷ついてるんだよ。気付いてないのかな。健一はこんなに咲幸さんのこと好きなのに、まるで一方通行みたいに見えちゃうし。違うのならちゃんと行動で示さなきゃ伝わらないんだよ。なにが本当かなんて私にはわからないけど……距離があるからこそ不安にさせたらいけないってことを、わかってないんだよ、あの人」


 馬鹿なことは、罪だよ。


 おさまっていた巴の涙はまた頬を伝い、重力になすまま床を目指す。

 いよいよ鼻まで出てきたのか、鼻声に変わっていた。


 ああ。なんで泣いてるんだよこいつと思えば、巴は悲しいから泣いているのだ。自分のためではなく、俺の心を想って悲しんで、そして泣いている。

 冷えたうえに穴の空きかけた心に、温かな涙を注ごうとしているのだ。

 案外優しいところもあるじゃないか。

 なにもかもが淋しい季節に、不器用な優しさはじんわりと身体へ入っていく。


「ねえ健一」


 やっとタオルを手にした巴が、顔を覆いながらくぐもった声で俺を呼んだ。いつもより掠れていて、どうしてか色っぽい。

 ようやく洗面所から出てきた足取りはおぼつかなくて、立ちくらみを起こしたのかよろける。


 大丈夫か?

 伸ばした手は空を切り、次の瞬間背中と胸、両サイドからの衝撃に息をつかえさせた。巴と壁に挟まれて、俺は情けない呻きをあげる。肩甲骨が壁に潰されて鈍い音を立てる。

 胸にあるのは温かくそして柔らかい、かすかな鼓動。

 巴のやたらと長くてしっかりとした、けれど俺よりは華奢な腕が、いつの間にか俺の背中に回されていた。


 マジでやめろって。本当に。頼むから、やめてくれ。許してくれ。お願いだから、勘弁してくれ。

 ありったけの懇願は喉に貼り付き、なに一つ巴に届けられなかった。先ほどのように腕を振りほどくこともできない。


「私、やっぱり健一が好き。初めてバスケをしてる健一を見た時から、ずっといいなって思ってた。どこが、とかはよくわからないの。健一の全部が、とはまだ言えない。でも好き。本当に好きだから」


 私は絶対、健一を傷付けないから。不安にもさせない、約束する。だから、私を選んで。


 涙ながらに恐らく、巴はそういう類のことを伝えたかったのだろう。

 こいつ、どこの出身なんだっけ。唖然とするほど訛りがひどくて、思考が明後日に飛ぶ。田舎じみた言葉は巴には似つかわしくないくせに、不思議な可愛らしさがあった。


 巴がわずかに背伸びをするだけで、俺との身長差はゼロになる。身体同士の隙間が消えた時、俺たちの心臓は同じ高さで鼓動を始めるのだ。波打つそれは俺のものなのか、彼女のものなのか。俺には判断が付かなかった。

 わずかに逸る拍動は甘い苦しさを覚え、どこか心地よく懐かしい。


 穏やかな波に揺蕩う感覚。誰かと刻む、心音。

 俺はよくその音を咲幸と重ねた。体が小さいせいなのか、あいつは少しだけ鼓動が早い。

 いつもより緩やかなその音は、しかしいつもと変わらない温かさと安心感を俺にもたらしてしまった。


 咲幸に会いたい、心が、身体が叫んだ。咲幸に会いたい。顔を見て話したい。抱きしめたい。

 そうしないと俺はこの行き先の失った衝動を、きっと目の前の彼女にぶつけてしまうだろう。


 好き。

 熱っぽい巴の声が耳元に絡んだ。

 身体は硬直し、反対に理性は溶かされていく。


 思えばここまで誰かに情熱的に好意を告げられることが、あっただろうか。

 咲幸にはそういう熱はなく、どちらかといえば風に溶け込ませて、自然と想いを伝える。振り向きざまに、息をするがごとく「好き」とはにかむ。熱さよりも温かさ。夏よりも春。

 まるでたんぽぽの綿毛のような、舞い散る花びらのような、軽さ。


 そもそも彼女は、顔を見つめているだけで俺への好意が伝わった。咲幸の三日月を描く瞳が、朱に染まる柔らかな頬がなだらかに弧を描く口元が、彼女のすべてが、俺を好きだと告げている。

 けれど咲幸の「好き」はどこか子供っぽい。loveよりもlikeに近い。愛よりも恋、濃いよりも、淡い。

 星を写すように、俺も瞳に映す。


 だからここまで熱い愛を訴えられたのは、生まれて初めてのことだった。

 その熱に浮かされて、俺は正常な判断力を失いかけている。

 突き放さなくてはいけないはずなのに、身体が動かない。


 脳内で戦争が起きているのだ。咲幸がいるだろと熱く叫ぶ俺と、咲幸はもうおまえのことなんてどうでもいいんだよ拗ねる俺。

 どちらを信じればいい。どちらに従うべきだ。


 ふと目を開けると、吐息すらかかる距離に巴の顔があった。擦ったせいか目元は腫れており、細い一重瞼が余計際立っている。鼻も赤らみ、それでもきつく結んだ唇は気が強そうだ。ひでえ面だな。驚くほどタイプじゃねえ、ひでえ面。


 それなのにどうしてだろう。それでもいいかな、という不思議な感情が脳裏をかすめた。


 不安ばかりが積み重なる日々に、少しだけ疲れた。嘘と隠しごとを秘めながら、不鮮明な態度をとる咲幸と鏡写しのような関係を続けることに。

 一生懸命信じないと、そんな関係ですら壊れてしまう。


 自分の想いが一方通行になりかけている現状に、虚しさを覚えた。

 咲幸は夢に向かって一心に歩を進める。きっとなにを捨ててでも、彼女は目指すべき道を行くのだろう。

『なにを捨ててでも』。その部分にやがて、俺も入ってしまうのかもしれない。


 例えば、目の前の彼女の方が俺のことを想ってくれるのではないか。しんどい時は、思考が暴走し極端になる。しんどい時は愛すよりも愛されたい。我ながらクソみたいな発想。


 それでも俺はその瞬間だけ、全てのことから逃げてしまいたいと望んだ。

 逃げた先にあるのがこの手だというのなら。温かくも小さくもない、しっかりとした女性の手であるとするのなら。俺はこの手を取るのだろうか。


 見つめ合った俺たちは、どちらからともなく唇を重ねた。引き寄せられるように自然と、互いの身体に手を回して。

 しょっぱい。きっと涙の味だ。


 キスには音があった。不思議だろう、堕ちる音だ。俺が落下する音が、耳から脳に抜けた。堕ちてゆく空気を肌で感じた。


 初めて味わう興奮と、もう戻れねえのかな、という諦めがない交ぜになる感情。

 肌寒さには人肌が合うことに、俺は気が付いてしまったのだ。

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