嘘とキス
なんで? 呼吸とともに、乾いた声は冷えた大気に漏れた。咲幸には届かない。
一人でいる。どうして今、咲幸はそんな嘘をついたのだろう。
バイト帰りの咲幸は、誰かと一緒にいるのだ。それは恐らく、家が近所でいつも送ってくれる同僚のナントカくん。
「送ってもらっている」の一言で済む話なのに、なぜ偽る必要がある。やましいことがあるからか?
突如頭は回りだす。悪い方向にだけ、高速回転。やがてぐるぐるバットをやり終えたかのように目前の景色が歪み、瞳は鮮明さを奪われる。
咲幸は隠しごとをする奴でも嘘をつく奴でもなかったのに。いつだってあけすけで、気持ちが見渡せてしまえる奴だったのに。
心を淀ませる俺は、しかし一つの答えに行きついた。
本当に同じなのかもしれない、俺と咲幸は。いつの間にか俺たちは二人で、変わってしまったのだ。
俺だって今、同期の女が隣にいることを口にはできない。そいつに告白されたことも、作ってもらった弁当を食ったことも、夜は長電話をして、休日にたまに会っていることも。全部、隠している。
俺は同じくらいの後ろめたさがあるから余計、疑ってしまうのだ。
隣にいるだろうナントカくんに、咲幸も告白をされたのだろうか。無理やり迫られてるのか。優しい咲幸は、拒絶したりできないのだろう。
押しに弱いから流されてしまっているのかもしれない。送ってもらうだけでなく、家にあげてしまったりするのだろうか。そのあとは……。
俺は、思考を手放した。
「なあ咲幸。再来週会えないか? 木曜、確か休みだろ? 一日だけど俺、そっち行くからさ」
眩暈を覚える頭を押さえ、俺は焦燥にまかせて提案していた。
もう巴が聞いているなどということは関係がない。駄目だ、俺たちはきちんと会って話すべきだ。そうでないと本当に終わる。
小さな祖語が重なりあって、気づけば取り返しのつかない状態に陥っているかもしれないという危惧。それがまさに今なのかもしれない。うわ、詰んでるじゃねえか状態。王手直前。
こうなる前に動かなかった俺の、咲幸の責任だ。
けれど現状に危機感を抱いているのは俺だけらしく、電話越しの咲幸は謝罪の声を乗せた。
「ごめんね、再来週って六日だよね? その日は、ちょっとあたし出かける用事があって」
「あー。……そうか。どっか遊び行くのか?」
「ううん。就活というか、採用試験があるの。だから」
「採用試験? 受けられそうなとこ、見つかったってことか? どこだ県内か?」
「ちょっと待って。あのさ健一くん。この話は、今度もう少しゆっくり話すのでもいいかなあ」
せっかく就職先が決まるかもしれないのに、咲幸の声には優れない天候のような重さが住み着いている。
あれ? どころの違和感ではない。
この半年間ちょくちょく就活をしながらも、応募先すら見つからずに行き詰っていたのではなかったのか。それなのになぜ咲幸は嬉しそうではないのだろう。
いつもならば、真っ先に俺へ喜びを伝えてくれただろうに。
というより。口の中だけで俺は呟く。咲幸の奴、マジでなんにも俺に話す気ないのな。
「わかった、いつでもいいよ。咲幸が話したいときで。というか一人だと歩きながら話すの危ないよな。もう切るよ」
「え、あ。……うん、またね。おやすみ」
電話ありがとうね。
咲幸がわずかに名残惜しそうな様子を見せたのは、気のせいだろう。そんなものは俺の願望に違いない。
どうだ。
携帯をポケットにしまった俺は、巴に向き直る。歪んだドヤ顔を決めてみせた。
目の前にあるのはスリーポイントを決めた時の勝ち誇った顔でもなければ、完敗を認め悔しさを隠す項垂れた表情でもない。ただ、哀れな男に対する同情的な眼差しだけだった。
「ねえ、普段からこんな感じなの? 電話」
「いや今日は運が悪かったつーか。普段はもっといい感じ、だから」
「運が悪いとかそういうレベルの話? おかしいでしょ、今の。なんで問い詰めないの? 明らかに嘘つかれたんだよ。絶対誰かと一緒にいるよ、あれ。やましいことがあるから隠すんでしょ」
わかってるよ、うるせえな。でかいを声だすな、近所迷惑になるだろうが。
口を開くのも億劫で、俺は巴を無視して踵を返した。
「ねえ健一? ちょっと待ってよ。私諦めないから、あんなんじゃ。というか、そういう問題じゃないし。健一こそ諦めなよ。あんな変な態度取られて、好きなの? 縋りつくみたいに優しい声出してさあ」
馬鹿みたいだよ。巴の声は、今日も俺の心の映し鏡だ。
本当に馬鹿みたいだよ。
それでも俺は、咲幸を問い詰めることができない。あそこで真相を追及したら、関係がぶち壊れるのではないかと恐れた。
決定的な疑念を投げつけるタイミングは、失う覚悟ができた時だけだと聞いたことがある。そんなもの、当然今の俺にはなかった。
俺は咲幸を失うことが怖い。嘘をつかれても、例えば彼女が俺に飽きて別の奴に惹かれているとしても。俺は彼女との関係を、終わらせたくないと願っている。巴の言うように、それは縋りつくという言葉が適切なのだろう。
情けない思考を下げて歩く俺の肩に、温かなものが触れた。
馬鹿力。そう罵りたいくらいの力で、巴に肩を引かれた。
「健一、待って」
「なんなんだよ。もうどうだっていい……」
振り返って、言葉が続けられなかった。口を遮られてしまったら、声なんて出るわけないだろう。
温かくて柔らかくて、世界の冷たさからそこだけが隔離される。
けれどなにを意味するのか理解するまでに、時間を要した。俺のよく知っているものとは感触が違うから。脳が、戸惑ったのだ。
「巴、おま、なにして」
離れた唇の熱を、風はすぐに奪っていく。
え? なんだ、これ。なんだよこれ、なんなんだこれ。いや、これは、駄目なやつ……だろ?
同じように自分の唇を指で押さえた巴が、わずかに上目遣いで呟いた。
「私の方が、絶対に健一のことが好き。それにきっと」
咲幸さんも同じこと、してるよ。
冬はいつだって淋しげだから、俺は嫌いだ。




