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メアテボシのあなた  作者: つめ
第二章 大学生篇
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夜に心を溶かして

 咲幸とのとりとめもない通話を切った瞬間、その大きな声は俺を呼んだ。


「健一!」


 道路を挟んだ反対側で、ガードレールから身を乗り出した巴が手を振っている。街灯が、彼女の影を俺まで届けていた。


「待って! 健一、財布忘れてったでしょ」

「え? あ、やべ」


 慌てて尻ポケットに手を当てる。いつもの膨らみがない。いまだ夜空に掲げている巴の手の中に、それは握られていた。


 車の往来が途切れたところで、巴がガードレールを飛び越える。腕を支点に身体を上手くひねり、空に投げ出した二本の脚はやたらと長い。

 難なくこなし、着地の勢いを落とすことなく駆けてくる巴。大股で迫る姿を前に、スタイルと運動神経は抜群だなあと感心した。

 咲幸ならこうはならない。きっと足を引っかけて転がる。ぐえ、って轢かれたカエルみたいな声をあげて、顔面を打つのだろう。

 「いてて、やってまったあ」と鼻を抑える咲幸の顔が、なぜか見たこともないのに想像できた。


「はい。気をつけなよ。あ、お札は抜いておいたから」

「ダウト。俺、今日七百円しか持ってねーから」

「しょっぼ。嘘でしょ、引くんだけど」

「まあ、ありがとな。あ、つかわざわざ抜けさせちまったか? これ届けるために」

「いいよ別に。私も帰ろうと思ってたし。それより、今電話してたの、彼女?」


 向こうから見えていたの。

 中途半端な長さのおさげは解けかけ、巴は乱暴にゴムを引き抜いた。闇夜に彼女の黒髪が溶ける。


「まあ、そうだけど」

「どうだった?」

「誤解っぽかった、俺の」


 浮気じゃないと思う。もう一度重ねる。そうすることで自分にも言い聞かせているのかもしれない。


「ふーん。それ、信じるの?」

「信じるよ」


 当然だ。信じなければ、きっと続かない。距離を隔てるというのはそういうことだ。

 勝手に歩き始めてしまった巴につられるように、俺も歩を進めた。


「なんかさあ、疲れない?」

「なにがだよ」

「こういうの。本当か嘘かなんて知らないけど、どっちにしろ心配してやきもきさせられて。離れてる限りずっとずっとそういう気持ちを味わうわけでしょ。嫌じゃない?」


 別に。どこまでも続く線路に目を向けて答える。

 この線路沿いをずっとずっと歩いて行けば、いつか咲幸の元にたどり着くのだろうかと考え、止めた。

 俺が進んでいる方向は下り方面だ。完全に逆じゃねえか。どれだけ歩いても着きはしねえよ。


「嘘でしょ。健一、機嫌悪そうだもん。誤解だってわかったのに」


 巴と話しているとめんどくせえな、と感じることがある。男友達っぽい気さくな関係、といってもやはり彼女も女だ。女子特有のめんどくせえな、がある。

 具体的な言葉を探せないが、男とは違うなにか。俺はどうにもその面倒くささが苦手で、ゆえに女という生き物と関わることが得意ではないらしい。

 男と違い雑な物言いをすると悲しませてしまうし、女は傷付けたらいけない世の風潮もある。


 俺はガキのころ、よく女子を泣かせる男子だった。デリカシーといった概念が存在しないハギ少年は、心ない言葉を平気で吐く。うるせーな、ブス。こういう暴言を飛ばしては怒られる。

 けれど女の涙を目にすると途端に慌てふためき、心に錘を宿してしまうのだ。

 瀬戸物を雑に扱うくせに、壊すと後悔する。

 女は繊細なガラス細工。扱いが難しくて、俺は気疲れを起こす。めんどくせえなと、うんざりする。

 だから苦手。


 けれど不思議と、咲幸といる時にはそういう気分とは無縁になれた。

 意識をせずとも自然に、彼女のことは丁寧に扱える。大切にしたい。


 なにを考えていたんだっけ、と意識を逸れた思考から目の前の女に戻した。


「遠距離恋愛ってさ、多分『できるタイプ』と『できないタイプ』がいると思うの。健一はさ、向いてないよ。だって健一、子供だもん。我慢できないし、すぐ嫉妬するでしょ」

「わかってるよ、んなこと。でも仕方ないだろ」


 向いてないからといって止めるわけにはいかないのだから。止めるためには、咲幸との関係に終止符を打つか、近くに行くかの二択しかない。

 いっそ大学辞めてえな。無謀な方向に脳内がシフトしていく。親にフルボッコにされ、そして咲幸にも怒られるのだろう。

 

「遠距離なんてやっぱ上手くいかないよ。大人ならまだしも、学生になんてさ。信也だって健一のこと笑ってたけど、本当は上手くいってないんだって。半同棲みたいになってる子らって結構多いでしょ? ああいう子たちが、羨ましいって」


 当たり前だよね。風に流れる巴の低い声に同意しながらも、俺は否定したかった。

 難しいのは、わかっているのだ。でも俺たちは違うと叫びたい。うるせえ、おまえに遠距離恋愛のなにがわかるんだ。つーか彼氏すらいねえだろおまえ、と吐き捨てたい。

 けれど、できない。巴の言い分も一理あると、俺は納得しているから。


「近くにいた方が絶対楽しいよ。会いたい時に会えるし、不安にだってならない。もしなってもすぐ顔合わせて話し合えるから、すれ違いも少ないだろうしさ。遠距離なんて一度喧嘩したら多分終わっちゃう」

「いや巴、おまえさあ」


 さっきからなんなんだよ、なにが言いたいんだよ。俺の苛立ちと、それを遮る「というかさ」という巴の声が合図になった。遠くから快速電車が近づいてくる。

 前を歩きつづけていた巴は唐突に立ち止まり、踵を返した。

 俺との距離を一歩で詰め、向き合う。


 馬鹿でけえくせにまだ馬鹿っ高い靴履くのかよ。

 呆れる俺との身長差は、わずか数センチ。

 男の平均身長を優に超えているから男女とか呼ばれるんだぞ。


「私なら、健一にこんな想いさせないよ」

「……は?」


 電車の轟音で、声がかき消されることがあるらしい。ドラマや漫画ではお決まりのシチュエーションだ。

 肝心なところで、「え、なんだって?」みたいな。「きこえねーよ」みたいな。

 けれど俺は聞こえてしまった。

 巴の声がいやに大きくて。なんで日常的に腹から声出してんだよ、と言いたい。


「私、ずっと好きだったんだよね。健一のこと」


 そして電車が完全に過ぎさった街に、静寂が訪れる。

 同じ目線の高さで、巴は薄い唇を引き締めたあと口を開いた。

 滑舌のよいはっきりとした言葉が、形になったかのように俺の耳に入る。


「咲幸さんと別れて、私と付き合おうよ」


 夜に溶けたその声に、ただ俺は立ち尽くした。

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