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メアテボシのあなた  作者: つめ
第二章 大学生篇
24/60

君の顔がみたい

 ふざけんじゃねえぞ。あの馬鹿、なんなんだよ。


 呪詛を唱えるように口では罵倒を重ねていたが、それでも俺は咲幸を信じていた。信じたかった。彼女は女友達と遊ぶと偽り男の家に行くような奴ではないはずだ。少なくとも、俺の知る咲幸は。

 誤解だ。きっと俺の勘違いに違いない。


 通常の一,五倍くらい大股で帰路を歩くうちに怒りが和らいできた俺は、淡い期待を胸にもう一度携帯を取り出した。声が聴きとりやすいよう、大通りは避けた。

 不安とは裏腹、一コール目で呼び出し音が切れる。

 安堵と同時に、あまりの早さに慄きを抱いたくらいだ。けれど脳内にいる冷静な俺が、いやいやいやとツッコミを入れている。ちょっとおかしいだろ、と。


 けんいち、くん。

 そう俺の名を口にする電話越しの咲幸は、尋常じゃないほど息が乱れていた。

 喘ぐような呼吸で、ごめんね、と口にする。

 いやいやいや、なにやってんの。むしろヤってんの? ごめんって、なにが? そういうことをしながら彼氏に電話を掛けるっていう新手のプレイ? 寝取られ系エロ漫画?

 あまりの衝撃で思いがけず口から滑り出てしまった疑問を、咲幸が大袈裟に否定した。


「ち、違うよお。家までめっちゃダッシュしてきて、息が……ちょっと」


 ゼヘエエェェー……と後半ヤギになりかけている深呼吸は、艶やかさの欠片もない。どうやらいかがわしいことをしていたわけではなさそうだ。

 電話越しの咲幸はいまだ息も絶え絶え状態。無理に喋ったせいか、盛大に咳込んでいた。若干えずきかけていて心配にすらなる


 肺病患者のような呼吸音になっていたので、俺はしばらく黙っていた。

 咲幸は運動全般が苦手だ。中でも走ること――特にマラソンは壊滅的だったことを憶えている。

 転びそうな危なっかしい足取りで、フォームは滅茶苦茶。もちろんドベ。

 おまけに突き出た胸が、縦に横に揺れを起こす。サイズが合わないのか体操服は裾がズボンからはみ出し、まくれて腹がチラチラと覗く始末。明らかに一人だけ授業ではない絵面になっていた。


 オアシスを求める旅人in砂漠の足取りでゴールする咲幸は、なんともいじらしかった。というより最早可哀想だった。

 見世物でもねえのに、男共は咲幸のゴールを雁首揃えて待っていやがる。

 さっきまで校庭でくっちゃべっていただろうが。俺は連中の背中を蹴り倒していく作業で忙しかった。

 ストップウォッチを手に教師までもが鼻の下を伸ばしていて、どうなっていやがったんだ、あの学校は。


 そんな視線を浴びつつゴールした咲幸本人は、羞恥どころの騒ぎではなかった。死にかけていた。ひどい息切れと止まらない汗。真っ赤な顔に涙目で、鼻をすすり乱れ髪のまま水道脇に転がる。ふざけた女友達に水までかけられていた。

 さながら乱暴されて車外に放り出された女子高生。さすがに不憫だった。


 ふいに俺は心臓がきゅっと締めつけられるような苦しさを抱く。

 あの陽炎が立ち込める校庭に、戻れはしないだろうか。誰も彼もが汗くさくて、夏風だけが心地よかったあのころに。

 そう懐かしんでいるうちに、咲幸は少し落ち着いたらしい。


「大丈夫か?」

「うん、なんとか。ごめんね、さっき途中で切って。携帯の電池が、切れてまったの」

「へえ。……随分都合のいい電池だな」


 どうしてまた、こんな意地の悪いセリフを吐くのか。それも不機嫌さを露わにして。

 まだわずかに息を整えている咲幸は苦しげに、「ほんとだよ?」と訴えた。

 別に嘘だなんて言ってないだろ。


「とりあえず健一くんに連絡するためにナオキくんの携帯借りようかとも思ったけど、あたし健一くんの番号覚えてなくて」

「充電器の方を借りりゃよかったんじゃねえの?」

「ナオキくん、スマホだから充電器ないって」


 そういえば咲幸は高校時代から、一度も携帯を替えていない。

 そんなことより俺は先ほどの出来事の詳細が知りたくて、話を促した。どういうことだよ、誰だよあいつ。なんで家にいたんだよ。依然、低いままの声で。


 電話越しの咲幸は、乱れた呼吸のまままたじろいでいた。

 数分後、ようやく息を整えた咲幸が教えてくれたことの顛末はこうだ。


 確かに今日、咲幸は元同僚のアイリちゃんと遊んだらしい。街中で雑貨を見たり喫茶店に入ったりしたそうだ。もちろん証拠はないが。

 そして帰り道、ナオキくんの家の近くを通りかかった際にアイリちゃんが思い出したのだという。彼に貸したままになっていたCDの存在を。どうせだから今から取りに行こう。そういう流れで彼女はナオキくんに連絡をしたらしい。


 しかしそのころナオキくんは風邪気味で療養中。

 ついでにお見舞いも兼ねようとするアイリちゃんに連れ添って、咲幸はナオキくんの家を訪れた。食料と引き換えにCDを返してもらい二人は岐路につく。その際に荷物を忘れてしまった咲幸は、ナオキくんの家に戻ったところで俺の電話を受け取った、という話だった。


 話の筋は綺麗に通っている。

 お見舞いの割にはずいぶん長居をしたのだな、という点を払えば。


「だでね、その。あたしがナオキくんと遊んどったわけじゃ、ないのよ」


 さすがの咲幸も、今回はなぜ俺が苛立っているのかは察したらしい。選ぶように、一言一言ゆっくりと言葉を紡いでいく。


 やっぱり誤解だった。

 誤解だったと、信じることにする。あとからどうとでも誤魔化せはするし、家に帰るまでに用意した話である可能性も否定はできない。けれど、俺はその可能性を否定する。

 疑おうとすればいくらでも疑えてしまうけれど、信じる。嘘だろうと、疑心を突きつけられる確証もまた、どこにもないのだから。

 そしてなにより信頼を前提にしなければ、距離を隔てた俺たちの関係は崩れてしまうのだろう。

 だから俺はできるだけ冷静さを意識した声を出した。


「わかった。怒った感じになってごめんな」


 電話の向こうで咲幸が胸をなでおろした音が、聞こえた気がした。

 けれど俺の靄がかった心は、まだ快晴とまではいかない。


「というかさ、なんなんだよあの軽い男」


 ナントカくんがあそこまで軽薄をにおわせる奴だとは知らなかったからだ。


「ナオキくん?」

「ああ。咲幸に彼氏いるって知ってんだろ、あいつ」

「うん、知っとるけどね。知っとってああいうこと言ってくるの。なんていうのかな、ちょっとナンパな人だでねえ、急に軽いこと言ってきたりして」


 いい人ではあるんだけどね。咲幸からのフォローは、そんなのいらねえよと内心で投げ捨てた。

 だから別になんともない、と咲幸は伝えたいのだろうか。

 ふーん、あっそ。短い相槌は態度悪すぎだろと反省しつつも、謝罪できなかった。俺は子供だ。


 ああ、嫌だなと純粋に気が重くなる。

 ああいう奴はそもそも彼氏の有無など関係なしに平気で口説く。隙あらば奪おうとすら考えているのだ。俺の周りにも似たような人間がいないわけではないからわかる。

 下心があるとはいえ優しく、気遣いもできる。結構大人だ。

 話も面白ければ盛り上げ上手、不自然なく人を褒めることもできるだろう。相手が気持ちのよい空気を作ることに、やたらと長けている。イイヤツではある、友達にしておくのなら。

 しかし女に対しては手が早く、平気で身体も触る。下手をすれば一晩だけでも遊ぼうと迫る。

 それでいて満更でもなくさせていくことが異様に上手い。


 そういう人間が咲幸の側に居るのは、嫌だ。

 あまり気が利かず話も面白くない、ガキなような俺が勝てないかもしれないだろう。

 けれど本当はそれだけが理由ではない。


「健一くんさ、ナオキくんのこと、嫌い?」

「なんだそれ。別に。そもそもよく知らねえし」

「あ……うん。そうだよね」


 嫌いだよ。自分が知らない彼女の男友達なんて、だいたいの奴が好きなわけないだろ。

 言わなきゃわからないのかよ。こいつマジで頭悪いな、と呆れる質問をする咲幸はさておき。


 俺は初めて咲幸が彼の名前を口にした時から、このナントカくんが好きではなかった。

 カツマタくんだのトキダさんだの、同年代の男は幾人もいる。中でも彼だけが、とりわけ気に食わなかった。

 なんかムカつく、という曖昧な気持ちを抱えていたが、今ふとその正体に気が付く。いや、正体は嫉妬だ。今掴み取れたのは理由の方。

 もしかすると最初から気づいていたのかもしれない。


 ナオキくん。


 咲幸はずっと、こいつのことを下の名前で呼んでいるのだ。

 別に咲幸が誰に対して親しげな呼称を用いる人間なら構わない。けれど俺が知っている限り、彼女が下の名前で呼ぶ男は俺だけだった。

 その俺だって付き合ってしばらくは萩乃くん、と苗字で呼んでいたくせに。

 布団の中で何度も俺の名前を口にして、一日タイミングを見計らい、やっと「健一くん」になったというのに。


 こいつのことは当然のように名前で呼ぶのか。

 それともなんだ。俺の時と同様に、寝る前に布団の中で何度もこいつの名前を呼んでいたのか? ナオくんにしようかな。あ、噛んじゃうから駄目だな、みたいに。おいおい、なんだよそれふざけるなよ。

 こんなことを気にしている俺は、なんて小さい男だろう。


「そういえば健一くん、なにか用事あった? 急に電話なんて」

「別に用事はねえよ。ただ声聴きたかったら電話したんだけど、駄目だったか?」


 浮気を疑っていた、など打ち明けられない。

 俺の無難な答えに咲幸はわかりやすく声を弾ませた。照れ笑いを含められると、少し罪悪感が生まれる。


「全然駄目じゃないよー。健一くん、今日サークルの人と遊ぶって言っとったけど、早かったんだねえ」

「ああ、今帰りなんだよ」

「そっかあ。忙しいのに電話してくれてありがとうね」


 あたしも健一くんの声、聴きたかったよ。

 脳に響く無邪気な甘さの、どれほどが本音なのだろう。

 いつも通りの能天気さを孕んだ声にすら、俺は疑いを抱いてしまった。信じると決めたはずなのに、彼女は嘘など吐くはずがないのに。


 砂埃の塵ほどの懐疑が、俺の心にぺたりぺたりと貼り付いていく。

 わからない、と焦燥に駆られた。電話越しの咲幸が、掴めない。いつだって透けて見渡せていたはずの彼女の脳内が、今は不透明なのだ。顔を合わせないとわからなくなってきている。ちゃんと顔を見て話をしたい。

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