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メアテボシのあなた  作者: つめ
第二章 大学生篇
23/60

ナントカくん

 どうしてこんなことになっているのだろう。

 携帯を握りしめた手が震えている気さえする。俺の中で、時が止まっていた。

 え? その一文字しか浮かばない。脳内をはじめ身体中が「え」プラス疑問符に支配される。

 巴にそそのかされるように、俺は咲幸に電話をかけた。


 素直に従ったのは、俺自身彼女への疑いがゼロではなかったからなのかもしれない。一方で、その疑念を晴らしたい期待もあった。

 八コールの後、呼び出し音が途切れる。

 電話越しに響いたのは、俺の知らない男の声だった。

 え? え? え? え、いや、ちょっと待てよ。え? ……そして、冒頭に戻る。


「あ、咲幸かー?」


 男にしたら少し高い、鼻声。


「おまえ、玄関に荷物忘れとったやろ。今どこにおるん? 俺、届けたるわ」


 のんびりとした声が、右に左に抜けていく。

 黙り込む俺の向こうで、男は幾度もその名前を口にした。咲幸、と。


「誰だよおまえ」

「え? 誰?」


 だからそれはこっちのセリフだよ。マジで誰なんだよ、おまえ。ふざけんなよ。

 二の句を継いだら怒鳴りつけてしまいそうで黙り込んだ。咄嗟の出来事に冷静さを失い、頭が熱くなる。

 落ち着こうと噛みしめた奥歯に、鈍痛が走った。


 男が口を開きかけた刹那、古ぼけたブザーがその声を遮る。遠くから届く声。

 凍てつく湖にいきなり突き落とされたら、きっとこういう衝撃に襲われるのだろう。脳も内臓も凍り付いたようで、冷たくて。


「ナオキくーん。起きとるー?」


 息ができなくて死にそう、みたいな。

 開けてーって、なにも考えていない能天気な声。咲幸の、甘い声。

 少しずつそれが近づいていく。男の足音とともに。


「遅くにごめんね。あたし手ぶらで帰ってまった。鍵開けようとするまで気づかんくてねえ」

「まあ、俺も気づいたの今やし。ほら、荷物」

「ありがとうね。ナオキくんに電話せんとーって思ったけど、あ、携帯もないじゃん! って慌てて走ったよー」

「本当アホやなー咲幸は」


 俺の見えないどこかで、咲幸が親しげに会話している。彼女がいつの間にか移ってしまった訛りと、同じものを持つ男と。


「あ、そだ。電話掛かって来とるよ」

「ええ? もう、取らんでいいのに」

「タイミング的におまえからやと思うやろ、普通」

「一応誰からか確認してよー」


 ゆるんだ色を纏っていた咲幸が、小さく息を飲んだ気がした。

 携帯を受け取ったのだろう。そして着信相手の名前を見たのだろう。

 ごめんナオキくん、またね。咲幸の早口が、ドアを閉める重い音に掻き消える。


「け、健一くん?」


 そこにはわずかな緊張の色があった。


「ああ」

「どうしたの、急に」

「いや、どうしたじゃないだろ。なに今の。つーか、誰? 咲幸、あいつの家にいたのか?」


 たたみ込むような問いかけに、咲幸はたじろぎ言葉を詰まらせる。それでも俺は再度声を重ねた。誰、と。

 平静を努めるが、どうにも上手くいかない。

 俺は昔から、怒りの感情を抑えることが苦手みたいだ。中でも今日は、自分でも滅多に聴かない低音が震えた喉から飛び出ていく。


「えっと、えっとね。今のは、バイト先の同僚で」

「あ、咲幸まだおるか? 遅いし送ったるわ。もしくは泊めたる」

「泊まらんて。変なこと言わんでよ、頭こんがらがるから」


 咲幸が声を潜めて、家の中にいる男に告げている。

 ナオキくん風邪っぴきだで早く寝なね、って。飽きれまじりの息を漏らして。

 添い寝してくれたら寝るわ、と男が調子に乗っている。

 奥歯がギリッというよりガッという音を立てて、噛み合わせがずれた。その音が隣の巴を小さくびくつかせていた。

 どうしたの? 口だけが動いているが、無視を決める。


 おかしいだろ。どういう状況下でそんな会話が成り立つんだよ。なあ咲幸、早く説明してくれ。

 カツカツうるせえな、なんの音だよと苛立てば、俺が立てる音だった。

 踵を浮かせていた足が、小刻みに揺れて時折地面を打ち付けている。


 なあ、咲幸まだか? そんな奴いいから早く戻ってきてくれよ。それとなく催促をしても、咲幸は携帯を耳から放しているらしく返事はない。ついでにマイク部分も押さえているのだろう。聴き取りづらい二人の会話を耳にしていることがただただもどかしい。

 そして数秒後、気を揉む俺の耳には音が入って来なくなった。不審に思い携帯を確認したら、ダイヤル画面。


 ……咲幸の奴、切りやがった。

 こちらからすぐさまかけ直しても、流れるのは無機質な音声ばかりだ。

 再び「え?」が姿を現しては、忙しなく脳内を駆け巡る。ついには「は?」も登場。

 マジでなんなんだよ、これ。呟きは怒り泣きをする直前のガキみたいで、情けなかった。やましいことがないなら繋いでおけよ、なんで切ったんだよ。脳内の疑問に答える声はない。


 鼻と口から空気を抜けさせながら、俺は間抜けさを夜の街に張り上げていた。

 はあああ? と。なんっなんだよ! と。

 踏み抜く勢いで階段に足を叩きつける。ぐわんぐわん、寺の鐘のような音が狭い非常階段に回った。


「え? マジでどうしたの?」

「誰だか知らない男が出た」

「なにそれ。どういうこと?」


 俺が訊きてえよ。携帯は壊れるだろうと冷静になれたわりには、手に取った缶の中身にまでは気を配れなかったらしい。

 衝動的に投げてしまったコーラ缶は、踊り場の柵に打ちつけられ爆ぜた。

 あーあ。呟いて俺は腰を上げる。

 しゅわしゅわしゅわ。地面で気泡は弾け、肌寒い夜へと還る。コーラ溜まりは無機質な蛍光灯の光を映していた。

 凹んだ缶を拾い、少ない残りを喉に流しこむ。さっきまでの心地よいのどごしが嘘みたいに、炭酸が消えた砂糖水はクソまじい。


 おまけに飲み口に砂がついていたのだろう。ジャリジャリとした嫌な感覚が口に広がった。飲み込むべきなのか吐き出すべきなのかもわからないが、吐くのはきたねえな、と躊躇われた。

 手もコーラでべとつき、なにもかもがやるせない。


「ちょっと健一、落ち着きなよ。ほら」

「汚れるからいいよ」

「別にいいって」


 無理矢理巴が握らせたハンカチで、手を拭う。案の定薄ピンクのハンカチには茶色い染みができてしまった。

 多少べとつきが落ちた手とともにポケットへハンカチを入れる。さすがに洗って返そう。


「なに、マジで浮気中だったってこと?」

「いや、浮気とはわからねえけど」


 男の部屋にいたような空気を匂わせ、やたらと親しげではあった。

 今日一緒に出掛けるのは、先月まで一緒に働いていた元同僚じゃなかったのか。アイリちゃんだと言っていただろう。

 どうしてアイリちゃんがナオキくんになっているのだ。アイリちゃん、本当はカマかなにかだったのか。


「で? 実際のとこはなんだって?」

「だから急に電話切られたんだよ。繋がらねえの」

「えー、もうそれ黒でしょ。言い逃れできないよ。逆にどう挽回するの? その状態から。まあ、今ごろ必死で言い訳考えてるだろうけど」

「ナオキくんがアイリちゃんで本当は女という説にワンチャン……」

「は? 意味不明」


 呆れた声を出し、巴は膝の上で頬杖をついた。

 フリだけでもいいから慰めてくれねえかな、と思う。秋風はどうにも淋しく、心を一人にさせた。


 本当に、意味不明。

 俺は知っている。あの男は先月まで一緒に働いていたアイリちゃんではなく、現役の同僚であることを。

 同い年でシフトが一緒になり、家が近いからよく送ってくれるという大学生。

 作曲が得意で音速ラインと藍坊主が好きなバンドマン。

 音楽の趣味が合って、仲良くなったきっかけはカラオケで咲幸が歌ったらしい楽曲、ポラリスの涙。

 新しくバンドを結成したいからと、ボーカルに咲幸を勧誘しているギタリスト。

 つまるところよく話に出ている、ナントカくん。


「俺、帰るわ」


 大きなため息をつきながら尻を上げた。

 そのまま非常階段を下りる。踊り場まで来たところで、ここが八階であることを思い出すが、もうどうでもよかった。


「え、ちょっと待ってよ。なんで」


 なんでもクソもあるか。疲れたんだよ。


「みんなには適当に言っといてくれねえ? 腹痛くなったとか」


 呼び止める巴の声を無視し、俺は鉄製の非常階段を乱暴に降りた。一段一段、行き所を失った感情を叩きつけるように。けたたましい音が、建物に反響する。

 強く踏み込んだ勢いで足を挫いて七段ほど転がり落ちた。


 ああクソ。いてえし全然下に着く気配もない。どうなってるんだ。

 ……今、何階だよ。


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