狂いだした歯車
「え? クビ?」
「だからクビ言わんでよう。違うって」
咲幸が明るく振る舞うのだから、俺もそうしなくては。
電話越しに緊張が伝わらぬよう努めた。
咲幸はもともと、臨時職員として雇われていた。産前産後の休業に入る職員の代わりだそうだ。契約時には前任者が育児休業まで取得するかは決まっていなかったため、『約三か月の契約で更新の可能性あり』という条件だったらしい。
そして出産を終えた前任者は、すぐに職場復帰を希望。咲幸の契約は打ち切られた。
「休めるんだからあと一年休んでりゃいいのにな」
「でもその人も、早く復帰したいみたいだったからねえ。赤ちゃんも一昨日連れて来とったけど元気だったし、いいんじゃないかなあ」
よくないだろ。おまえは無職になるんだぞ。
「その方がみんな助かるだろうし」
少し寂しげな声だった。
「あ、でもねえ。契約更新はできんけど、頼んでみたらボランティアって形で置かせてもらえることになったの。昼間は週三くらいで仕事手伝わせてもらって、アルバイトしながら次働けるとこ探すよー」
「体よく無償労働させられてんじゃねえの?」
「でもやっぱ勉強になるからねえ。できたら次の職場斡旋とかもしてくれるって」
なんとも相変わらずのんびりとした奴だった。
しかしマイペースに、咲幸はハードな日々へと足を踏み入れていく。
週に三日ないし四日は、元職場の科学館でのボランティア。それ以外の日をファミレスのアルバイトと就職活動、そして資格取得の勉強に割り当てた。
夕方からは週五日でカラオケ店のバイト。日中の用事が終わると、日付が変わる寸前まで労働に勤しむ生活を繰り返す。
今にして考えれば、当時の彼女は本当に貧乏だったのだろう。
ほとんど貯蓄がない十八歳のフリーター。そんな彼女の一人暮らしがどれほど困窮していたのか、俺は察することが難しかった。
だから俺は、咲幸が高時給を目当てに行う夜のカラオケ店バイトが、内心どうにも気にくわなかったのだ。
昼夜問わず動き回る咲幸とは、連絡回数が減った。もとより咲幸はメールのやりとりが苦手な奴だ。学生時代も、俺たちはあまりメールでやりとりをしたことがない。
俺もメールは得意でないので、構わなかった。
けれど一日置きにしていた電話も三日に一度となり、やがて週に一回となった。その一回の日ですら、連絡が取れないことがある。
疲れて寝ちゃってたあ、とか仕事長引いてたあとか、他愛ない理由。しかし幾度も続くとどうだろう。嘘でなくとも、都度裏切られた気分にさせられた。
なあ、それ本当か? やがて俺の中で、咲幸に対する不信感が芽生え始めた。
ようやく話せたかと思えば「バイト中にまたお客さんに歌ってーって頼まれちゃってねー」とへらへらし出すものだから、手に負えない。不信や疑念を何周かまわり、呆れた。なんだよ、こいつと。
「スナックじゃねえんだから断れよそんなの」
「本当に忙しい時は断るけど、酔っとる人たちって手ごわいんだよねえ」
ふわふわした雰囲気を醸し出す咲幸は、有体に言えば軽そうなのだ。頭が足りなくて、なんでも受け入れてくれそうな、狙いやすいオーラを全開にしている。隙だらけで身体つきは最高にエロい。
そんな女が深夜のカラオケなんぞで働いていてみろ。絡まれない方がどうかしている。
言い方は悪いが、遊べそうだと歪んだ好意を抱かれる。
ド田舎の地元とはわけが違うのだから、しっかりしてくれよ。内心ため息が出た。俺は彼女が心配で仕方ない。
「帰りは大丈夫なんだろうな? そこそこ距離あるんだろ?」
「うん、でも大丈夫だよ」
ナントカくんが送ってくれるから。
一人で帰るよりは安全だろう。けどなんだかなあ、と胸の奥がもやつく。
俺は彼女とシフトが被るナントカくんという大学生が、嫌いだ。そいつの名前を咲幸の口から聞くだけで、心の中に暗い感情が沈殿していくようでならない。
アルバイトで生活を繋ぐようになってから、咲幸の話題は長い時間を過ごすカラオケ店のことが多くなった。
バイト仲間にはナントカくんを始め、同年代の男が多いらしい。ちょくちょくそいつらが話に顔を出す。
高校時代クラスの男共に人気のあった咲幸が、周りの男にどういう視線を向けられているかは容易に想像できた。
咲幸が纏う空気は勘違いを引き起こさせる。強引に押したら行けるんじゃねの? という。実際咲幸は押しに弱い奴だ。
生真面目ではあるから、ホイホイ遊ばれることはないと信じたい。けれど段々と疎遠になりつつある俺は、自信を失い始めていた。勘違いした人間が現れた場合に、自分が勝てるのかという自信を。
俺のような人間なら、五万といるだろう。
話すたびに不安を抱く。なんだかなあ、という瞬間が増える。重なると、苛立ちにも似た感情が生まれた。
次に会う予定を話す頻度は減り、話題にしても咲幸は休みがない。それがまた不満に拍車をかけたのだろう。
やがて季節が移ろうころには不機嫌さを表に出す俺と、少し困ったように謝る咲幸という構図ができ上がってしまっていた。
なにかが変だ。違和感に悩まされていたのは、きっと俺だけではなかった。
けれど当時の俺は未熟で、それは咲幸も同じだった。
俺は子供じみた嫉妬や淋しさを認められないがために、自分の不満を説明できずにいた。咲幸も咲幸で、俺がなぜ怒っているのかは考えずにただ謝っている。
だから俺たちは根本的な問題を解決できない。すれ違うたびに繰り返すのは、上辺だけの仲直り。あたりまえのように、たびたび祖語が生まれていく。
不安に苛まれながらも、直接会えば解決できるだろうという望みがあった。
そのため俺は夏休みを利用して、咲幸の元へ行くことを決めたのだった。
久しぶりに心から明るい声を出してくれる咲幸。アルバイトもボランティアも都合をつけて、俺との二日間を作ってくれた。ああ、これでどうにかなりそうだと安堵した。
しかし前日に電話越しで謝罪する咲幸の声で、安堵は再び黒く染まる。大学生の子がどうしても外せない用事で休むから、変わって欲しいと頼まれたのだという。他の人も代われないようなので、引き受けてしまった、と。
そんな大学生、どうせ遊びにいくだけだろ。なに真に受けてるんだよ。つーか他に誰もいないって言うけど、どうせ嘘だよ、一人くらいはいるはずだよ。どこまでお人好しなんだよ。なんで自分の用事も『どうしても外せない用事』だって粘ってくれなかったんだよ。
すべての言葉を飲み込み、いいよという声を絞り出した。
「じゃあさ。一週間くらいそっちにいるから、予定空いた時に会ってくれるってのは駄目か?」
なんだ、そのやたらと重い提案は。
今なら冷静に判断できるが、あのころの俺は彼女に会いたくて仕方がなかった。
「へ? こっちにって、どういうこと?」
「いや、だからしばらく岐阜にいるって。さすがに咲幸ん家に居るわけにはいかないから近くのホテルとかにするけど」
「そ、それはさすがに悪いってえ。お金かかっちゃうよ? ウチに居てもいいけど、あたし一日休みになる日が今ほとんどなくて。せっかく来てもらって全然遊べないってのは申し訳ないというか。健一くんだって、バイトあるだろうし」
顔の見えない咲幸が、わずかに動揺していた。
当然の反応で、唐突にされた俺の提案に戸惑いを抱いたのだろう。
嬉しいよ? それは本当に嬉しいんだけどね。
繰り返す咲幸は、彼女なりに俺を傷つけまいとしてくれたのかもしれない。しかし諭すような柔らかい口調が、遠まわしな拒絶にも思えた。すう、と冷たい空気と淋しさが体を流れる。
「あ、えっと、でもね。来月の、うーん……と。んー」
「いいよ、無理そうなら」
俺はどうすればいいのだろう。力ない言葉を残し電話を切った。
咲幸の鈍感さ以上に、俺はどうしようもなくガキだった。
俺たちは高校時代、互いに対する好意だけを育んできた。大切に大切に育てたそれはたわわに実をつけ、俺たちを喜ばせた。
すれ違うこともなく、不満をぶつけあうこともない。不満すら存在しない。俺たちの恋愛は、少しだけ子供じみていた。
だから喧嘩の仕方も、本当の仲直りがどのようなものであるのかも、知らずにいたのだ。
結局のところ俺たちは、噛み合わせがずれた歯車の戻し方がわからずに、無理矢理回し続けようとしてぶっ壊した。それだけの話に過ぎない。




