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メアテボシのあなた  作者: つめ
第二章 大学生篇
20/60

甘く、甘く、甘い

 二人で作ったエビフライは、案の定失敗した。


 腹に入れた切り込みが甘く、丸まってしまったのだ。そして油から引き上げるタイミングも間違え、火を通し過ぎてしまった。

 少し硬くぼそぼそしており、しかし味は悪くなかった気がする。


 幅の広い千切りキャベツと、少々味の濃いみそ汁。決して出来栄えのよい夕食とは呼べないのかもしれない。けれど俺は腹も心も満たされ、もちろん完食した。

 デザートになぜかバナナを出した咲幸は、やはり馬鹿だと思う。


 ベッドを背もたれにして、床に直置きされたテレビを眺める。台座ねえのかよと呆れたけれど、寝転がったままでも見られるメリットがあるらしい。


 咲幸の部屋は意外にも殺風景で、淡い緑で統一されていた。目立つ物は食事をしたテーブルとシンプルなマットレスベッド、テレビ。そしてチェストしかない。

 細かいものは壁沿いに所狭しと平積みにされた天文学に関する本。

 そして床に置かれたノートパソコンくらいだ。部屋の隅で横倒しのまま放置されているルーターが、意味もなく哀愁を漂わせている。

 本当に好きだな、直置き。本棚くらい買えよとは思う。


 異様なのは窓辺にあるプランターで、謎の草が数本ひょろひょろ飛び出していた。なにかと尋ねたら、「万能ネギ」だそうだ。

 意味わからねえよ。一本をちょん切り味噌汁に入れている絵面は、やはりおかしかった。



「テレビ、つまんねえな」

「じゃあTUTAYA行くー? 歩いて行けるとこにあるよ。徒歩四十分くらい」

「地味に遠くねえ?」


 まあ、いいか。腹ごなしがてら。そんなわけで俺たちは外に出た。

 地元よりは都会で、けれど俺の住んでいる街よりは田舎の、中核都市。ここでは星が見えないのだと、咲幸は少し寂しげだった。


 彼女と夜の街を訪れるなど、高校時代では考えられなかったことだ。今ではそれが普通になり、時の流れを感じる。

 排気ガスと生ぬるい大気の混じる知らない街は、どこか大人になった気分を味わわせてくれた。


 俺たちは自然と手を繋ぐ。夜に背中を押されるのだろうか、甘えたように距離を詰める咲幸が可愛かった。肩で俺を押して遊ぶのだ。思ったよりも力強く、俺は一度転びかけた。

 そして唐突に咲幸は、アイス食べたくなってきたなあ、とか呟くのだ。まだ食うのかよ。


 歩き過ぎて上気した体に、少し冷えた玄関が心地よかったことを憶えている。

 お風呂入ろっか。熱っぽい声が、鼓膜を揺らす。汗ばんだ首筋に貼り付く髪をかきあげる咲幸は童顔で、けれどどこか艶やかだった。


「一緒に?」

「もー、健一くん本当にすけべ」


 男は大概すけべなものだ。弁明しても、俺のは特段ひどいと言い切られてしまった。他の男など、知らないくせに。

 開き直って頼み込んでみると、咲幸は恥じらいながら了承してくれた。

 先に入って体を洗いたいから、と脱衣所に消えていく咲幸は、なんだかんだで押しには弱い。

 俺は喜びのあまりズボンとパンツを同時に脱ぎ捨て全裸になったけど、それから随分待たされた。


「なあ咲幸ー」

「んー?」


 狭い浴室はいやに俺たちの声を反響させ増大する。

 髪の毛についたシャンプーを落とし終え、俺は浴槽につかる咲幸に向き直った。


「胸で身体洗ってほしいんだけど」

「えいや!」

「いてえ」


 手で作った水鉄砲が顔面に直撃。びゅっと音を立てる勢いで目に入る。狙って打ち込んだのだ、俺に手を上げたことのない咲幸が。しかし俺は反省をしない。

 これまた拝み倒すと、結局はいつもの「いーよ」の声とともに、咲幸は俺を受け入れてくれる。


 咲幸はちょろい、とほくそ笑んでしまう時がある。

 普段は幼い雰囲気を醸し出すくせに、彼女は俺が子供になるとお姉ちゃんの顔を覗かせるのだ。

 弟のワガママを許してしまうような、お姉ちゃんの顔を。


 男のロマンでもある行為は、恐ろしく背徳的でもあった。

 ものの数秒で変な気を起こした俺たちは、だいぶきわどい行為に手を伸ばす。

 咲幸の甘い声が浴室で反響して、俺の脳みそを殺しにかかるのだ。

 へらへらとろとろと溶かされていく。あー、排水溝に俺の脳ーって。それで俺はタガが外れてしまったのだろう。


 エロに支配された俺のストッパーは咲幸なのだが、彼女も大概だ。脳足りんだから、乗せられやすい。

 そして抑制の効かなくなった俺たちは、最後までする? だめだよー、という会話をこの七十倍ほどアホなテンションで繰り広げている最中に、うっかり泡で足を滑らせた。

 二人して頭を床と壁に打ち付け、浴室が激しく揺れる。正気に戻った。咲幸は二分ほど本気で気を失っていた。素っ裸で。

 この世で最もアホなのは、エロいことをしている人間だと思う。



「ねえ、健一くん。パンツくらい履かん?」


 頬の赤みがまだ引けていない咲幸は、アイスを口に運びながら目のやり場に困っている。


「風呂一緒に入ってなんで恥ずかしがるんだよ」

「そういうんじゃなくてさー。っていうかDVD、これ思ったよりつまらんねえ」

「ああ、だよな。誰だよこれ選んだの」

「健一くんじゃん」


 唐突な展開が続く洋画を目に、一つのバニラアイスを咲幸とつつく。なにもかもを晒した俺の姿に咲幸はチラチラと視線を寄せるが、俺としては咲幸のズボンの方が気になってしまう。


 どこかで見覚えが、と思えば高校ジャージだ。それはいいとして、盛大に空いたはずの膝の穴には、大きなエビフライのアップリケがあてられていた。顔と手足がついている。子ども向けのキャラクターだろうか。

 というよりどれだけ好きなんだ、エビフライ。


「あ、健一くん! 落ちる」


 エビフライを注視しており、手にしていたアイスの存在を忘れていた。突如走った刺激に、変な声が出る。胸元にアイスが筋を作っていた。


「ほらー、服着んから」

「いや、服着てた方が悲惨だったろ」

「えーとティッシュティッシュ……ありゃ、終わっちゃった」


 クローゼットを漁り始める咲幸の背中に声を投げる。


「なあ、咲幸。これ、舐めて」


 振り返った咲幸は、ティッシュ箱を手に無言。表情はいつも通り穏やかだ。数枚引き抜いたティッシュを手早く丸め、未経験丸出しの投球フォームを作った。


「ピッチャー振りかぶってえ、投げたあ!」


 ひょろひょろの軌道で、目の前にティッシュ玉が落ちる。開いて鼻をかみ、ゴミ箱に放った。


「舐めてって」

「スルー!? もー、健一くんおかしくなっちゃったよお」


 大袈裟に慌てる咲幸は、それでも俺の横に跪く。おずおずと顔を近づけて、小さな舌先でアイスを掬い取ると喉を鳴らした。温かな舌が走る感触に身体が震える。官能というより、犬っぽかった。


 どこまで許されるのかと腹と股間にもアイスを垂らしたら、普通に怒られた。

「食べ物で遊んだらあかんよ!」って。そりゃ、まあ、そうだろう。


 それでも俺はヘラヘラしたまま床に転がり、日常的な行いであるかのように咲幸の膝に頭を乗せた。

 あれ、全然見てねえうちにまた一人死んでんな。ようやく視線を移したDVDは、くそつまんねえ。


 鼻腔をくすぐる石鹸の匂いは、俺も同じものを使ったはずだがきっと俺からはしないのだろう。体温の高い咲幸の太ももは熱を帯びている。


 当時の俺は脱線してもなお走り続ける暴走機関車だった。咲幸の寛容さに甘えて、やりたい放題だった。放出しまくる欲望はとどまることを知らない。アホですけべで、そしてアホだった。


 あそこまで俺をアホなすけべ野郎にならしめたのは、咲幸だけだ。

 俺はその後付き合った誰とも一緒に風呂へ入ろうと提案したこともなければ、まして胸で身体を洗ってもらう願望を抱くこともなかった。体を舐めて欲しいなどと言い出すことも、膝枕を要求したこともない。


 若かったせいもあるのだろう。けれどそれ以上に俺は、彼女が持つすべてを受け入れてくれる寛大さを、妄信していた。

 今になってわかることがある。俺が押せば咲幸が折れてくれると思っていた関係だが、実際のところ俺は底なし沼のような咲幸の包容力に、飼いならされていただけなのだ。


 咲幸はこんなアホな甘ったれ男の、どこが好きだったのだろう。



「健一くん、髪型変えんの?」


 無造作に伸ばしただけの俺の髪に手櫛を通しながら、咲幸が声を落とす。


「もう校則もないんだし、染めたりパーマかけたりできるじゃん?」

「まあ、そうだけど」


 このころになるとさすがに、俺も自分を客観視できるようになっていた。これ、ただの陰気だな、と。

 それでも変えていなかったのは、咲幸が好きだと言ってくれたからだ。

 口に出すのは気恥ずかしく、黙り込んだ。例えば咲幸が忘れていたら、俺はただ痛々しい奴になる。


「いいよ。下手なことして将来ハゲたくねえし」

「え? 染めたりするとハゲるのー? 怖いねえ。あ、毛染め液に育毛剤入れたらいいんじゃないかなあ」


 呑気な咲幸が、でも健一くんは今のままがいいね、と続ける。


「あたしはこの髪型好きだよ」


 ほら、やっぱり忘れていた。


「あれ? って、前も言ったけえ? これ」


 風が吹けば飛ばされそうな軽さで、咲幸は欠伸をかみ殺していた。眠気も合いまったら、弱い頭は溶けてしまうだろう。


「咲幸は変えないのか?」


 栗色の全体にウェーブがかった柔らかな髪。特に毛先は空気を含みながら、先端に向かい渦を巻いている。肩先をわずかに隠すその髪型は、出会ったころから変わらない。

 先ほど風呂に入った時、しぼんでストレートになっていたのは、新鮮だった。


「つーか、それ地毛だよな。今更すぎるけど」

「地毛だよう。癖毛だって。頭髪検査も地毛って言っても全然信じてもらえんの」

「癖もそうだけど色も地毛に見えないからな」


 大きな黒目も明るい色を宿しているので、恐らく体質なのだろう。


「ひどいよねえ。みつをさんも言っとったよー。みんな違ってみんないいって」

「みすずな、それ」

「パーマかけて真っすぐにしようかなあとも思うけど、お金かかるんだよねえ」

「そのままでいいよ」


 わたあめの欠片のような髪は、咲幸の雰囲気によく合っていた。


「それよりもうちょっと長くしたの、見たい。俺、ここらへんの長さが好きだわ」


 胸元に手を伸ばす。そのまま主張の激しい胸を手に納めようとしたけれど、全然納まらないうえにまた怒られた。


「うーん、伸ばすとどんどん髪の色明るくなってまうからなあ」


 でも伸ばしてみようかなあ。

 いつもより近くにある甘い声は、わずかなまどろみを引き寄せる。


 咲幸と過ごす時間は、いつもまったりとしていた。本当にまったりという言葉が、一番当てはまる。春の昼下がり、日向で寝ている気分になる。縁側で座っている世のジジイは、こんな気分を味わっているのだろうか。


 春霞をした空に昼を告げる鐘が鳴り響いたある日、ふと今日はいつまでも大気にとどまって音を広げていると感じる時がある。

 それと同じだ。

 咲幸といると、世界の流れが遅い。もしくは現実とは別のどこか、のんびりとした時間が流れる場所に押し込まれたような錯覚に陥る。


 そしていつも、心がポカポカと温まっていくのだ。真冬に入るこたつ、朝に出たくない布団。幸せな温もりが、いつもある。



 そんなわけで高校を卒業しても、相変わらず俺たちは俺たちだった。

 数百キロの距離を隔てても問題なく想いを通じ合わせていられた。ヨユーじゃん、会えない時間が愛育てるのさ~と、なんとまあ、呑気な脳内をしていたことか。


 実際に俺も咲幸も、充足した日々の中にいたはずだ。

 あの生活が翌年も、そのまた翌年も続いていたのなら。そして変わることなく俺が卒業を迎えていたのなら、俺が彼女に将来を語るいつかが、あったのかもしれない。


 けれど、浮かれた思考を吹き飛ばすかのような台風が過ぎ去った夏の盛り、咲幸は職を失った。

 その時から静かに、俺たちの関係は狂い始めたのだ。

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