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メアテボシのあなた  作者: つめ
第一章 高校生篇
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千國咲幸という女

「じゃあこの問題は……千國」


 千國咲幸は授業を大喜利大会に変える天才だった。


 彼女が指名をされると、笑いがふつふつと細かな気泡となって、机や黒板、窓へ床へと張り付きながら教室に満ちていく。携帯をいじっていた奴も、狩りに夢中だった奴も、その瞬間だけは顔を上げる。


 Time and tide wait for no man.

 黒板に踊る文字は、まさに俺たちにふさわしい。


「え? た。てぃ……えっと。た?」


 とぼけた声に、早くも笑いの泡が弾けた。

 咲幸は「わかりません」を口にしない。テストでも無理やり空欄を埋めるタイプだろう。

 

 左右のを眉ダンスさせながら眉間に皺を寄せ、厚い唇で描くのは、不格好なへの字。


「うーん。ティムと、ティダー? は、わ、ワァイ? ウェイ?」


 堪えきれず、壇上の教師が真っ先にギブアップ。次々に笑いは伝播していく。

 

 県の外れにぽつりと捨て置かれた公立校。行く宛てのない者が流れ着く、最果ての地だ。

 奴らは誰も、正答などわかってはいない。


「もういい。次、友田」


 ティムの余韻が残る中、咲幸はひとり唸ったあと、口と両目を同時に開いていた。


「あ! タイムだ!」


 いつから高校は、義務教育をすっ飛ばしても入れる場所になったのだろう。

 千國咲幸が『学年一の馬鹿』の称号を得てから、一年が経つ。


 タンポポの綿帽子みたいに浮ついた咲幸は、うっかり風に乗りそうな面を晒して、授業中も明後日の方向を眺めていた。時々舟を漕ぐ。

 空気をふんだんに含んだ声で喋り、豪華な昼飯をCMのごとく、にこやかに食べている女子。

 脳の栄養を吸い取ったのか、胸が大きい。


 隣の席の女については、それくらいしか知らなかった。

 喋ったこともなければ、関わる予定もない。


 彼女のような頭の緩い人間と俺の人生が交わるなど、よほどの『大事故』が起こらない限りはありえない、そう思っていた。

 しかしあっさりと『大事故』は、ささいな出来事としてやってきた。


 一度だけ、咲幸が大喜利大会を放棄した授業がある。

 世界史の藤岡――通称バーコードは、指名した生徒が正答に辿り着くまで立たせておく、ねちっこい陰湿教員だった。


 授業など寝ているか鼻くそをほじっているかの連中も、世界史だけはしぶしぶ教科書を開く。

 あの日、頭が読み取り不可のバグを起こしていた藤岡は、いつにも増して機嫌が悪かったのだろう。

 

 早々に立たされた咲幸は、なんとほぼ一時間、その状態で授業を受けていた。

 体罰的行いも、教育だと言われていた頃だ。


 ふと気まぐれで横を向くと、俯いた彼女の顔が真っ赤に染まっていた。

 熟れたイチゴ、道端で実をつけるスグリ。

 二重に縁取られたどんぐり眼は焦点が定まらず、どうやら具合が悪くなってしまったらしい。


 しかし咲幸は無言で立ち尽くしている。素行の悪い生徒が机に尻を乗せている傍ら、しまった椅子の背もたれに手を添えて。

 拙い丸文字が並ぶノートに、虚ろな視線を這わせながら。


 ぽってりとした瑞々しい唇を、小さな八重歯で甘噛みしていた。

 深呼吸でもしているのか。一定間隔で動く胸元は、ブレザーに収まりきっていない。

 上下する二つの膨らみは、大袈裟な大自然の営みに似ていて、いい。とにかく自由で、目が吸い付いていく。

 学年でも一番の質量を誇ると噂のソレは、猿と違わない男子高生には少し刺激が強くもあった。


 当の本人は、再び指名をされ焦っている。

 忘れもしない、あの問題。

 

『「神の国」を著したキリスト教の教父と呼ばれる学者は誰か』。


 まごつきながら、咲幸は熱っぽい吐息を漏らした。

 なぜか身体をよじらせて短いスカートを翻すから、肉厚な太ももがそのたびに覗き、授業とも大喜利会場とも別の雰囲気が作られていく。


「わかりません」


 蟻のささやきよりかすかな声は、あの時俺の耳にだけ入ったのかもしれない。

 瞳が静かに潤む。

 エロに傾いていた俺の心が、痛ましさに支配された。

 おい藤岡、いい加減にしろよ。

 声を張る代わりに書きなぐったノートの文字は、いつもより荒々しい文字が散らばった。


「ちぐに」


 そっと声を潜めた日。

 初めて、彼女の名前を呼んだ日だ。


 俺に向いた双眸は、心からの歓喜、泣き出す寸前のごちゃごちゃとした感情を詰めた、子どものラクガキに見えた。

 色とりどりのクレヨンで描いた、賑やかな輝きに呼吸を忘れる。


「……あ、あうぐしゅ、てぃにゅしゅ」


 もはや別人になってしまった回答で、教室は笑いに包まれた。

 日常に帰る空気の中、俺だけが隣で揺れる栗色の髪を追いかけていた。ちぎれた綿雲のような、柔らかなうねり。


「萩乃くん」


 舞い降りた声に顔を上げると、石鹸のにおいと爽やかな甘さが鼻をつく。

 俺の席に手を添えてしゃがみ込む女は、先ほどまでの様子は夢だったのか、晴れた満面の笑みを浮かべていた。


 顔色も通常、むしろ良好。

 あれ? 元気じゃねえか、と首を傾げた俺に、咲幸は話し掛けられた理由を知りたがっているのかと勘違いしたらしい。

 もう一度はにかみ、


「さっきはありがとうね」


 と小さな手のひらを差し出した。

 少し短く、ずんぐりとした丸い指が並ぶ。小学生と変わらない幼げな手には、ピンクの飴玉が一つ乗せられていた。


「これ、お礼。甘いもの嫌いじゃない?」

「あ、ああ。……別にいいのに」

「助かったよー、ほんと。救世主萩乃様~って感じ」

「具合、悪かったんじゃないのか?」


 俺の疑問に、咲幸は忙しなく両手を振る。


「危なかったよー。めっちゃトイレ我慢してたの! ずっと!」


 マジで漏らしちゃいーそうな、授業中の五秒前―。へらりとした響きの替歌は、無駄に高い歌唱力のせいか腹立たしい。

 俺はため息とも呆れ声ともつかない、半端な息を鼻から抜けさせた。


「萩乃くんはやっぱり頭、賢いんだね」


 おまえはやっぱり馬鹿だ。


「そうでもないけど」

「ありがとう。萩乃くんって、本当は優しいんだ」

「本当は、ってなんだよ。いつもキレてるとでも思ってんのか?」


 胸に納めていたつもりの声は、口をついて出てしまっていたらしい。咲幸は一瞬戸惑い、しかしすぐに口角を上げた。春の芽吹きを予感させる笑顔だった。


「怒ってるわけじゃないの? じゃあ、話しかけても平気だね」


 どこか噛みあわない会話を終えた咲幸は、綿毛の軽やかさで隣の席に着いた。

 彼女が座る時、机も椅子も耳障りな音を立てない。本当のことだ。ふわりと、身体を滑り込ませる。


 同じクラスで過ごして一年。隣の席になり一ヶ月。

 初めて言葉を交わした千國咲幸は、予想通り甘ったるい声で俺の名前を呼んだ。


 あの日貰った飴玉は甘酸っぱく、多分スモモかなにかだったのだろう。

 あまり美味しくはなかったくせに、俺はいつまでもいつまでも、舌先で優しく転がし続けた。

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