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メアテボシのあなた  作者: つめ
第二章 大学生篇
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いつかその瞳で

「エビの尻尾って、先の部分を切り落とさないといけないんだって」


 じゃないと油跳ねちゃうから。

 隣で包丁を扱う咲幸の手つきは、予想以上に滑らかだった。料理が下手なのは謙遜で、案外できるのではないだろうか。


「面倒だし尻尾全部切ればいいんじゃねえの?」

「駄目だよ、尻尾もおいしいんだから」

「だからそこ、ゴキブリみたいなもんだから」

「おいしければゴキちゃんだっていいもん」


 いや、よくはないだろ。


 エビはすぐに揚げられるわけではないらしい。背ワタだの腹ワタだの取る下処理が、地味に面倒で手こずる。横で手伝う俺は、うっかりつまようじでエビを串刺しにしてしまっていた。


「咲幸、普通に上手くねえ?」

「んー? そうかな? こういう下準備みたいのは結構やってきてるの。ほら、ウチ実家が民宿やってるじゃん? 料理も出すからさあ」

「あー、母さんが料理人なんだっけ」

「そうそう。忙しい時期は手伝いでやらされてたことあったもんでね。でもあたしぶきっちょだで、しょっちゅう下手って怒られとったなあ。妹の方が上手なの」

「なるほど。……って、小学生の妹に負けてるのかよ」

「そうなんだよねえ。威厳ゼロよ」


 丸っこい指が握るつまようじは、そこそこテンポよく背ワタを取っていく。これでも下手に部類されるのか。よほど妹が器用なのだろう。


「親はあたしか妹に継いでもらいたいみたいだけどね、民宿。妹の方が向いとるだろなあ、賢いし。……あの子、地元あんま好きじゃないから外出てってまうかもだけど。あたしが関わったら潰れるだろうなあ」


 てへへへ、といつものだらしない笑みが漏れる。


 咲幸は恐らく、心から家族が好きだ。両親にはいつも馬鹿だと怒られているらしいが、家族のことを語る咲幸の目は優しい。


 俺に向けられるものももちろん温かさを孕んではいるけれど、それとは少し違う。いつか咲幸もこの瞳で、誰かに俺のことを語るのだろうか。

 勝手な想像はこそばゆく、苦しさを覚えるほど幸福だった。どうしてか、心臓をきゅっと掴まれたような痛みすら伴う。


 そんないつかを、なにがなんでも手に入れたい。切なさをも含む想いが、気持ちを高ぶらせたせいだろう。


「なあ、咲幸」


 結婚したい。

 ふと口をついてしまった。その言葉は、一瞬の輝きを放ち、流星の静けさで大気に消える。


 エビの背ワタを取りながら言うことじゃねえだろ、と呆れた。咲幸なんて驚いた拍子に、エビの胴体を真っ二つに切断しちまった。しかも縦にだ。ありえないだろ。


 古びた換気扇がポンコツじみた鳴き声をあげている。それがまた狭い台所に、やたらと響く。さきほどまでは気にも留めていなかったはずなのに、沈黙が訪れた途端に耳障りな爆音と化した。


 ガラガラキーキーガラガラキーキー。本当にうるせえな。

 俺の心を読んだわけではないだろうが、背伸びをした咲幸が無言のまま換気扇を切る。


 学生の口にする結婚という単語は、どうにも薄っぺらい。リアルではなく、それはままごとの中で語られるみたいだ。


「そういうの、簡単に言ったらあかんよ」


 視線をまな板から離すことなく答えた彼女も、同じことを考えたのかもしれない。

 咲幸は俺よりずっと馬鹿で、けれど生真面目だ。生真面目で、本当は俺よりもずっと大人なのだ。それは一足先に社会人になってしまったからだけではないのだろう。


 簡単じゃねえよ。拗ねる子供になりかける俺に、咲幸は向き直る。


「でも、嬉しい。あたしもいつかね、健一くんと結婚したいって思っとるよ」


 長いまつ毛に縁取られたどんぐり眼が、今日も三日月になる。わずかに赤みを帯びた盛り上がる頬。厚い唇の隙間からは、いつもの八重歯が覗く。


「だでね、もっと大人になったら、もう一度言って欲しいな」


 エビとつまようじで両手が塞がっていなければ、俺は咲幸を腕の中に入れていた。どこもかしこも肉付きのよい身体を堪能して、そのまま押し倒してしまってもいい。

 いやに生臭さが満ちる台所の、剥げかけた床板の上でも俺は彼女を抱ける。


 けれど今日はやめておこう。こいつ、包丁手にしたままであぶねえし。


 しかし俺はこの瞬間、夢ができた。咲幸のために生きたいと誓う。漫然と日々に流されていた俺が、初めて抱く本気の夢。


 卒業文集に綴った夢を咲幸には諦めないで欲しいと願ったが、俺自身のことはどうでもよかった。なにせ忘れるくらいのものだ。

 この前アルバムを引っ張り出して確認したところ、十二歳の俺はNBAプレイヤーを志していた。


 あのころのヒーローは田臥(たぶせ)で、彼に次ぐ者になれると信じていた気もする。でも中体連の県大会で敗退したハギ少年は、もうその夢を追いかけてはいなかったのだろう。証拠に、俺は高校入学を機にバスケを辞めた。


 だから俺の将来は月並みでいい。ありふれていてもいい。

 生涯、俺の隣に咲幸が寄り添ってくれるのならば。


 大学を出て働き、親の援助に頼らずとも生きていけるようになったいつか、俺はもう一度彼女に今の言葉を告げるのだろう。

 今度はままごとみたいなものではなく、現実味を帯びた雰囲気を纏い。


 リアルな結婚にはきっと、両家の挨拶だの書類上の手続きだの、生活していく金のことだの煩わしさがまとわりつくのだ。うっかり意見のすれ違いから喧嘩をしてしまうこともあるかもしれない。

 けれど俺も咲幸もちらちらと相手を気にして、結局仲直りする。丸く収まる。


 正直なところ、俺にはやりたい仕事なんてものはない。それでも構わない。普通の企業に就職して、目の前の仕事を懸命にこなしていく。どんな理不尽に押しつぶされそうになっても、上手く立ち回る。

 できればそこそこの役職について、彼女を養っていきたい。やがて生まれるかもしれない子供も含めて。


 そうして家を買う。閑静な土地に、ありふれた一軒家。風呂は大きい方がいい、子供にも一人部屋を持たせてあげたい。

 ローンやべえとか憂いながら、俺は建ち上がっていく家を待ち切れずに幾度も足を運ぶのだろう。そのたびにニヤニヤとして、仕事をもっと頑張ろうと意気込む。

 雨じゃねえか家は大丈夫かよとアホみたいに騒ぐ俺に、「健一くんは心配性だねえ」と咲幸は呆れたような笑みを向けるのだ。


 俺と咲幸は、週末に近所の公園やイオンモールをぷらぷらする家族になる。

 吐いて捨てるほどいる世界の一部になるのだと思う。


 バスケ選手にはなれなくていい。卒業文集に綴った夢は、夢のまま終わらせていい。

 ただ今この瞬間に抱いた想いだけは、現実にしていく。


 そんな俺をクソつまらない男だと、クソつまらない人生だと煽る奴もいるのだろう。好きに言わせておけばいい。

 この恋愛の延長線上に彼女との生活が描けられたら、それが一番幸福なことだ。


 湘南乃風まがいな心の内を飲み込んで、隣の彼女を覗き見る。

 咲幸は真剣な顔つきで、エビの尻尾をこそげ落としていた。咲幸は集中すると上唇が少し尖ってめくれる。それがまたアホ面を助長していて、俺は好きだ。


「俺、一生懸命働くから」


 咲幸を幸せにするために頑張るから。

 呟く俺は、少し重かったと反省する。けれど咲幸は穏やかな春風の笑顔で、俺に尋ねた。


「じゃああたしは、健一くんのためになにをすればいいかなあ」


 厚い唇をへの字に曲げて、目を細める。授業中に指名をされた時、いつもしていた変顔だ。この顔の咲幸は、ロクな回答を導かない。

 そうなる前に俺は、答えをそっと差しだしてあげなくてはいけないだろう。高校時代あのころと同じように。


「咲幸は、ずっと俺のことを好きでいてくれればいいよ」

「えー。あたしの方が簡単で、こすいねえ」


 得意げな笑顔で、咲幸はなぜか再び換気扇をつける。ガラガラキーキー、変わらないその声は先ほどより不快ではなかった。


 咲幸は頭が弱いから、難しいことを言ったら混乱するかもしれないだろう。


 ……ああ、よく見れば俺が背ワタを取ったエビ、ぐちゃぐちゃじゃねえか。それでも咲幸は、絶対に笑ってくれる。


 十年後も二十年後も、こんな風に二人で不格好なエビフライを作っていたい。

 つまるところ俺の夢は、彼女と家庭を築きたいということだ。


 特別な日に二人でエビフライを作る生活は、少しの油臭さと幸せの匂いが染みついているのだろう。

 俺はその人生でいい。その人生がいい。

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