会えない時間が愛育てるのさ
新生活が始まりしばらくは、慌ただしくも充実した日々が続いた。
新鮮な一人暮らし。それなりにハードなスケジュールで講義を受け、無理のない程度でバイトを始めた。
なんだかんだで俺はバスケが好きで、緩いバスケサークルにも所属した。
夜は咲幸とわずかなメールを交わす。一日置きに電話でも近況を報告し合った。
学生と社会人では生活が大きく異なり、互いの話を聞くことが新鮮だった。咲幸がどこでどんな仕事をして、なにを思っているのか。ゆったりとした口調で告げられる時間が、待ち遠しい。
仕事のほとんどは雑用らしいが、好きなものに関わりながら生活をしている咲幸の声は、いつも覇気に溢れていた。
五月になると、大型連休からずらした休日に咲幸と遊んだ。地元に戻り、訪れたのは思い出のプラネタリウム。
会えない時間が愛育てるのさ。歌い出してしまいそうなほど、俺は久しぶりに会う咲幸を前に舞い上がっていた。咲幸もいつも以上にへらへらと弛んだ顔つきをする。
その反動か、別れ際に押し寄せた淋しさはいつまでも俺たちを繋ぎ止めた。
「まだまだ全然話足りないねえ」
「……だな」
「あと十五分帰るの遅くしちゃう?」
「俺はいいけど、咲幸は大丈夫か?」
「んー、いーよ。遅くなるって言ってきたし」
健一くんともっと一緒にいたい。
初夏の夜風に、咲幸は素直な甘い声を溶かす。
このやりとりも実はもう六回目だ。俺たちは人気のない公園の駐車場に車を停め、時間の許す限り指先を絡め続けた。遠くの街灯が、血色のよい咲幸の肌をわずかに青白くさせている。
車、というのは春休みに免許を取得した咲幸が運転するもので、母親から借りてきたみたいだ。コンパクトカーに、シトラスの香りが満ちている。
これなら帰り遅くなっても大丈夫じゃん? とご機嫌な咲幸の横顔は可愛かったが、助手席に座りっぱなしの絵面は少々情けない。俺も免許を取ろうと誓う。
タイムリミットが迫るたびに、次の予定を転倒寸前の前傾姿勢で俺は訊いた。
俺と異なり、咲幸には土日休みがない。彼女が働く科学館の定休日が、月曜日だからだ。加えて立場的にも希望休の申請はしづらく、俺たちは休みを合わせることが難しかった。
その中でどうにか連休を作ってくれた咲幸に答えようと、俺も一日だけ自主休講を決め込み、彼女の住む街へ足を運んだ。
***
真夏日と予報された、六月の中旬。
改札口の向こうから子供みたいに手を振る咲幸を目にした瞬間、俺のテンションは跳ね上がる。
彼女の家でお泊りデート。寝不足になるくらい高揚したことなど、初めての遠足以来だ。
「健一くん健一くん、健一くんだー! 健二くんかもしれないー!」
何回呼んでも俺は健一だよ。誰だよ、健二。
咲幸は後ろで結んだ髪を躍らせて、俺に駆け寄ってくる。大きな瞳に溜めた、いっぱいの光。デートのたびに犬みたいだと、微笑ましくさせられた。
その勢いのまま抱き着いてくるのかと思えば、目の前でブレーキを掛けた。咲幸は案外人前だと恥じらう。
日中は映画を見て、咲幸がよく足を運ぶ場所を案内してもらった。
街の中心には、海へと続く大きな河が流れている。休日に音楽を聴きながら川辺を散歩をする時間が、咲幸のお気に入りらしい。俺もそれに習う。
青空を映す緩やかな水面を眺めながら、俺たちは行き先も決めずに歩いた。
「ほんっと暑い。やばいよー、これ真夏死ぬかもしれん」
「この街だと笑えねえ冗談だぞ、それ」
河の泥臭さと草の青臭さ。とにかく気温が高かった。生温い風が夏の匂いを運ぶ。
つないだ手はすぐに湿ってしまい、時々離しては心地よい緑風に晒した。咲幸は暑がりの汗かきで、途中から前髪を上げ、玉のような光を額に浮かべていた。
河川敷にはいろいろな植物が群生しており、どれも咲幸のお気に入りらしい。
雑草だけど、イチゴの花みたいで可愛いでしょ。あれがノイバラ。
白い花弁ちらちらと連なる低木を指差し、咲幸は歩く。
草花を愛でる趣味など俺にはないが、気が付くと頬が緩んでいた。
おやつ時を過ぎるとカラオケへ向かう。
カラオケは天体以外ほとんど趣味のない咲幸がする娯楽の一つで、すでに常連になっているらしい。受付で店員と親しげに話をしていた。
相変わらず咲幸の歌は上手い。
やがてレパートリーも尽きてきたのだろう。なぜか床にしゃがむ咲幸は、肘も肩も胸もテーブルに預けて少し退屈そうにデンモクをピコピコさせている。薄まったコーラを飲み続ける俺の横で。正面に回ればスカートの中、見れるんじゃねえの、と煩悩丸出し男の思考には気づかない様子で。
「あ、そーだ。健一くん、デュエットしようよ」
そんな高度なものができる気はしないが、咲幸が乗り気なので無下にはできない。
「いいけど、俺の知ってるやつにしてくれよ」
「じゃあHYはどおー? あたし366日とか好きだな」
「……いや、それはよさねえ?」
彼氏とのデュエットでする選曲じゃねえだろ。本当に頭空っぽなのか。
「AM11:00にしておこうぜ」
ラップなどできないくせに、俺は恰好をつけて曲を入れて速攻で後悔。
案の定途中でへばった俺は、紳士的にはなれず盛大な咳をマイクに乗せることになる。しかし間髪入れず、トーンを落とした咲幸の声が部屋の空気を震わす。そのままサビ手前まで引き継いでくれた。
咲幸の刻むラップに比べると、俺のはノリノリな読経。いっそここを俺の葬式会場にしてくれ。
落ち込む俺を横に、咲幸はモニターに寄せていた視線を一瞬だけ逸らす。
でも君が好き。さりげない流し目を使う。
なにも考えていないくせに、絶妙なタイミングで胸を打つ仕草を挟み込んでくる。侮れない奴だ。
マイクを持つ手の小指が立っているところは普通に可愛いし。
圧倒的な歌唱力の差で、終始俺が足を引っ張り続けていた。
それでも咲幸は歌い終わると、マイク越しにハイテンションで叫んだりするのだ。
「健一くーん、かっこいー!」
うるせえ! ハウリングしまっくてるじゃねえか。
カラオケ店を出るころには日も傾き、夕飯の話題をする咲幸に俺はすかさず手料理を所望した。
「あー……うん。手料理かあ」
んー、あー。忙しない夕暮れの街並とは正反対に、間延びた声で歯切れの悪い返事を重ねる咲幸。
「あの、ね。あたしはいいんだけど、そのー。ぶっちゃけですねえ、あたし」
料理が、下手でして。
手遊びを繰り返しながら視線を泳がせる咲幸が、あからさまに恥じらっていた。
「多分、健一くんがっかりすると思う。河原散歩しながらねえ、どうにかバレん方法ないかなあとか考えとったけど、ないじゃんねえ。カラオケしとる時はすっかり忘れてて」
ああ、通常運転のアホだ。
「で、でもね。別に味がすごく悪いとかじゃなくて、食べられはするよ? ただあんまし美味しくないというか、あと見た目もちょっとアレで。あの、えっと、今は練習中、というか」
しばらく押し黙ったあと、バツが悪そうにごめんねと小さく謝った。夜へと向かう町の喧騒に、咲幸の声が掻き消える。
付き合って初めて晒すその姿は、驚くほど新鮮だった。
馬鹿を極め、どんなアホをやらかしても「あー、やっちゃったねえ、てへ」と開き直る咲幸が、自分の欠点を隠そうと、取り繕うと必死になっている。
彼女も人並みの女なのだと、言うまでもないことを実感させられた。
いじらしい姿に免じて、どれほど不味い飯が出てきても許せてしまうだろう。
「別に俺は気にしないけど。俺も料理できねえから」
これは本当だ。俺の自炊といえば米を炊くかお湯を沸かすくらいのものだった。ぶっちゃけてしまえば包丁すら買っていない。
だからこだわりはないと、食べられればなんでもいいと告げる。
俺の母さんも料理美味くねえし、とフォローの言葉を口早に並べ、それでも咲幸の料理が食べたいと懇願した。
「うーん、なら作るけど。なに食べたい?」
「エビフライ」
「いやいやいや、いきなりそんな難易度高いもの言わんで」
「売ってるじゃん。スーパーに揚げるやつ」
「あれを手料理って言っておっけーならそうするけど」
「たしかに、それはなんか違うな」
やっぱエビから作るやつで。
訂正すると「ええ、養殖う!?」と馬鹿みたいなボケをしやがって、俺たちは街中で声を上げて笑った。
「せっかくのエビちゃん駄目にしちゃったら勿体ないなあ」
「大丈夫、どんなもの出てきても絶対食べるから」
でも待って、本当に失敗するかも。大丈夫だって! 押し問答に近いやりとりを十回ほど繰り返したあたりで、いっそ一緒に作ればいいと咲幸の手を引く。
俺の方が料理はできないだろうから、責任は八割負担でいい。もちろん食費も全部す。
大丈夫を連発し、強引にスーパーを目指す。
夕闇を突っ切り、俺は浮かれていた。手を引かれて半歩後ろを歩く咲幸も、段々と声色を明るくする。
彼女と行くスーパーは最高のデートスポットかもしれない。ただしとろとろ歩いていると、OLの姉ちゃんや仕事帰りの疲れたリーマンにガンを飛ばされるので要注意。
首筋の汗を冷やす冷房に一息つくと、店内には日常が満ちていた。
二人の時間を自然に日々の暮らしに溶け込ませた時、俺は彼女と生活をしているのではないかと錯覚した。
「やべえ、エビたけえ! エビこんなにするのかー」
盛り上がりながら、俺は籠を引っ提げて咲幸の後ろをついていく。
ねえ、おやつも買っていい? 幼子のように服の裾を引いた咲幸が、ベストショットだった。しかも持ってきたものがバナナで、俺は噴き出す。バナナはおやつに入らねえよ。
幼稚さを前面に出しながらも、俺が酎ハイ缶をさりげなく籠に入れると、真剣な顔つきで口を尖らせた。
あかんよう、と眉を上げる。いつの間にか中身はノンアルコールビールにすり替わっている。咲幸はへらへらしながらも、かなり生真面目な奴だ。そういうところもいい。
酔った彼女を見たいのだとは言い出しづらい。アルコールもないビールなど飲む気にはなれず、戻してコーラを入れた。
家に帰り、こぶりな冷蔵庫の前で咲幸はもたついている。転がった玉ねぎを追いかけていたかと思えば、卵のパックを落としかけており慌ただしい。
しゃがみ込む後ろ姿は全体的に丸っこい。押したり蹴ったりすればきっと転がってしまうだろう。いい感じにコテ、と。ちょっと興味が沸くけれど、我慢する。
背後から抱きしめたらすべてが腕の中に納まってしまいそうで、たまらない感情に従いそちらは実行に移す。本当にすっぽり入ってしまった。俺も咲幸も汗ばんでいて、胸元と腹部に熱が広がっていく。
「健一くん、手え洗った?」
こそばゆそうに身を捩らせる咲幸は、長女っぽい。事実彼女は長女で、お姉ちゃんだ。
「まだ。連れてって」
「もー、健一くん重いよお。汗っぽいからあんま顔近づけんでえ……って重い重いあかんって」
俺はもちろん汗臭いが、咲幸も甘さの中に汗のにおいを混ぜていた。
制服を脱いだ咲幸は、幼げな表情の中に大人びた色を混ぜて俺を惑わせる。体重をかけて肩口でへらつく俺を、意外と力強く、ひっぱっていってくれるのだ。
こういうアホな顔を、俺は彼女の前以外では絶対にしない。




