一番好きな星と、一番大好きな光
俺が地元を去る前日だった。
無事千葉の大学へ進学を決めた俺は、新居決めも引っ越し作業も終え、あとは身ひとつで赴く状態になっていた。
やることは特にない。それでも入学式直前までは実家にいようと決めていた。
咲幸の進路を見届けなくては、と。
ちょうど彼女は、採用試験の準備を進めているらしい。最後の頼みの綱でもある、科学館の。
しかし四月に入ると、いつまで家にいるのかと両親がせっついてくる。だって彼女が、と食い下がる俺。あんたがいてなにになるの! と正論を吐く母親。
くだらないやりとりに敗北し、俺は半ば強制的に千葉へ連れていかれることになった。それも明日にだ。父親が有給まで取得して送っていくと言い出してしまったため、俺にはもう打つ手がない。
仕方がないのでふて寝を決め込んだ俺のもとに、咲幸から連絡がきた。
採用が決まった。
珍しく興奮気味な声を響かせる咲幸は、少し舌をもつれさせながら俺に告げる。
臨時職員ではあるものの、今月半ばから科学館で働くことができるようになったらしい。確かにこの日、咲幸は一歩夢へと近づけたのだ。
「今日の昼にね、向こうで面接受けてさっき帰って来たとこなんだけど、今電話来たの」
「すげえな、当日即決とかあるのか」
「だで健一くんにね、健一くんに、一番に教えようと思ってね」
「いや、まず親に教えてやれよ」
「あ、そうだった」
ちょっと待っててね。はしゃぐ声を抑え、咲幸の足音が遠ざかっていく。
両親を呼ぶ、いつもより少し雑な声。その三倍くらいの声量で「馬鹿でかい声出さないの!」と女性の怒号が飛んでいた。
すぐに引っ越し準備を始めるという慌ただしさのなかに、抑えられない喜びの色が溢れている。
嬉しさが滲む声を耳に、俺は直接おめでとうの言葉を告げたくなった。
しかし翌日、俺は朝イチで千葉へと経つ。今日しかない、焦りが俺の声を潜めさせた。
「なあ、今から会えないか? 直接話したい」
「へ?」
「咲幸ん家、行くから」
あの日の俺はちょっとどうかしていた。
「……いいよ。あたしも途中まで行く」
そして、咲幸もハイテンションでおかしくなっていたのかもしれない。俺たちは親が寝静まるのを待って、家を抜け出した。
部屋を出る際、カーテンの仕切り越しに茶化す妹たちの影を覚えている。母さんたちには言うなよ。返事はなかったが、帰宅した俺を怒る声もなかった。
春先のこの地は、まだ冬の顔をしている。残雪が多く、深夜の気温は氷点下。
凍結気味の道路で何度かスリップをし、俺は一時間ほど自転車を漕いだ先で、ようやく咲幸と落ち合った。
日付が変わっていた。
山を下って来た咲幸は派手に転んだらしい。「もう履かないからいいけど」と笑いながら、指さすジャージには大きな穴が空く。
膝も擦り切れて血が滲んでいるのに、痛みがないとかゲラゲラしててどうかしちまっている。
「やば、めっちゃ寒いねえ」
「ジャージなんて寒いに決まってるだろ馬鹿。なに考えてるんだよ。とりあえずちょっと店入らねえ?」
汗が冷えだした体を震わせ、俺たちはコンビニに入った。気だるげな雰囲気が漂う深夜のコンビニには、俺たち以外客はいない。飲み物を選ぶ俺たちに、店員は終始不機嫌そうな視線を送っていた。
再び外に出ると、少し霞んだ空にはしかし雲も月もない。
「ねえ、健一くん。もうちょっと暗いところ行かない?」
「ああ。そうしようか」
咲幸は星が見たいと呟いた。
「あたしの自転車のライト、転んだ時に壊れちゃったかも。息してない」
「嘘だろ? やべえだろそれ。ちょっと見てみるからあそこらで止まるぞ」
人気もなく、車の往来すらない山中の街道を歩く。明日からはもうこんな日々が日常ではなくなるのか。それでも感慨に耽ることなく、俺たちはいつも通りだ。
俺たちの声と自転車が回る乾いた音だけが、世界のすべて。
もしかしたら世界は動きを停めてしまったのかもしれない。そうしたら、朝は訪れないのだろうか。俺たちは永遠の夜に閉じ込められてしまうのだろうか。それでも構わないような気がした。果てない夜を、咲幸と二人で生きよう。
咲幸の自転車のライトは、なぜか叩いたら直った。俺の力技に咲幸が噴きだし、俺もつられて笑った。やっぱり俺たちはいつも通りだった。
ふと見上げた夜空には、数えきれないほどの光が海の砂のように敷き詰められていた。それは過剰な例えだが、本当に一面の星空。
咲幸の住む村は、なにもないがある。ゆえに眩い星たちがある。
「春は……南天」
輝く宇宙に、俺は一年以上前に咲幸がふざけて口にした一文を漏らした。
ようよう白くなりゆく星空。なるほど、雲はないけれどわずかに空は白んでいる気がする。
「赤色だちたる麦星の、細く線引きたる。だっけえ?」
「自分で言ったんだろ」
「覚えてないよう、そんな昔のこと」
昔。そうか、馬鹿みたいに駆け抜けた17才の夏は、もう昔なのだ。
「麦星ってどれだ? アークなんとかってやつだよな」
「アークトゥルス。春の星座で、一番の瞬き。どこにあると思う?」
小さな子供にクイズを出すように、咲幸は意地悪そうな流し目をした。
俺は少しだけ悔しくなり、空を仰ぐ。咲幸と一緒に春の星空を見るのは、今日が初めてだった。
今の時間は南天にある星。四方は山に囲まれ同じ景色が続くので、まず俺は方角もわからない。
けれどゆっくりと見渡すと、目に入るのは七つの星が繋ぐ特徴的な形。凍てつく冬の空に融けた咲幸の声を思い出す。
大ぐまのあしをきたに、五つのばしたところ。
あの歌は間違いが多いと、咲幸は笑った。しかしそれを探すのも楽しいのだと。
おおぐまの尻尾を辿る。とても小さな星だ。あまりにありふれていて、俺は別のものと勘違いしてしまっているのかもしれない。無数に散らばる星と、なにも変わらないささやかな瞬き。
けれど俺たちが生きている間は、あの星が宇宙のコンパス。
北がわかれば簡単で、真逆が南。俺が体の位置をひねると、咲幸が小さく微笑んだ気がした。
最初から北はわからずとも、見つけられたのかもしれない。南の空には主張の激しい大粒の星がある。
「あれだろ、あのでかいの」
俺が指を指すと、咲幸は妙に真面目くさった顔を俺に近づける。
「ファイナルアンサー?」
「え? ふぁ、ファイナルアンサー」
沈黙が長い。
「おい、ミノさんやめろ」
咲幸が大きく息を吸いタメを作る。そして眉間にしわを寄せながら息をついた。
「ざーん、ねん!」
「え? だってあれが一番光ってるだろ」
「意地悪な問題だったねえ。あれ、土星なんだー」
「そんなのありかよ」
ひっかけじゃねえか、と咲幸を睨む。
「でもよく見てみて」
俺の隣に寄り添った咲幸が、精いっぱい俺と目線を合わせるように背伸びをして空を指す。黄金の輝きは月のない今の空では、もっとも明るい。
「あの星には瞬きがないでしょ?」
「あー、ああ。たしかにそうかも」
大きな輝きは目立つけれど、ぎらぎらとしていない。他の星々はどこか音を立てそうな瞬きがあった。
「惑星には瞬きがないの。どうしてだと思う? ……っていうのが咲幸先生からの宿題です。次に会う時までに考えてきてください」
メガネをあげるようなしぐさ。口を曲げた咲幸を俺は「なんだよそれ」と言いながら軽く小突く。
次に会う時まで、という言葉がどこか淋しさを呼び起こした。
「アークトゥルスはあの星」
土星よりも北、天頂に近い位置を咲幸の短い指が差す。派手な黄金の瞬きが確かにそこにはあった。
「もう南じゃねえよな」
「時間、経ちすぎちゃったかもね。けど、あたしが好きな星はまだ南にあるよ」
咲幸は一層俺に肩と腕を当て、ぴったりと目線を揃えようとした。
俺は少しだけ屈んで、咲幸の肩に顔を近づける。甘い匂いがした。
「あの、青白い星。スピカ」
「ああ、スピカか」
名前は知っている。きっと幾度も眺めたあのプラネタリウムでも解説されたのだろう。しかし俺は実のところ、あの解説の内容をほとんど覚えてはいなかった。
咲幸が隣で語る星の方が、断然頭に残っている。
「綺麗な星だよねえ。スピカはね、すっごく大きな星座のアルファなの」
咲幸の右手が淀みなく空を泳ぐ。ひときわ眩い星からなにかを描くように、夜空を旅する。隣で呟く呪文のような言葉の意味は理解できない。
その頭には俺のわからない点と点が、線で結ばれているのだろう。俺もその軌跡を見ようと、目を凝らし彼女の指先を追う。首が少し痛い。
「あの星座が、おとめ座。スピカはおとめ座の星。だから一番好きなんだ」
「……なるほど」
いや、全然わからなかったけれど。しかし空で輝く清らかな純白に、俺は純真で無垢な咲幸を重ねた。
「でもね」
ふいに咲幸が俺の方を向くから、甘い吐息が耳にかかり全身が震えた。そんな俺には気づかずに、咲幸は右手を少し高い位置へとずらした。
「もう一つ一番好きな星があって、それがあの光。ちょっと首、痛くなっちゃうね。……見える? 一等星の中では一番暗い星なんだ」
咲幸の指のずっと向こうには、スピカよりは暗く、しかし周りの星々よりはわずかに明るい瞬きがある。
「小さな王、レグルス」
「仰々しい二つ名だな」
「えへへ」
「というか二つあったら一番じゃないだろ」
「じゃあスピカは一番好きな星で、レグルスは一番大好きな光にするね」
「なんだよ、それ。というかレグルスの方が勝ってるのかよ。なんでだ?」
俺の素朴な疑問に、咲幸はわざとらしく腕を組み小さな唸り声をあげる。なにも考えていない、じらしているだけだ。
そうして俺に上目遣いをちらりと送ると、咲幸は小さな王を指して口を緩めるのだった。
「レグルスはね……」
次の瞬間に生まれた咲幸の無邪気な顔に、言葉に、俺は彼女を抱きしめた。
心の底から理解できた、愛おしいという感情。
あの咲幸の呟きを聞いた時、俺たちは絶対に大丈夫だという根拠のない自信が芽生えた。どんなに遠く離れてしまっても、例えば十五光年の距離を超える夏のふたつぼしのように、俺たちも気持ちを通じ合わせていられるのだと信じた。
それはきっと咲幸も同じだったはずだ。
けれど俺たちは若く、未熟過ぎた。
結果から言うと、俺と咲幸の遠距離恋愛は一年と持たなかった。
嘘か真か、遠距離恋愛を始めたカップルの七割が一年以内に破局するらしい。
だから俺と咲幸の間に起きたことは、決して珍しいことでも特別なことでもなく、言ってしまえばまあ、ありふれたことだったわけだ。




