ラークの煙と嘘の夜
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星が落ちてきて死なねえかなと願っている。彼女の瞳に映る、あの星が俺を殺すのだ。
もうすぐ築三十年を迎えるアパートは、リフォームを施された内装に外見が追いついていない。塗装の剥げた鉄階段はうっかりすると、馬鹿でかい音を響かせることもあった。
俺はその二段目に尻を乗せ、だらしなく足を開く。ポケットから煙草を取り出し、軽く口に咥えた。安物の使い捨てライターが、小指の爪ほどにも満たない微かな火を灯す。
ゆっくりと息を吸い、さらに取り入れた外気とともに煙を肺へと送り込んだ。同じくらいの時間をかけ、息を吐く。
紫煙が霞んだ夜空を隠す。細くたなびき、すぐ消えた。
会社帰り、俺は自宅前で一服をする。晴れた夜は空に瞬く星を眺めながら。曇天や雨の日は、雲の向こうにある光を瞼の裏に描く。
煙草は好きでもなかった。量は多くなくとも、惰性で何年も吸い続けている。安心するとか集中力が増すとか眠気が覚めるとか、まあ色々と宣う連中もいるが、俺がそれらの感想を抱いたことはない。
それでも宇宙の輝きを想う時は、必ず薄汚れた煙を肺に取り入れた。
なにかで身体を満たさないと、重力に負けてすべてがひしゃげてしまうそうになるからだ。
幾度も口から煙を出していると、深夜にそぐわない笑い声が耳に入る。
振り返ると、階段の下り口に若い男女が立っていた。先月引っ越してきたばかりの、カップルだ。年は俺より六つ七つ下だろう。
男の方は、おまえそれどこの会社で雇ってもらえたんだ? と訊きたくなるほど明るい金髪を、襟足で結んでいる。女の職業はアパレル系だろうと踏んでいた。
おそろいの灰色スエットに、やたらと派手なクロックスを引っ提げている。そのクロックスを鉄階段に叩きつけるように、勢いよく下りてくる。
カンカンカン! ……って、何時だと思ってるんだ、静かに歩け。呆れるけれど注意する気は起きず、俺は尻を上げ階段下で二人が降りてくるのを待った。
「ウース」
男はいつも通り髪をかきながら、薄い唇を歪める。俺もつられるように会釈を返す。こんばんは~と続く能天気な女の声は、妙に甘ったるい。
一つ隣に引っ越してきた彼らは名前も知らないが、夜中によく顔を合わせていた。
駐車場に停めてある改造したミニバンは使わず、スエットを引き摺りながら夜の道路を散歩するらしい。
唐突に、アイスたべたーいと言い出す女。「馬鹿、太るぞ」と返しながら、さりげなく男は車道側に身を寄せた。
こんな田舎の真夜中に車は走らねえよ。けれど女はそんな男の腕にしがみつき、ご機嫌な様子で長い茶髪を風になびかせていた。
絵にかいたような田舎のマイルドヤンキー兼バカップル。しかし俺はあのカップルが嫌いではなかった。男の方が、昔の高遠と浦山に似ているせいかもしれない。
アホそうな彼らは、そこそこに幸せそうだ。
来年には別れているか、デキ婚をしているかのどちらかだろう。あの手のタイプは三年付き合ってからの結婚や、五年同棲した末の破局にはあまり至らない。白黒がハッキリしている。正直羨ましい。
俺にも似たような時期があった。夏へと向かう夜風に当たりながら、街中をてろてろと徘徊した一晩があった。たった一度きりだ。正確には何人かの女とやっているはずなのに、今でも覚えている夜は一つだけだった。
俺はいつまでもダラダラ煙草を吸い続ける。何度も灰を落とし、根元が近づくまでゆっくりと煙を吸い込む。
携帯が振動して取り出すと、メッセージが入っていた。先に寝るね、という簡素な一文と続けて送られてきていたスタンプ。ネコだかクマだか判断できないキャラクターが、おつかれと労ってくれる。
もう少し遅くなる。おやすみ。
手短に打った文字を飛ばし、携帯をポケットへ戻す。灰をもう一度落とした。再び、煙草を燻らす。
俺は嘘つきのクソ野郎だ。
彼女と顔を合わせると、罪悪感で息苦しい。喘ぐような生活を続けてもうすぐ二年になる。できる限り夕飯は外で済ませ、残業をして帰りを遅らせる。休日出勤も平気で入れた。
始めは不満気味だった彼女も、諦めたのか先に寝ていることが多くなった。
戸田ではないけれど、もしかしたら俺も浮気を疑われているのだろうか。
けれど俺は浮気はしない。
仕事の外で女と話すこともなければ、食事をすることもない。だから当然どこかで身体の関係を持つような人間もいない。
俺は仕事とプライベートの携帯を分けているが、私用携帯の連絡先にある女の名前など、一人だけだ。もちろん仕事用のものを不埒なことに利用するはずもない。
彼女が不安がるのなら、ひとつひとつ中身をさらけ出して確認してもらっても構わなかった。
俺は絶対に、浮気はしない。
……それも本当は嘘だ。
そもそも浮気とはなにをもってして浮気になるんだ。中学時代の同級生に「別の男の半径一メートル以内に近づいたら許さねえ」とか言ってたやべえ奴がいるけど、元気だろうか。監禁罪とかで捕まっていなければいいけど。
もしもその単語が心そのもののあり場所をも含めるのならば、俺は許されないだろう。
心はもう浮くどころの騒ぎではなく、飛んでしまっている。ここではない、遠い町に住む彼女の元へ行ったきり帰ってこない。生まれ育った内陸の田舎町に、もうずっと居着いている。
俺の心はあいつを追いかけて、手繰り寄せても戻って来ようとしないのだ。嫌だ嫌だとわがままなガキみたいに、あいつに貼り付いて拒んでいるのだ。
現実に縛られる心なき俺が、どうにかこの生活を保っている。
階段に寝そべってしまうほど身体を倒し、煙を吸ったり吐いたり繰り返す。
この先何年吸い続けていても、俺がこれを美味いなどという日は訪れないだろう。
煙草を始めたきっかけが失恋なせいか、どんなにゆっくり味わっても苦さだけが残る。
十九歳の冬、ふと買ってみた銘柄を今も吸い続けている。
コンビニ店員はなにも言わなかった。けれどあの時彼女が一緒にいたのなら、きっと怒ってくれたに違いない。
そもそもあいつが側にいたら、こんなものを吸おうとすら考えなかったわけだが。
ヤニを吸収しまくった口で、キスなんかしたくねえよ。体も口もくせえし。それにあいつはコーヒーやらゴーヤやら、苦いものが苦手だったからなおさらだ。
なによりもこの煙が彼女を汚してしまいそうな気がして、気が引ける。
だるい。三文字を感情もなく吐き出した。鉄階段で冷え切った身体は重く、溶け出して液状になりそうだ。スライムのようにでろでろと階段から流れ落ちて、地面に吸収される。いっそそのまま土に還って消えたっていいよ。めんどくせえ。
欠伸をして目を瞬き、星空を仰いだ。
春を代表する星座の尻尾を辿ると、同じく小さな熊の尾にたどり着く。
その星をいくら見つめても、わかるのは自分が向いている場所だけだ。どこを目指して歩を進めればいいのか、わからない。わからないんだよ、咲幸。
けれど俺はいつだって夜空を眺めては、二度と触れることのできない星を求めている。それは、罪だろうか。




